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まるで母親の胎内にいるような、不思議な落ち着きを感じる空間だった。ここが自分の心の中の世界であることを、カナエは本能的に理解する。
高い丸天井を見上げると、そこには粘ついた糸のようなものに絡みつかれた巨大な繭玉が、今にも落下しそうなほど重く垂れ下がっていた。じっと見つめるカナエの目の前で、醜くひび割れた繭玉の僅かな隙間から、大きくて白い何かがゆっくりと這い出てくる。
――氷の女王の、腕。鋭い氷の爪で飾られた五本の細い指が、カナエを誘うように、カナエを嘲笑うように、不規則な動きで踊り出す。
「……っ」
ぞっと背筋を震わせたカナエが思わず顔を背けると、すぐ近くに幼い少女が佇む姿を見つけた。小学生のころの自分によく似た少女に向かって、あなたは誰、とカナエが尋ねようと口を開いたとき。
「もうすぐ、溶ける」
「!」
抑揚のない少女の声に撃たれたかのように、カナエはよろめく。目の前の光景が、氷の女王の封印段階を視覚的に表現していることは察しがついていたが、はっきりと言葉にされたことで全身が震え出した。
「この封印は、もう止まらない。氷の女王は、あなたを取り込んで復活する」
淡々と言い渡される、残酷な処刑宣告。けれどカナエには、自分という存在が終わってしまうことよりも、もっと痛くて悲しくて悔しいことがあった。
「……私は、何もできなかったんだね」
氷の地面に映る呆けた顔と見つめ合いながら、力の入らなくなった腕を振り子のようにゆらりと揺らす。自分の無力を嘆いて涙を流すことすら、今のカナエにはできない。
「異世界にいたときは、ずっとみんなに助けてもらってばかりだった。やっと、やっと、今度こそ私がみんなを守れるって、そう思ってたのに……っ」
結局、自分は何もできなかった。ひとりでは、何もできなかった。
強くて優しくて大好きな仲間たちの隣に並ぶことが、とうとうできなかった。
そのことが――きっと死ぬことよりも、もっと痛くて、悲しくて、悔しい。
「諦めて、いいの?」
「……え?」
「カナエは、諦められるの?」
少女の熱い光を湛えた目が、カナエをじっと見つめている。
「マコトは、みんなは、諦めてないのに?」
マコト。みんな。一緒に戦った大事な仲間たちの顔が、次々と浮かぶ。一緒に過ごした大事な思い出が、次々と蘇る。
「……諦めないよ。諦めるわけないっ、諦められるわけ、ないよ……!」
あの場所に帰りたい。また、あの場所で笑いたい。
まるで駄々をこねる子どものように、何度も何度も頭を振り続ける。
皮肉にも、氷の女王の封印が溶けたことで、一緒に閉じ込めていたはずのカナエの希望が再び目を醒ました。山頂の雪で嵩を増した川の水のように、もはや止めようもなく激しく溢れ出す。
「ねえ、カナエ。氷が溶けると何になるか、知ってる?」
――ねえ、カナエちゃん。氷が溶けると何になるか、知ってる?
異世界で聞いたマコトの声と、目の前の少女の声が重なった。「わたしは知ってるよ」と、嬉しそうに胸を張る少女を見つめながら、カナエは震える唇を開く。
「……知ってるよ。私も、知ってる」
氷が溶けると、何になるか。
そう、氷はいつか溶ける。
氷が溶けることを、畏れなくてもいい。
そうだ。なぜなら。
「……でも、氷の女王。あなたは、知らないでしょう。あなたがいる世界は、凍ってしまうから。あなたは、氷が溶けたあとの世界を見ることができない」
満面の笑みを浮かべた少女が、そっとカナエの手を握った。刺すような冷たさ。けれど、それこそが彼女の温もりだ。紛れもない優しさに背中を押されて、カナエはゆっくりと顔を上げる。
「私があなたに、春を見せてあげる」
氷の女王への、宣戦布告。三年も一緒にいて、今、ようやく立ち向かえた。
不気味に蠢く白い腕も、ひび割れて崩壊する白い繭も、異様な熱を帯び始めた空間も。カナエはもう、何も怖くはない。傍らの少女と目を合わせ、少女と同じように微笑む。そうして。
――カナエちゃん!
「!」
雷に打たれたかのように、全身が跳ねた。顔が上がる。胸を逸らす。足を踏み出す。
マコトの声が聞こえた。ヒカリの声も聞こえた。たくさんの声援が聞こえた。ライブ会場で咲くファンの笑顔が、光のトンネルを抜けた先に広がっていた。
「――歌って!!」
そうだ。仲間が、メンバーが、ファンが、みんなが、待ってくれている。
本当の自分を表現できる曲を。
自分の心からの想いを込めて。
カナエは――歌う。




