6話 〈お盆中の夢うつつ〉
ユルカは古ぼけ黄ばんだエレベーターを眺めて、ふと何か忘れている気がした。昔、このエレベーターで7階を見た気がして。
──…、……して?
(──なんだっけ?あれ?)
管理人さんが掃除の手を止めているこちらに気づき、点検日だから行こうかと言う。
7階へ。
(あれ?7階に?行けるの?なんで?た…しか)
ごっちゃになった記憶の中で、ロビーにある鏡に幼い女の子を見て──我に帰った。
「7階の702号室から水漏れが凄くて、下層の人が困っちゃっててね」
やる気のない、それいでいて気弱な管理人さんがエレベーターに乗る。
「あー、シャワーがすごいんですよね」
「そうそう」
7階のボタンを押し、古くさい個室に閉じ込められる。クーラーが埃臭い冷気を寄越してくる。点検日を見て不思議に思う。昭和…今は何年だっけ?
自分は普段、何年に住んでいる?
あっという間に7階につき、赤黒い空間が広がっている。色々あってこうするしかなかった──と、管理人さんは以前零していた。
「あー、ヤバいっすね」
702号室から水が漏れだし、室内からジャバジャバと流れる音がした。「はー…。嫌なんだ…」
鍵を差し込み、ドアを開けると廊下は水浸しになっている。リビングは明かりがついていて、薄らとテレビの音が聞こえた。
「半田さーん。シャワー止めてください」
返事はなく、二人で風呂場に向かう。睡眠薬を多用した跡があり、管理人さんはまたため息をついた。
「半田さん?」
蛇腹状のドアを開けると、女性が入水自殺していた。手首を切って眠っている。
慣れた手つきで蛇口を止めると、半田という女性を揺り起こす。
「ユルカさん。絆創膏持ってきて、あと二人で床を拭くから…」
「はい」
彼女の部屋にあった救急箱から包帯や絆創膏を持ってくる。半田さんはもうしません、と謝っている。手当をすると、廊下にある掃除用具で通路と部屋の廊下を拭いた。
「半田さん。何かがあったら管理人室で話を聞くから、これ以上こんな事しちゃいけないよ」
「は、はい…」
陰鬱な顔をした彼女は頷くと、しばらく二人で話し合っていた。外から罵声と必死に謝り、泣く女性の声がする。この階は狂っている。
皆、狂っている。
壊れた自動販売機を眺めていると、管理人さんが疲れた様相で戻ってきた。
「はあ、終わったよ。下の階の人に説明しなきゃな…」
「まあ…、またシャワーが…。仕方ないわね…」
「たまになるんですよ」
「怖いわ…7階に人が居るはずないのに」
「仕方ないです」
「え、ええ。仕方ないもの」
お上品なおば様が天井を見上げて不安がった。水漏れの修理をよこすと話をつけて、管理人室に戻った。
「ユルカさん。調子が悪そうだけど大丈夫?」
ぼんやりしているのを察され、苦笑いした。「持病が今日はひどいみたいで」
「そっか…、今日は自分が深夜帯も勤務するから一眠りするといいよ」
「すいません。住み込みで働かせてもらっているのに」
彼は気にしないで、と労わってくれた。どうも『持病』で意識がはっきりしない。住み込みで暮らしている倉庫室にあるベッドに寝そべると、すぐさま眠気が襲ってきた。
ユルカは記憶喪失という、嘘みたいな病を患ってしまい──このマンションで住み込みで働く事になった。
(7階って入れたっけ?半田さんって…生きてる人なのかな…)
(でもおばさん、7階は人がいないって)
夢を見ているのかもしれない。どちらが夢なのだろう?
水の音がして、水面が揺れている。溺れて窒息する。体がびしょ濡れになっている気がして、不意に思い出しそうな感覚に襲われた。
(あたし、もう、しん)
「…ああ、こっちもか」
管理人さんの声がして目が覚め、辺りを見回す。いつも通りの景色に安堵する。かなり長い時間眠ってしまったようで、体が固まって痛い。
ユルカは管理人室に出ると、時計が深夜2時を指していた。7階の防犯ブザーが鳴る。
「消さないと」
いつも通りにスイッチを切る。変な夢を見ていた。
カレンダーを見やり、今日からお盆かと不思議と納得した。
ユルカちゃんの名前は漢字だと許鹿といいます。