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願い。  作者: 桜田 優鈴
4/5

参 最果ての先

「すみません。事情聴取のため、駅長室にお越しください」

 駅員が話しかけても、初生は反応しなかった。

 今の初生に聞こえているのはただ一人の声。それも幻聴。

 ―――「答えは、脅威だから、や」

 初叶の言葉が初生を縛る。

「俺も同行していいですか。ホームに落ちたのはこいつのクラスメイトです。突然のことで動揺しているようなので」

 全く相手にならない初生に代わって、紀斗が応じる。温厚そうな駅員は、嫌な顔ひとつしなかった。

「わかりました。……少し時間を空けて落ち着いてからでかまいません。事故処理がありますので、私はこれで」

 一礼して、駅員は行ってしまう。

 そっと紀斗が肩に手を置くと、初生はびくりと跳ね上がった。恐る恐るといった様子で振り返った初生の顔には、恐怖の色が窺える。

「大丈夫、俺がついて、」

「私……」

 紀斗でさえも、初生にその思いが届くことはない。

 震える声で搾り出すように発する初生の言葉を聞き取れるよう、紀斗は初生の前に回りこんで膝をついた。その途端、初生はすがるように紀斗のブレザーの襟を握り締めた。

「私が、松原さんを……!」

 瞬かれた瞳から光が転げ落ちる。

「お前じゃない。俺は一部始終を見てたんだ。あいつは勝手に、」

「違う」

 次から次へと溢れ出る涙は、重力に逆らうことなく落ちていき、初生のリボンタイにしみを作った。

「私ね、願いが叶うの。信じられないかもだけど……」

 紀斗は息を呑んだ。

「信じる。……というより、知ってた。松原に聞いて」

 初生がようやく紀斗の顔を見た。

 その拍子に、新たな雫が一粒流れた。

「私、願っちゃったの。松原さんがいなければって」

 紀斗は自身の鼓動が激しくなるのを感じた。

「それでも、少なくともお前だけのせいじゃないじゃないだろう」

「どういう意味。かず、意味がわからないよ」

 つぅ、と涙が頬の上を滑る。

「初生はどこまで知ってる?自分の力について」

 そう言われて、初生は自身の力についてあまり多くを知らないことに気づいた。

「クオーターであるお前の力は、完全じゃない。一人で願っても叶わないんだ」

 “願い続ければ叶う”初叶が教えてくれたこと。それは虚構だったのか―――?

「叶える条件は、お前と同時に俺も心から願うこと」

 縁子が死の間際に言っていた“触媒”の意味がようやくわかった。

 つまり、願いを叶える力自体を持つのは初生だが、紀斗が触媒とならない限り力は発動しないということだ。

「………!まさか、かずも松原さんが」

「いなければよかったと思った。だからこれはお前一人の罪じゃない」

 零れ続ける涙を拭おうと、紀斗は初生に手を伸ばした。

 ぱんっ。

 勢いよく払われた手は、行き場を失う。

 紀斗はこの状況にデジャビュを感じていた。

「私たちは、もう一緒にいないべきだよ……」

 両手の甲で荒く目をこする初生。

「同じ感情を抱かないようにしなきゃいけない。そうしないと、もっと悲しいことが起こる」

 立ち上がり、落ちていた鞄を拾い上げると、階段を下り始めてしまう。

「待て」

 紀斗は慌てて後を追う。

「ついてこないで!」

 人目を気にした小さな声ではあるが、その叫びには妙な迫力があり、紀斗は階段の前で立ち止まった。

 初生は手すりを握り階下を見つめたまま、足を止める。

「事情聴取には私独りで行く。……もう、話しかけないで」

 追いかけることはできなかった。

 一人ホームで初生の短い髪を見送りながら、紀斗はデジャビュの原因に気づいた。

 縁子と初めて会ったときだ。

 屋上で会ったあの少女も、伸ばした手を撥ね退け、階段の下に消えていった。


 ✻        ✻        ✻ 


「ピロロン」

 肌身離さず持ち歩いているノートパソコンが、音を出した。まわりから一斉に冷たい視線が突き刺さる。痛いが、どうしても置いてくることはできなかった。たとえそれが、葬儀という場であろうと。

 この受信音は晴臣専用だから直ぐに対応する必要があるが、さすがにその場でパソコンを開くのは気が引けたので、一旦外に出る。

 ようやく人目のない所にたどり着き、デスクトップの『晴臣様』の文字をクリックする。画面に新たな文字が浮かんだ。

『この仕組みにはまだ慣れんな』

 キーボードの上に指を滑らせる。

『お手数おかけして、申し訳ありません』

『仕方あるまい。松原の娘が死んだのだからな』

 手のひらに爪を立てる。とっくに傷だらけになっていた。涙を堪える時の癖なので、意識して止めることができない。それでもなるべく傷が浅く済むよう、こまめに爪を切りそろえるようにしている。

