7-4
気がつけば、どこまでも続く大きなトンネルの中にいた。ガラスでできた蜂の巣のような不思議な形をしているせいか、圧迫感は少ない。部屋着姿のマコトは、寒さに両腕をさすりながら辺りを見回した。
仲間の姿は、どこにもない。けれど、一緒にこの場所へ飛ばされたことは間違いないだろう。頼もしい彼らのことだ。きっと無事でいてくれるし、きっと合流のために動いてくれている。そう強く信じて、マコトは顔を上げた。
ここが氷の女王の作り出した異空間だということは、すぐにわかった。マコトは、懐かしさを混ぜ込んだ重い溜息をつく。
氷の女王が、生きている。その最悪の想像が現実になった今、次に考えなければいけないことは、自分たちをここに連れてきた目的だ。いつもの気まぐれなのか。それとも、もっと別の理由があるのか。
「っ!」
ふと背中に視線を感じて、マコトは勢いよく振り返る。さっきまでは確かにいなかったはずの小さな人影が、いつの間にかそこにあった。
「カナエ、ちゃん……?」
マコトの記憶の中にいる、小学生のカナエ。長い髪の白いドレス姿の少女は、驚くことに、冷たい氷の上を裸足で平然と立っている。
「マコト、あのときのこと覚えてる?」
少女の言葉とともに、周囲の様子が変化した。ガラスのトンネルを構成していた沢山の六角形が、そのひとつひとつに別々のなにかを映し出す。
それは、マコトの記憶の映像だった。三年前の異世界での思い出が、左右の壁や天井を覆い尽くして無音で流れ続ける。ざっと周囲を見回したマコトは、登場人物がやけに少ないということに気づいた。おそらくは、カナエと一緒にいるときの情景だけがピックアップされているのだろう。
「覚えているよ。あのとき、ボクが氷の女王を倒すことをためらってしまったから、カナエちゃんが別の道を選択してくれたんだ。――氷の女王を、封じることを」
いつの間にか目線が下がり、映像ではなく地面を見つめていたマコトの手を、カナエの姿をした少女が優しく握る。「こっちに来て」
マコトが驚いて目を瞬いている間にも、少女はマコトを連れて、どんどんトンネルの奥へ進んでいく。目まぐるしく変わる映像の中を、振り返ることなく、まっすぐに。
「どうして、氷の女王を倒すことをためらったの?」
「……氷の女王に、言われたんだ。自分を倒したら仲間たちの記憶は失われる、って」
それは、人を揶揄うことが大好きな氷の女王の、いつもの戯言だと思った。それでも、マコトの足を止めるには十分すぎた。振り上げた拳を止めるには、十分すぎる痛みだった。
「最後の最後で、ボクは迷ってしまった。いつかみんなと離れ離れになったとしても、みんなのことを忘れたくなんてなかったから」
異世界に来たことで、仲間たちとの接点が初めて生まれた。記憶をなくして現実世界に戻ってしまったら、もう二度と巡り合えないかもしれない。マコトにとって、それはなによりの恐怖だった。
「そのボクの弱さが、カナエちゃんを犠牲にした。氷の女王を倒す、たった一度だけのチャンスを不意にしてしまったボクに、彼女が提案してくれたんだ。縁者である自分の中に氷の女王を封印する、って……」
トンネル内の映像が、そのときのカナエの笑顔でいっぱいになる。そうだ、こんな風に笑っていた。怖くて堪らないはずなのに、カナエは笑っていたのだ。
――マコトくん。私、頑張るね。
悲劇の前夜にカナエが口にした決心の、本当に意味するところがわかったのは、そのときだ。カナエは既に覚悟を決めていた。いざというときに、自分が犠牲になる覚悟を。
「そんなことを、してほしかったわけじゃなかったのに……!」
腹の奥底から、唸るような声が這い上がった。重くなった足を止め、カナエの笑顔から目を逸らし、少女とつないでいないほうの手を強く握り込む。
「ボクが弱かったから、ボクがみんなを信じることができなかったから、だからカナエちゃんは今も苦しんでる。ボクたちと離れて、一人になることを選んでる。そんなのって、そんなのってないよ……っ」
「マコト……」
こちらを見上げる少女の視線を感じて、マコトはゆっくりと顔を向ける。心配そうな瞳を無言のまま見つめ返してから、ずっと気になっていたことを口にした。
「……キミは、誰?」
びくっと、少女が震える。余計な不安を与えてしまわないようにと、努めてゆっくり、できるだけ優しく、マコトは言葉を重ねた。
「カナエちゃんはボクのことを、マコトくんって呼ぶんだ。だから、ちょっと変だなって」
ほんの些細な違和感を、最初から引き摺っていた。氷の女王の悪戯ではないかと、警戒していた。けれど、その予感は間違いだったのだと、なんとなくわかる。
「それと、カナエちゃんの手は、もう少し温かかったから」
少女と握っているマコトの手は、まるで凍りついたように冷たくなっている。それを聞いて慌てて離れようとする少女の小さな手を、今度はマコトのほうからそっと握った。
