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「不思議だよね。さっきまで確かに忘れていたはずのミサキちゃんのことを、ボクはいきなり思い出したんだ。ミサキちゃんと一緒に、異世界を救ったということも」
「アタシも同じよ。そんなこと、今の今まですっかり忘れてたわ」
感動の再会を果たした、その数分後。マコトとミサキは、頑張ればトナカイのように見えなくもない奇妙な形のベンチに並んで座っていた。氷の城を遠目に眺めながら、ゆっくりと現状を整理する。
「異世界を救っただなんて、まるでアニメやゲームみたいな話よね。真顔で話しているのが恥ずかしいくらい」ミサキは、大きなため息をついてベンチの背もたれに体を預けると、薄暗い空を仰ぐ。「でも、事実だわ」
迷いのない、まっすぐな言葉に打たれて、マコトも「うん」と強くうなずく。
自分でも不思議だと思った。ずっと忘れていた記憶を、一瞬で思い出すなんて。なおかつ、その記憶が確かに本物だと確信できているなんて。
「でも、どうしても気になることがあるのよ。マコトは本当に、アタシたち二人で異世界を救ったと思ってるの?」
「思ってないよ」
異世界を救ったことは間違いない。そこを疑うつもりはなかった。けれど、ミサキと同じ引っかかりを感じていたマコトは、きっぱりと断言する。
「あ、ミサキちゃんが頼りないと思ってるわけじゃないんだ」
それだけは誤解してほしくないと、マコトは慌てて言葉を重ねる。そう。ミサキが頼りないなんてこと、ある訳がない。寒さで俯くマコトの顔を、温かく力強い言葉で上向かせてくれた。吹雪の中だろうと常に先頭を歩いて、光の差すほうへ導いてくれた。ルーブル美術館に飾られている、ドラクロワの絵画。『民衆を導く自由の女神』のように。
「わかってるわよ。アタシだって、マコトだったら世界のひとつやふたつくらい救えると思ってるわ」
その台詞には、ともにひとつの大きな冒険を乗り越えた仲間だからこその、はっきりとした信頼が宿っていた。マコトはうれしさのあまり、ぐにゃぐにゃになりそうな口元を抑えながら、小さく感謝の言葉をこぼす。
「でも、絶対に何かが足りないのよ」
「……うん」
ふと、助けた子どもの背中を見送ったときの切なさや、仲の良い小学生グループに対して覚えたさみしさを思い出した。マコトが、ずっと失ったと思っていたもの。マコトが、ずっと欲しいと思っていたもの。それは、きっと。
「ボクたちには、まだほかに仲間がいるんだと思う」
まるでマコトのその言葉をきっかけとしたかのように、氷の城のライトアップが変化した。青色や紫色をミックスした光が、緑色から黄色へのグラデーションになる。時間の経過で、自動的に切り替わるシステムなのだろう。
ミサキからの返答はない。沈黙を肯定と受け取ったマコトは、切り口を変えて会話を続ける。
「ちょうど、こんなクリスマスの時期だったっけ。小学三年生の冬に、ボクたちはこの世界から別の世界に飛ばされた――そうだよね?」
「ええ。どうしてそんなことになったかは思い出せないけど、別に理由なんかどうでもいいわ。大事なのは、飛ばされた先でアタシたちがなにをしたかよ」
長い髪の先を細い指でいじりながら、異世界転移などという不可思議な現象すら、なんでもないことのようにミサキは言い放つ。その姿は三年前とまったく変わることなく、マコトの目に頼もしく映った。
「よりにもよって、雪と氷の世界に行くことになるなんてね。本当に最悪だったわ」
「ミサキちゃん、寒いの苦手だったもんね。もともと、あの世界は一年を通して冬みたいに涼しかったみたいだけど……ボクたちが移動してきた直後は、異常なほど天候が荒れ狂っていた」
「住人たちの心だって冷たくなっていたわ。あの――『氷の女王』のせいで」
