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下まで送るという駒田の熱心な申し出を丁重に断って、エリヤと家政夫は再びエレベーターに乗り込んだ。これからスキージャンプでもするのかと思うほど深すぎるお辞儀が扉の向こうに消えていくのを確認してから、二人同時にため息をつく。
「目的が果たせたようで、なによりです。俺も火傷をした甲斐がありました」
「よかったな。少しくらい傷があったほうが男振りも上がるってもんだろ」
「皮肉くらいはちゃんと受け止めて反省してくだせぇよ。……さすがに社長まで来たときは肝が冷えましたが、あちらさんがエリさんの出自を把握してたのなら、そりゃ普通はそうなりますよね」
カナエと会って記憶を取り戻し、ついでにヒカリの連絡先を入手したエリヤが、随分と遅れて駒田と家政夫に合流すると、そこにはもうひとり新たな人物の姿があった。「マリアさんのご令息がお見えになると聞きましたので、ご挨拶させていただきたく参上いたしました」と、いっそ胡散臭いほど優雅な笑みを浮かべながら差し出してきた名刺に書かれた名前は――無藤レイイチ。若くしてコスモスプロダクションを立ち上げた、やり手の社長その人だった。
「親がどうとか関係ねぇだろうが」
「いやあ、さすがに世界で活躍する大女優の存在は無視できねぇでしょうよ。エリさんとマリさんが親子だということは、公にはしていないものの極秘というわけではねぇですから、誰が知っててもおかしくねぇです。でもまあ、あの若社長は別にそれを利用しようとするつもりはなかったみたいですけどね」
基本的に人が好い家政夫の好意的な意見を、エリヤは鼻で笑って一蹴する。「口ではなんとでも言えんだろ」
――スタッフには、貴方とお母様に関する情報は伝えていません。なので、数か月前に街中で貴方に声を掛けたと聞いたときは、私もその偶然に驚きました。
エリヤのスカウトに自分はまったく関与していないと無藤は強調していたが、どこまで真実かは疑わしい。『マリアの隠し子を芸能界に引き入れてはならない』などという不文律があるわけではないだろうが、エリヤとしてはむしろ広く出回ってくれるほうがありがたかった。海外在住の母親とは、中学に上がることを機に別々に暮らしている。連絡もほとんど取っていないにも関わらず、血がつながっているというだけで親密なひとつの塊として周囲に認識されることを、エリヤはときに忌々しいとさえ思った。
「ったく。芸能界の人間は、どいつもこいつもなに考えてんのかわかんねぇな」
一階にある人気のないロビーを、脇目も振らず横切る。外の空気を吸い込んだことで、ようやく思考がクリアになった。重く立ち込める灰色の雲を塗り替えるように、白い息をはき出す。
「同感です。一応、古巣ではあるので耳が痛いですが。それにしても、俺がこんな格好する必要ってありましたかね?」
「面白いだろ、オレが」
「あー……知ってました。知ってましたけど、とりあえず夕飯のカレーは、やり場のない憤りを隠し味にした甘口にしておきます」
「報復に食い物を使うな。食べねぇからな」
「その場合は自動的にユウさんに連絡がいくので、こっぴどく叱られてください」
「マジでやめろ、そのシステム」
ビル前の広場で不毛な漫才を繰り広げているおかしな二人連れなど、普通なら関わり合いになりたくないと誰もが素通りするところだが、悲しいかなエリヤのオーラがそれを許さない。二人をじわじわと包囲するように、どこからともなく人が集まってくる。気を抜いてうっかり立ち止まってしまったことを後悔しながら、エリヤが舌打ちをしたとき。
「エリヤ」
この場にいるはずのない人物の涼やかな声が、エリヤの耳朶を鋭く打った。




