はじめまして、お父さん ①
強い風がふいて、颯人は思わず目を閉じた。颯人の髪をくしゃくしゃとかきまわした風は、いたずら小僧のようなすばしっこさで坂道を駆け上ってゆく。近くの電柱にくくりつけられていた看板が、無遠慮な風に抗議するようにガタガタと揺れた。
夏もそろそろ終わりに近付いた八月の日曜日。アスファルトで舗装された道路には湿気を含んだ空気がのろのろとただよっている。噴き出る汗をぬぐいながら、颯人は坂道を急いだ。
東京西部、T市風ヶ丘。ニュータウンと呼ばれるこの地域は、その名の通り一年中よく風がふく。
休日の閑静な住宅街。長く続く坂道を、颯人は黙々と歩いた。途中の道幅がせまい道路では、二台の車が譲り合うようにゆっくりと行き交っている。お互い片手を上げて会釈する運転手は、このあたりの住人なのかもしれない。道路の端に身を寄せて車をかわしながら、颯人はしばし天を仰いだ。
「あつい」
立っているだけで汗が浮かぶ。ポケットからハンカチを取り出すが、ぐっしょりとぬれたそれはもう使う気にはならなかった。思わず舌打ちをしかけた口を慌てて引き結ぶ。なにかあるとすぐに舌を鳴らすその癖は、子どもっぽいからやめなさいと先日ある人に注意されたばかりだった。
深いため息をついて、颯人は歩き出した。道の左右に並ぶ大きな家は、少し古いが造りはしっかりしているようだ。どこかの家が開け放ったベランダからは、テレビのニュースが聞こえていた。どうやら台風十号が接近しているらしく、ニュースキャスターが防災と避難の準備を呼びかけている。街頭インタビューらしき人の声が、家が被害に遭わないか心配だと訴えていた。
被害の心配をする家があるだけマシだろうと、颯人は思う。こっちは帰る家どころか、今晩の宿さえ決まっていないというのに。
いじけた気持ちで半ばやけくそに足を進めていると、やがてひらけた場所に出た。
坂のてっぺん。小さなロータリーのような広場から、細い道へ入って二つ目の通りを右へ進むと、目的の家は目の前だった。
門の前で、颯人はしばし立ちつくす。大きくはない鉄柵が、両手を広げた門番のように自分を拒んでいる気がした。
呼鈴を押そうと伸ばした指がかすかにふるえる。手のひらが汗ばんでいるのは、なにもこの湿気のせいだけではなかった。自分が緊張していることに気づいて、颯人は今度こそ小さく舌打ちをした。
深呼吸をして気持ちを落ち着け、呼鈴を押す。家の中から響く呼び出し音に、颯人は背筋を伸ばした。そのまま五秒が経過する。
「あれ?」
もう一度呼鈴を押し、今度はゆっくりと十数えた。家のドアはかたく閉じたまま、誰かが出てくる気配はない。
「マジか」
まさか、留守だろうか。
張りつめていた気がゆるみ、暑さの波が押し寄せてくる。長い坂道で疲れた足が重い。緊張がほどけたせいか、今まで遠くに響いていた蝉の声がやけに近くに感じた。
落胆と安堵がまじったため息をはく颯人の後ろを、トラックのエンジン音が通り過ぎていく。やがてバック音を鳴らしながら戻ってくると、トラックは家の前でぴたりと止まった。
運転席のドアが開き、男がひとり、軽い身のこなしでひらりとおりてくる。男はそのまま軽快な足で颯人の前に駆け寄ってくると、ぱっと帽子をとってお辞儀をした。
「どうも! 大きな安心、結果でみせます! 安全、迅速、丁寧の引っ越しオーケーです!」
にこりとした爽やかな笑顔は、颯人と変わらないほどに若い。
「すみません、少し道に迷ってしまいました。この先の道がせまくて車両が上手く寄せられそうにないんで、一度引き返してからバックで入り直しますね。すぐに戻るんで、しばらくお待ちください」
男は大きな声で早口にしゃべり終えると、颯人が口を開く間もなく、ぱっと身を返してトラックへ駆けて行った。それからすぐに段ボールを二箱抱えて戻ってくる。
「では、これだけ先にお渡ししますね。現地のお客様に必ず手渡しするようにと承っております」
「いや、僕は」
慌てて手を振ろうとした颯人に箱をぐいと押し付けると、若い引っ越し屋は急に距離を詰めて顔を近付けた。それから楽しそうに耳元で囁く。
「大事なものなんでしょ?」
だ、い、じ、な、と一字ずつ区切るように言ってにやりとする。颯人は焦った。
「いや、違いますって、僕は」
「大丈夫! みなまで言わずともわかっていますよ。やっぱり男のバイブルは簡単に他人には預けたくないですよね!」
「いや、だから」
「そんな時こそ弊社にお任せ! お客様とともに、健康第一! 安全、迅速、丁寧の引っ越しオーケーです!」
「ちょっと話を」
「では後ほど」
勢いよく一礼して帽子をさっとかぶると、男はあっという間に走り去った。ブォンというエンジン音が遠ざかるのを、颯人は唖然とした顔で見送る。
なんだったんだ、今のは。
開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。トラックが消えた道の先を呆然と見つめていた颯人は、両手に抱えた段ボールを見下ろしてはっとした。
ぼんやりしている場合じゃない。これではまるで泥棒だ。あの粗忽な引っ越し屋に荷物を返さなくては。
ついでにひとこと文句をいってやろう。業者なら引っ越し先の住人かどうかくらい、しっかり確認するべきだ。
段ボールを抱えたまま、トラックを追いかけようと道に飛び出す。すぐさま走り出そうとした颯人は、目の前に立っていた人影に気付いて慌てて足を止めた。
「すみません!」
ぶつかりそうになったのをこらえて、とっさにわきに避ける。反射的に謝罪の言葉がころがりでた。
颯人が顔を上げると、そこにはピシリとしたスーツ姿の男が立っていた。不機嫌を絵に描いたような仏頂面には似合わない、可愛らしいピンク色のベビーカーを押している。
「失礼。家に入りたいのですが、そこを通して頂けますか」
仏頂面がしゃべった。よく通るいい声だ。
「は、はい! すみません!」
ばたばたと三歩後ろにさがって、颯人は目の前の男をまじまじと見つめる。家に入りたいということは、この男がこの家の主だろうか。
ふにゃとした声がして、颯人は足元に目を落とす。声はベビーカーの中から聞こえてきた。
ベビーカーの中では、ふっくらとした頬の赤ちゃんが、天使のような顔ですやすやと眠っている。
愛らしいその寝顔に一瞬見とれていると、男は門を押し開けてポケットから鍵を取り出した。
間違いない、この人だ。それじゃあ、この赤ちゃんはもしかして――?
ドアを開けた男が、赤ちゃんを抱き上げた。
たたんだベビーカーをドアの端に寄せ、男は家の中へと入っていく。その背中に向けて、颯人は声を張りあげた。
「あの!」
男が振り返った。
「あの、この家の方ですか?」
「いいえ」
男は短く答えると、軽く会釈をしてドアの向こうへ消えて行った。段ボールを抱えて立ちつくす颯人の目の前でドアはゆっくりと閉じてゆく。
颯人がもう一度口を開いたと同時に、ドアはばたんと閉まった。