8-7
「……思い出した?」
「ああ」
「うん、思い出した」
頭上にかざしていたライブパネルを降ろしてワンタッチで収納すると、タイシはミサキの問い掛けに軽く頷いた。両脇で立ち尽くしている二人も、どうやら無事に最後の記憶を取り戻したようだ。
「この距離で本当にカナエと視線が合うのかどうか、ぶっつけ本番で試すしかなかったのは、なかなかの賭けだったが」
「一応、エリヤの記憶が戻ったときは、向こうは地上で僕が屋上だったから、大丈夫かなとは思ってたんだけど……よかった、本当に」
ホッと安堵するユウを労わるように、アニマルロンドのペンギン型ロボットが足元に擦り寄る。ユウと別行動をとる前にAIインフォメーションに連絡し、ライブ会場の警備にあたっていたロボットの一部を迷子の捜索と称して公園に派遣したことが、タイシの目論見通りに働いたようだった。都合よく――ミサキに言わせれば運命的に、やってきたロボットがスケートリンクイベントでユウに懐いていたペンギンだということも、スムーズな状況の打開に貢献していたのだろう。まさに破竹の勢いで氷の兵士を粉砕したのだと興奮気味に話すユウを見て、ぽっと出のペンギンにお株を奪われたエリヤの悲哀を思ったが、今はそんなことはどうでもいい。今は。
二つ目の作戦は成功し、カナエの記憶は完全に戻った。残るは最後、三つ目の作戦。けれど、そのためのトリガーの引き手は、まだ会場に到着していない。
「ねえ。カナエちゃん、なんだか様子がおかしくない?」
「どうしたんだろう。ひょっとして、体調でも悪いのかな……」
一向に歌う様子も見せず、それどころか苦し気に胸を抑えているカナエの様子に不安を覚えたファンのざわめきが、どこからともなく波を起こす。おそらくは三人分という大容量の記憶を取り戻した衝撃と、それによって生まれた己の心の変化に耐えているのだろう。つくづく真面目な奴だと思うが、だからこそ救わなければならないとも思う。
「あと一分でマコトとエリヤが辿り着かなければ、俺が――」
タイシの言葉をかき消すように、ぱきんという硬質な音が会場内にこだまする。思わず身構えた瞬間、タイシの背丈をゆうに超えるほどの巨大な氷の結晶が、まるで群生する樹木のように乱立しながら野外音楽堂を取り囲んだ。
異世界で何度も目にした、氷の女王の力。封印が更に弱まったことで、現実世界にもここまでの影響を与えることができるようになったのだろう。ライブ会場を外と遮断し、マコトとエリヤの侵入を阻んだ。間接的な妨害ばかりで直接的な攻撃を行わないのは、氷の女王のポリシーなのか。異世界でも、真綿で首を締めるようなことばかり仕掛けてきたことを思い出す。けれど、この期に及んでその信念を貫くことができるものだろうか。氷の女王から生まれたというあの少女が女王を抑制しているのか。あるいは、少女本人が――。
「ッ!」
余計な思考に時間を取られたタイシが、己の判断ミスに気づいて息を呑む。
突然の不可思議な出来事に怯えたファンの間から、一度でも恐怖の悲鳴が上がってしまえば、会場中が混乱する。間違いなく、ライブは中断されるだろう。そうなれば、最後の手段を行使する機会はなくなる。仕切り直そうにも、既にカナエは仲間全員の記憶を取り戻している。氷の女王の封印は、限界を迎えているはずだ。今を逃してしまえば、カナエを救うことは、もう――できない。
真っ先に行うべきことは、事態の原因究明ではなく、事態の現状打破だった。初動を完全に間違ったタイシの耳に飛び込んできた、第一声は――。
「うわー、すっごーい! これってデコレージョンなんでしょ!? こんな大がかりな演出ができちゃうなんて、さっすがファントムカンパニーよねっ!」
棒読みな説明台詞が、すぐ隣から上がったことに驚いて、タイシは反射的に顔を向ける。両手をメガホンのように使ったミサキが、誰よりも早く大声を上げていた。
「あ、あまりにもリアルだから、何かの事件かなってちょっとびっくりしたけど! でも警備のロボットがこんなに落ち着いてるんだから、何も怖がることなんてないよね!」と、ミサキに続いたユウが、抱き上げたペンギンを頭の上に掲げて安全安心をアピールしている。ユウに遊んでもらえたと思っているのか、呑気なペンギンが嬉しそうに鳴く声が、会場中に響いた。
「え、デコレージョン……?」
「そうだよな。普通に考えたら、演出だよな」
「これ触れるし、触ったところが冷たいような気もするんだけど……でもでも、きっとそういう風に錯覚してるだけなんだよね。だって、デコレージョンなんだし。実体なんかないんだし」
「スターレット、すごい! 野外ライブで、こんな派手な演出までしちゃうんだ!」
「あのペンギンロボット、可愛い!」
ミサキとユウの誘導によって正常性バイアスが発動したのか、逆にファンたちの熱気が高まっていく 。拍手や歓声で盛り上がる周囲を他所に、三人は横並びのまま長い息を吐いた。降参のポーズで両腕を軽く掲げたタイシの手に、ミサキとユウが両側からタッチする。
「けがをした人も、いないみたいだわ」
「それなら、作戦続行でいいよね?」
二人の言葉に軽く頷きながら、タイシは眼鏡のブリッジを押し上げた。「残りの問題は……」
まだ会場の外にいるはずのマコトとエリヤが、氷の結晶によって封鎖された音楽堂の中へ入るにはどうすればいいか。その打開策を求めて、タイシが頭を巡らせたとき。
「!」
何十枚ものガラスを一斉に床に叩きつけたような甲高い音が、斜め後方の中央入場口から響き渡った。
立ち上がる激しい水蒸気の向こう側から現れたのは、予想通りの二人分の人影。いや、片方が未だにゴーちゃんの着ぐるみを被っているということだけは、タイシの想定の範囲外ではあったが。
「マコト! エリヤ!」
「やっと来たわねっ。待ちくたびれたわよ、もう!」
おそらく、氷の結晶を外側から力づくで粉砕したのだろう。そんな荒業を成し遂げた当の本人は特に何の達成感も得ていないのか、フードの奥から煩わしそうな視線をこちらに投げかけてきた。
「カナエちゃん!!」
ゴーちゃんの中のマコトが、ステージの上で俯くカナエに呼びかける。そうして、救済作戦の最後のトリガーを引いた。
「――歌って!!」