『その後、何か変化は』

『特には。しかし、消えた“天津甕星”はまだ見つかっておりませんし、事態は悪化しているとしか言えないでしょう』

『御主に期待しておる』

『はい。わかりました』

 それ以上はもう、何も表示されない。パソコンを閉じ、粉雪を降らせる夜空を見上げた。

 手のひらに爪を立て、唇を噛み締める。

 しかし、どんなに自分を痛めつけても、堪え切れない。

「期待なんて、してないくせに」

 震える声でもらした本音は、僻みではなく、嘆きだった。


 式の途中で晴臣に呼び出されてしまったので、まだきちんと縁子に別れの挨拶ができていない。

 高校生にもなって泣きながら会場に入るのは恥ずかしく、涙が収まるのを待っていたのだが、次から次へと縁子と過ごした日々の記憶が蘇りその度に涙腺が緩む。結局、会場に戻れるまでに相当な時間を要してしまった。

 抜けたときには既に終盤になっていたので、俺がようやく戻れたときには既に葬儀は終わっていた。棺の前で、縁子の両親が蝋燭と線香の番をしている。そっとしておくべきだと判断し、踵を返した。夜はまだ長い。

 居場所を探して、隣の部屋を覗く。巫覡たちが、酒食のもてなしを受けていた。

「お、次期当主様じゃないか」

 障子の隙間から窺っていたのだが、大柄で鬚を生やした巫覡に見つかってしまった。仕方がないので、諦めて中に入る。

 沢山の巫女が泣き、沢山の覡が憤る。

 皆口々に“天津甕星”に罵詈雑言を浴びせる。

 やはり俺には、この空間は居心地が悪かった。

「さあ当主様、おひとつ」

 若い巫女が酒を渡そうとする。俺は彼女に手のひらを向け、拒否の意を示した。

「すみませんが、俺は未成年ですので」

「そう固いことおっしゃらずに」

 脇から男たちが茶々を入れてくる。

 いきなり、酒を差し出していた巫女に手を強く握られた。傷が疼くのを感じて、しまった、と思っても遅い。

「こんなに傷を御作りになって。御労しい……!」

 隠していた傷を、自らさらしてしまった。痛恨の極みだ。

「当主様、縁子様の敵をとるのです」

「当主様には、きっとそれがおできになる」

「あの晴臣様のお声を拝聴することのできるお方なのですから」

「憎き“天津甕星”の消滅を!」

「積年の恨みを、今こそ晴らしてください」

 一気に巫覡たちが盛り上がる。同胞の死によって沈んでいた彼らが、活気を取り戻した。

 憎しみによって気運を高めるなど、なんと哀れな。

 しかし今は、俺もその流れに乗ってしまいそうで―――怒りに身を任せて何も見えなくなりそうで怖かった。

「用がありますので、失礼します」

 わざと空気が読めない振りをして、退室する。

 このまま彼らと共にいれば、感情が麻痺してしまう。

 再び居場所を失い、当てもなく屋敷内を歩く。

 普段あまり立ち入ることのない、客間が続く廊下を通りかかると、中から明かりが漏れている部屋があった。確か、一番重要な客人を迎えるための部屋だ。

「どなたか、いらっしゃるのですか」

 数秒、音のない空間が闇を支配した。

「巫覡の、琴でございます。そちらは」

 それを断ち切ったのは、凛とした、老婆の声だった。

「俺は、次期当主です。入っても宜しいでしょうか」

「当主様であらせられましたか、勿論です」

 正座して、障子に手をかける。

「失礼いたします」

 部屋の中心で、白髪の女性が正座している。髪は低い位置で丁寧に三つ編みされていた。

 障子を閉め、彼女の正面に正座しなおす。

「何故、お一人でこんなところに?」

「私は縁子様に顔向けできないからです。こうなってしまったのは、全て私の責任ですから」

 無理やり笑おうとしているのが痛々しい。

「あなたのせいではありません。責任を問われるべきは、俺…私です」

 俺がもっと強かったら。

 そうすれば、縁子が亡くなるなんてことにはならなかっただろうに。

「あまりご自分を責めてはいけません」

「……それは、あなたも同じです」

 お互いに、同じ雰囲気を感じていた。

 罪の意識を持っている者。

「次期当主、とおっしゃいましたね」

「はい」

「ならばどうか、偏見を持たずにいてください。……縁子様は、些か正義感の強すぎる方でしたから」

 琴は、真剣な表情で俺の手をとった。

 確かに縁子は、とても正義感が強かった。弱いもの苛めも絶対に許さなかったし、困っている人がいたら助けずにはいられない。

