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「ヒカリ」
後ろから聞こえてきた声に驚いて、ヒカリは靴音をキュッと慣らしながら動きを止めた。壁一面を覆いつくしている大きな鏡には、汗だくになって息を切らしている自分の姿と、ダンスレッスンフロアの入り口からこちらの様子を窺っている少女が映っている。
「あれ、カナエちゃん。まだ残ってたんだ?」
「それは、こっちの台詞。心配性のマネージャーが乗り込んでくる前に、練習を終わらせたほうがいい」
モデルのように、すらりとした長身。ボーイッシュなショートヘア。あまり表情が変わならない中性的な容姿と淡々とした口調から、カナエはファンの間では『氷の王子』と呼ばれている。けれど決して心が冷たいわけではないことを、同じグループメンバーであるヒカリはよく知っていた。現に今も、こうして様子を見に来てくれている。
「そうだね、そうする。ありがとう、心配してくれて」
「……別に。ただ、無茶をして怪我でもされたら困るというだけ。クリスマスライブも近いのに、メンバーが欠けるようなことがあっては絶対に駄目だもの」
カナエが眉をひそめて視線を伏せるときは、照れているときだ。うれしくなったヒカリが思わず微笑んでしまうと「どうして笑うの」と、静かに怒られた。
「ふふふ、ごめんごめん。うん、そうだよね。応援してくれるファンの皆さんに、たっくさん楽しんでもらって、たっくさん笑ってもらうためにも、体調管理は万全にしておかないと!」
それもアイドルのお仕事のひとつだよね、とTシャツの袖をまくって力こぶをつくるヒカリに向けて、カナエの無言の視線が飛んでくる。
「必要以上に頑張ることはないと思う」
「え?」
さっきまで自分を優しく気遣ってくれていたカナエの声の熱が、すっと一気に下がったことに驚いて、ヒカリは動きを止めた。
「仕事を誠実にこなすのは当たり前。でも、それ以上に一生懸命になる必要はない。アイドルなんて、所詮はたくさんある娯楽のひとつでしかないもの」
それがカナエがアイドルを続けていくうえでの一貫した姿勢であるということは、ヒカリもよく知っている。追いつくだけで必死なヒカリとは違い、カナエのパフォーマンスは、いつだって完璧だった。徹底したプロ意識のもとで行われる大人顔負けの仕事ぶりは、一緒に働くスタッフからも高く評価されている。
「今は熱心に応援してくれているファンだって、いつかは熱が冷めて必ず離れていく。娯楽である私たちの存在なんて、簡単に忘れられてしまう。それなのに、毎日こんな時間まで必死に練習して、仕事以上のものを提供しようと頑張ることに意味はある?」
カナエはいつも優しかったが、ときどき別人のように冷めた目をすることがあった。その目に正面から見つめられて、ヒカリは思わず怯んでしまう。けれど、なんとか今の気持ちを伝えようと、喉に詰まっていた大きな息の固まりを急いで呑み下した。
「っ、あると思うよ。うまくは言えないけど、温かいものや優しいものが、もっともっといっぱい伝わってほしいなって思う気持ちに、自分自身で制限をかけなくてもいいんじゃないかな」
ヒカリは自分の思いを上手に口にすることができない。その代わりに、歌や踊りなどの手段で自分の内側を表現してきた。自分の中にある楽しいやうれしいといった感情が、見ている人にも伝わる瞬間が、ヒカリには愛おしくてたまらない。そこには、仕事という括り以上の大きな意味があると信じている。
「……そう」
ヒカリの言葉に、カナエが納得した様子は見えない。けれど、カナエもヒカリと同じだということを知っている。厳しい大人のように振る舞っているが、カナエの心の底には、たくさんの人たちに温かくて優しいものを届けたいと願う純粋な子どもが眠っていることを知っている。なので。
「踊ろう! カナエちゃん!」
「え?」きれいな瞳をぱちくりとさせるカナエの冷たい手を取って、ダンスレッスンフロアの中央まで強引に連れ出す。向かい合い、両手をぎゅっと握り、社交ダンスのようなポーズを気取ってから、勢いよく第一歩を踏み込んだ。
「これ、どういう踊りなの? どう踊ればいい?」
「わかんない! 楽しいなら、なんでもいいよ!」
ヒカリのめちゃくちゃなステップにも、カナエは冷静に対応する。いきなりダンス会場に乗り込んできた泥だらけの村娘を、嫌な顔ひとつせずエスコートしてくれる王子様のように。ヒカリの大雑把な足踏みが、きちんとしたダンスの形へ整えられていく。
「そうね。でも練習は大事。次、右にターンするから」
「わっ! 速い速い! 足がからまっちゃうよ、カナエちゃんっ」
慌てふためきながら遠心力で仰け反るヒカリを見て、カナエが小さく微笑む。カナエが笑ってくれるのがうれしくて、ヒカリのステップがますますはちゃめちゃになる。お互いの呼吸をだんだんつかんできた二人のダンスは、スピードアップとヒートアップをどんどん重ねて止まらない。楽しくて、うれしくて、止まりたくない。
たった一組だけの即興ダンスパーティーは、結局、心配したマネージャーが様子を見に来るまで続けられた。
 