「大丈夫だよ」
気にしていないと首を振るマコトを見つめていた少女が、初めてゆるりと微笑む。「……ありがとう」
咄嗟にマコトを傷つけないようにと動いた少女の行動で、マコトは確信する。氷の女王の異空間という悪の巣窟のような場所に存在しているが、彼女には女王のような悪意はないと。この少女は、とても優しい女の子なのだと。
「私は、カナエの中にいる氷の女王から生まれたの」
「生まれた?」
唐突な告白に、マコトは思わず目を瞬く。大きく頷いてマコトを見上げる少女の表情は、とても力強い。見た目は幼いカナエの姿をしているが、中身は全く違う人格だということが、はっきりとわかった。
「ここは、カナエの心の中を投影した異空間。氷の女王の一部である私がつくって、あなたたちをここに連れてきた」
「どうして?」
マコトの手を引いて、再び少女が歩き出した。雪山と氷の城の映像で溢れるトンネルを進みながら、ゆっくりと話し始める。
カナエの心の中を、そのままそっくりコピーした異空間。三年前の最終決戦の日から、氷の女王を体内に封じているせいで、カナエの心の中にはこんなにも冷たい世界が広がっているのだと、少女は教えてくれた。
「氷の女王がいるから寒いんじゃないの。氷の女王を封印するために、カナエが心を凍らせているの」
「心を、凍らせる?」
「今のカナエは、あまり笑わないの。笑いたくても、笑えないの。楽しいことがあっても楽しいと、嬉しいことがあっても嬉しいと、そう感じてはいけないの。あったかい気持ちは、心の中をあったかくしてしまうから。氷の女王の封印が、溶けてしまうから」
「そんな……!」
今のカナエと昔のカナエの様子が違う原因に、そこまで深く氷の女王が影響していたという事実にマコトは驚く。雪の中で咲く一輪の花や、空を覆い尽くすほどのオーロラを見て、目を輝かせながら全身で喜びを享受していた幼いカナエ。感受性の強い優しい彼女が、己の表面にさざ波のひとつすら起こさぬようにと、必死に心を殺している。マコトには、筆舌に尽くしがたい責め苦だと思えた。じわりと、目の端に熱い涙が滲む。
「カナエは頑張ったの。とっても頑張ったの。今もいっぱい頑張ってる。でも、自分を偽り続けることは難しい。マコトたちのように優しくて温かい人たちが、今もカナエの周りに沢山いるから」
この世界に戻ってきてから、カナエが出会った人たち。マコトの頭の中には、真っ先にヒカリの笑顔が浮かんだ。スターレットのメンバーである彼女は、常に明るい光を放ちながらカナエの傍にいたのだろう。あの熱を受けて解れない心は、きっとない。
「少しずつ、ゆっくりと、氷の女王の封印が溶けかけてきた。そんなとき、マコトに出会ったの」
ほんの数日前の握手会での出来事を思い出して、マコトは目を細める。あのときの拒絶は、やっぱりカナエの本心ではなかったのだ。記憶を思い出した彼女は『必ず助ける』というマコトの言葉を、どんな気持ちで受け取ったのだろう。
「マコトと再会して、氷の女王の封印が一気に弱まった。心があったかくなって、迷ってしまったから」
それが良いことなのか、悪いことなのか。マコトには判断がつかない。カナエには笑顔を取り戻してほしい。けれど、氷の女王の封印を解くこともできない。
「でも、そのお陰で、私は生まれてくることができた」
「え?」
目の前が急に明るくなったのは、トンネル内の映像が夜明けの太陽に切り替わったからだろうか。それとも、先を歩いていた少女が振り返り、嬉しそうに笑ったからだろうか。
「私は、カナエを助けたい。カナエに笑ってほしい。カナエに歌ってほしい。カナエの中のあったかくてやさしい気持ちを、凍らせたままにしてほしくない」
カナエが、心を殺しながら必死に封じ込めている氷の女王。その女王から生まれたはずの少女が、カナエの救済を心から願っている。その矛盾と、その奇跡に、マコトの胸が熱く震えた。
「……どうすれば、カナエちゃんを助けられるのかな」
みっともないほど頼りない、か細く小さなマコトの声を聞いても、少女の微笑みはなくならない。そのままマコトの手を強く引っ張り、上体を傾けさせると、耳元でそっと囁いた。
――ああ、そんなことでよかったのか。呆気ないほど単純な道標を見つけたマコトは、涙の滲む目を何度も瞬く。自分の頭の中に刻みつけるように、何度も何度も反芻してから、崩れるように膝を折った。
「……キミは、消えてしまわない?」
カナエを救うための方法は、結果的に目の前の少女の存在を消し去ってしまうことになるのではないか。目線を合わせながら尋ねるマコトの揺れる声を耳にして、少女は僅かばかり動きを止めた。マコトの問いには答えず、代わりに少しだけ寂しそうな声で尋ね返してくる。
「――ねえ、マコト。氷は溶けたら、何になるの?」




