8話 〈7階の音楽家さん〉
ユルカは深夜勤務をこなしながらもロビーの掃除をしていると、見慣れない壮年男性がソファに座り、楽譜を眺めているのを見た。
あのような住民、いただろうか?
もしや音楽家なのか──そんな雰囲気があるかもな、と彼女は関心する。
自分は管理室に置かれたラジオから流れてくるJPOPは効くが、とんと音楽の知識がない。胸に憧れに似た気持ちが湧く。
「どうなさいました?」
ついつい声をかけてしまった。すると男性はこちらに気づき、小さく会釈してきた。
「深夜は室外に居ない方が安全でいいですよ。ほら、マンションの貼り紙に書いてありますし」
「ん?貼り紙?すいません…楽譜作成がうまくいかなくて」
「え、すごい。やっぱり音楽家さんだったんですね〜!」
「ま、まあ…全然、うまくいってないけど」
「そーですか…」
憂いを帯びた返答にこちらも申し訳ない気持ちになる。慌てて、取り繕うように「手伝いますよ!」と言ってしまった。
「えっと、お宅はどちら?君みたいな人はいなかったような、気がするんだが…」
「あー、夜勤しか居ないんです。だから知らない人もいるかもです。ユルカといいます」
「ユルカさん、か。よろしく」
「はい!」
彼はまた控えめに会釈して、楽譜を見た。「この先が浮かばないんだ」
「は、はえー…」
全くもって解読できない音符記号に冷や汗をたらしたが、とりあえずリズムを頭の中で練ってみる。
「シャカシャカ、シャー!どじゃーん!みたいな」
「あはは!」
何故か笑われてしまった。恥ずかしくなり、箒にすがりつく。
「思いつくままに言ったの?ユルカさんはクラシックとか聴いた事ある?」
「い、いえ、ふざけてると思いますが記憶喪失で、あまり音楽への教養がないんです…」
「へえ。じゃあ、今のは何の知識もなく生み出した音なんだ」
「ま、まあ」
冷笑されるだろうか?構えていると、彼はやっと爽やかに破顔した。
「なんか心が軽くなったよ。ありがとう」
「は、はあ…」
インテリな人だなあ、と眺めていると彼はソファから腰を上げた。エレベーターに向かい、手を振る。
「そろそろ寝ようかな。じゃあ、夜勤、頑張って」
「あじゃす!」
敬礼して、また掃除をしていると、今日はエレベーター使用禁止にしているはず──と振り返った。
彼はいない。エレベーターも眠っている。
「…」
──寝ながら掃除をしていた事にしよう。そうすれば薄ら寒くて、やるせない寂しい気持ちも温まるだろうか。
楽譜が読める人、凄いです…。