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想定外の寄り道をしてしまったものの、当初の目的地へと向かうマコトの足は軽やかだ。ヒーローという言葉と子どもの笑顔を思い出すたび、胸がくすぐったくなる。年配の女性が拾ってくれた赤いマフラーで隠した口元は、さっきから緩みっぱなしだった。怪我がなくてよかった。怖い思いをさせずにすんでよかったと、心から思う。
けれど、ひとつだけ。マコトの胸の奥底に、小石のようなものが沈んだまま残ってしまった。マコトが助けた子どもは、一緒に遊びに来ていたらしい五人の友達と合流して、別のイベントへと元気に走って行った。その後ろ姿を見送りながら、マコトは自分の心の中を冷たい隙間風が通り抜けていく音を聞いてしまう。
マコトにも、仲の良い友達はたくさんいた。中学校の同級生や、部活の部員たち。近所の神社の金髪の宮司や、賢い犬と散歩している穏やかな老人も、マコトのことを友達だと言ってくれた。だから、さみしいと思うのは間違っている。けれど、なぜだろう。いつも、なにかが足りない。とてもとても大事だったはずの、なにかが。
「……あ」
いつの間にか目線を地面に落として歩いていたので、もうとっくに目指す場所にたどり着いていたことにも気がつかなかった。
マコトがクリスマスマーケットに来た理由。休み時間にクラスメイトとデバイスを操作しているときに目に入ったもの。どこか恐ろしいような、どこか懐かしいような感覚を覚えた、不思議なオブジェクト。それがクリスマス本番を四日後に控えた今日の夕方に初めてライトアップされると知って、家に戻って着替える時間ももどかしく、学校からそのまま来てしまった。
「これが…氷の城……」
噴水にあったクリスマスツリーほどの大きさはないが、繊細なデザインと透き通るような質感に圧倒されてしまう。決して触れてはいけない美術品のような神々しさを前にして、マコトの口から思わずため息がもれた。
「わあ、綺麗! これって本物の氷でできてるの?」
「いや、さすがに東京の気温じゃ溶けるから無理だろ。ガラス……ってわけでもなさそうだし、何だろうな」
「ひょっとしてデコレージョン? ほら、さっきの蒸気機関車とかすごかったじゃん?」
「だったら、この氷の城だってファントムカンパニーが同じブースで宣伝してるはずだろ。それをしてないってことは、やっぱり実体なんだって。ほら、触るなって書いてある」
カップルらしい二人組のやり取りを聞いていたマコトの耳が、ふと別の方向から聞こえてくる規則的な音をとらえる。それがカウントダウンだと気づいたころには、もうすでにたくさんの見物客が氷の城を取り囲んでいた。同じ物を見上げて同じ時を待つ、大きな輪の中の一部になって、マコトもごくりと固唾を呑む。
「三、二、一……!」
カウントの途中から自然と始まった唱和に、拳をぎゅっと握りしめたマコトも参加する。その終わりの瞬間、氷の城の中心で小さな変化が生まれた。
じわりと浮かんだ、青い光。それは紫にも赤にもなりながら、血液のようにゆっくりと城全体を満たしていく。決して派手なパフォーマンスではない。目に突き刺さるまぶしいライトアップでもない。けれど、儚くも神秘的な輝きを目の当たりにして、津波にも似た大きな歓声と拍手がわき起こった。そんな中、マコトは驚くことも笑うこともなく、言葉を発することも身動きすることもなく、ただただ氷の城を見つめ続ける。
知っている、とマコトは思った。自分は、この光景を知っていた。つらかった。痛かった。冷たかった。苦しかった。でも、それと同じくらい。いや、それよりも遥かに。
楽しくて。優しくて。温かくて。うれしくて。心が震えるほどに愛おしい記憶が、マコトの中に確かにあったはずだった。
けれど、それがなにかはわからない。知らない。覚えていない。そのことが、悔しくて悔しくてたまらない。ぎゅっと奥歯をかみしめたマコトの顎と首筋が、小刻みに震える。
「あ、あれ……? ボク、なんで……?」
しばらくして、頬が乾いて冷たくなっていることに気がついたマコトは、そこでようやく自分が泣いていたという事実に驚いた。まだ涙の残る目元を慌てて拭いながら見回した視界の中に、すぐ近くでたたずんでいた少女の姿が映り込む。
マコトと同年代くらいだろうか。三つ編みを使ったハーフアップの長い髪が、淡いカーキのダッフルコートの背中で、さらさらと揺れている。高い鼻筋となめらかな肌が、氷の城からの極光を受けて、ゆらゆらと輝いている。
とても綺麗だった。顔の造作が整っているという、単純な理由だけではない。まっすぐに伸びた背筋が。じっと前を見据える眼差しが。そして何より、まるで引力が発生したかのように、どうしようもないほどマコトの視線が惹きつけられたのは――その、瞬きひとつしない瞳から流れる、涙。
泣いていた。歓声に包まれた、この場所で。笑顔が咲く、この場所で。少女もまた、マコトと同じように。ひとりでなにかに耐えるように泣いていた。
彼女なら知っているだろうか。氷の城を見てわき上がる、マコトには説明できない強い感情の正体を。そんな期待を込めて送った視線には、熱が込もっていたのかもしれない。凍りついていた少女のまぶたが、溶けるようにゆっくりと動き出す。そうして、大きな瞳がまっすぐにマコトを捉えた。
「!」
目が合ったと思った、その瞬間。マコトの頭の中で、存在しなかったはずの記憶が産声を上げた。絶え間なく続くシャッター音とフラッシュ。脳内でひとりでにめくられたアルバムの空白に、色づいた写真が次々と貼られていく。
そのすべての四角の中に、彼女がいた。たった今、視線を合わせただけの彼女の、少しだけ幼い姿があった。そう。あのときはまだ、お互い小学生だった。覚えている。いや、思い出した。
「み――!」
声と同時に、マコトは片足を踏み出した。つながったままの視線の糸をたどるように、人と人との合間を縫いながら、少女のすぐ近くまでやって来る。そして――「はっくちゅん!」
唐突で盛大な、くしゃみ。最悪のタイミングだ。よりによって、こんな大事なときに。そんなに寒くないからと甘く考えてコートを着てこなかったことを、マコトは心の底から後悔する。
「……誰よ、みはくちゅんって」
いたたまれなさに耐えられず、とっさに顔を下に向けた姿勢のまま固まっていたマコトの頭の上から、あきれたような声が降ってきた。間違いない。少しだけ大人びてはいるが、記憶の中の彼女の声だ。
「肝心なところでおマヌケさんなところ、全然変わってないのね」
「……っ」
台詞の内容とは裏腹の優しい口調に、じわりと涙が浮かんだ。ああ、彼女も覚えていてくれた。その確信が、マコトの全身を熱く細かく震わせる。
「久しぶり、マコト」
柔らかい言葉に背中を押されながら、ゆっくりと顔を上げた先。揺れる視界の中で、彼女が微笑んでいた。ひどくうれしそうに、少しだけ照れくさそうに。マコトが蒸気機関車から助けた、マコトをヒーローと呼んでくれたあの子どもと同じように。
「……久しぶり、ミサキちゃん」
みっともなく震えるマコトの声を聞いて、涙の跡を残したままの少女の頬が一気に緩んだ。懐かしい笑い声が、可憐な鈴の音となって冬の空に高く響く。
――今から三年前の、まだ小学四年生だったころ。
赤星マコトと桃園ミサキは、異世界を救った英雄になった。