ミサキの小さな紅い唇から、その名前が音として産まれた瞬間。マコトは、周囲の空気が一度も二度も下がったような錯覚に襲われた。さすがのミサキも、思うところがあったのだろう。いつもの勝ち気な表情に、わずかな緊張の色が浮かんでいる。
――氷の女王。それは、平穏な雪の世界を混乱に陥れた元凶。異世界の人々を救うために、そしてマコトたちが元の世界に戻るために、絶対に倒さなければいけなかった存在。
「……ねぇ、ミサキちゃん」仇敵の名前は鮮明に覚えている。恐ろしさも、おぞましさも。けれど。「こうして無事に戻ってこられたってことは、ボクたちはちゃんと氷の女王を倒せたんだよね?」
現状から考えれば、マコトとミサキは確かに氷の女王を倒したはずだ。それなのに、なぜだろう。どこからともなく現れた不安が、胸の奥で霧のように広がっている。
「なに言ってるのよ、当たり前じゃない」
そうだ。一緒に異世界を旅したミサキが断言するのなら、きっと間違いない。心配することなど、なにもない。自分自身に言い聞かせてから、マコトは小さく笑ってうなずいた。
「うん、そうだよね。変なこと言ってごめん。思い出せた記憶が断片的だからかな、ちょっと曖昧な部分も多くて……」
「確かにね。アタシも、マコトと一緒にいる場面しか思い出せないみたいだし」
「えっ、ミサキちゃんも?」
不思議なことに、マコトが取り戻した異世界の記憶は、ミサキといるときのことだけだった。ミサキと見た風景の美しさや、ミサキと食べた料理の味は思い出せても、それ以外の誰かとなにかをした記憶はない。ないはずはないのに、思い出すことができない。
「なんで、こんなことになってるんだろう。これじゃあ、ほかの仲間を探したくても、手がかりがなさすぎるよ……」
「そうかしら? そんなこともないんじゃない?」
ポジティブな少女は、いつだってマコトに希望をくれる。がっくりとうなだれたマコトの耳に飛び込んできたミサキの声は、どこか楽しげな響きを帯びていた。
「現にアタシたちは、ここで再会できたんだもの」
「……あ」
ミサキの細い顎先が、わずかに上向いて指し示した先にあったものは――氷の城。異世界での記憶を取り戻した今、改めてよく見てみれば、それはあの氷の女王の居城に、とてもよく似ていた。
「はっきりした記憶がなくたって、なにかを感じることはあったのよ。だから、アタシはここに来た。マコトも同じでしょう?」
「うん。それじゃあ、ほかの仲間もボクたちと同じようにクリスマスマーケットに来て、氷の城を見に来るかもしれないってことだよね。ここで待っていれば会えるかもしれな……あ、でも」
わくわくした気持ちを抑えきれず、思わず立ち上がりかけたマコトだったが、視界いっぱいに広がる来場客を見て、おずおずとベンチに座り直した。
「これだけ大勢の人がいると、どう探していいのかわからないよ。なにか目星みたいなのはつけられないかな……」
「マコト。カールストックさんのこと覚えてる?」日本で普通に暮らしていれば、まず馴染みのないカタカナの人名。それでも、異世界の記憶を思い出しているマコトには思い当たることがあった。
「覚えてるよ、あの占い師さんだよね? ボクたちに異世界のことを色々と教えてくれた、サンタクロースみたいな優しいおじいさん」
「あの人、アタシたちのこと『選ばれし子どもたち』って言ってたわよ」
「……あっ、本当だ! 確かに言ってた! と、いうことは?」
「わざわざ『子どもたち』って限定してるくらいだもの。ほかの仲間も、アタシたちと同年代の可能性が高いわね」
「それじゃあ……」わき上がる期待に、マコトの喉がごくりと音を立てる。「ボクたちのように、泣きながら氷の城を見つめている中学生を探せばいいんだ!」
「アタシは泣いてなんかないわよ」
「えっ? ……あ、うん、そうだったね」
自分の弱みを見せることが死ぬほど嫌いなミサキは、ときどき信じられないほど頑固になる。触らぬ神に祟りなし。異世界で学んだ教訓を頭の中に思い浮かべながら、マコトはゆっくりと首を縦に振った。
「興味深い話をしているな」