 当然のように、“天津甕星”を悪として敵対視していた。

「偏見は持ち合わせていないつもりですが、どうしてそのようなことを?」

「若い方々、特に先の“天津甕星”との戦いで肉親を失われた方は“天津甕星”を絶対的な悪者と考えておいでです。しかし、私にはとてもそうは思えません」

「ちょっと待ってください。戦いって、何のことですか」

 琴が目を細めた。

「晴臣様が“天津甕星”本体の封印によって亡くなられたのはご存知ですか」

「はい」

 晴臣は修平の祖父に当たるが、遊んでもらった記憶はなかった。雲の上の人。会うことすら許されない、そんな存在だった。

 だから、祖父が亡くなったと知らされても、いまいちピンとこなかったのを思い出す。

「その“天津甕星”に封印をかけるための戦いのことです」

 犠牲が出ていたことなど、知らなかった。

 今なら、血走った目で“天津甕星”に敵を打てと迫ってきた彼らの気持ちが少し理解できる気がした。

 俺も縁子を失ったとき、胸に大きな穴が開いたようだった。

 それでも。

 ―――「私にはとてもそうは思えません」

 きっぱりと言い切った琴。

 “天津甕星”の肩を持つような発言をする人に出会うのは、産まれて初めてだ。

 この人になら、本心が言える。

「俺は誰かを正当な理由なく憎むつもりはありませんし、憎しみに支配され、復讐心によって行動するような悲しい生き方はしたくありません」

 琴は俺の手を離し、優しい顔をした。その瞳に、僅かに涙が浮かんでいる。

「ありがとうございます。ご健闘をお祈り申し上げております」

 畳に手を付いて、深く頭を下げられる。慌てて、その肩を起こした。

「俺…私は、頭を下げていただけるような者ではありません。これからも、ご指導のほど宜しくお願いいたします」

「はい」

 琴は、声を出さず静かに泣いていた。

 それにつられて、せっかく収まっていた涙が再び零れた。


 ✻        ✻        ✻ 


 花が無い。

 つい昨日まで縁子の席に手向けられていた花が、花瓶ごと消え去っていた。

 初生は不審に思いながらも席に着く。

 誰も話しかけてはこなかった。最近は、挨拶さえほとんど誰ともしていない。

 縁子が亡くなって以来、初生は人と関わることを極力避けていた。それは、縁子が残した言葉が引っかかっていたからである。

 ―――「紀斗なんて、たかが一触媒、くれてやっても痛くないってわけ」

 その言葉は、紀斗でなくとも触媒は勤まるということを臭わせていた。

 だから、『縁子のことがショックで今は誰とも話す気はない』というようなことを態度で示した。初生と違って感の良い友達たちは、初生の思惑通りに遠のいてくれた。

「はい、皆席に着きなさい」

 担任が教室に入ってきた。

 そして何故か生徒たちがざわめく。

 窓の外を見ていた初生は、そのざわめきにつられて前を向いた。

「このクラスに、転入生が来ました」

 手で示されたのは、黒縁眼鏡の男の子。背は紀斗より少し小さいくらいのように見えるから、わりと高い方だろう。

 先生は黒板に彼の名前を書いた。

「今日からお世話になります、吉田修平です」

 修平はそう言って深々とお辞儀をする。初生は顔を上げた修平と目が合った。

「仲良くしてあげて。吉田君の席は、窓側から二番目の列、一番後ろね」

「はい。」

 再び、生徒たちのざわめきがおこる。

 何故ならその席が、縁子の席だからだ。

 即ち、修平の席は

「お隣ですね。よろしくお願いします」

 初生の隣だ。

「……よろしく」


 休み時間には、修平の周りに沢山の生徒が集まった。皆新しいクラスメイトが物珍しいのだろう。

 席が隣なので、嫌でも全ての会話が聞こえてしまう。

 ムードメーカーの男子が、にやにやしながら修平に話しかけた。

「修平、その席大丈夫?」

「大丈夫って、何が」

 意味がわからず、修平は困った顔をした。

「実はさ、その席だった奴先週死んだんだよね。な、気味悪いだろ」

「あんた、そういう事言うのやめなよ!」

 樹理独特の高い声が教室中に響く。

 談話が息を潜めた。

「よりにもよって、初生の前で……」

「お前ら、事件の後水無に冷たくしてるくせに」

 初生はどきりとした。

 完全に樹理たちの気遣いに甘えていたが、傍から見ると彼女たちが友達を見捨てた人でなしのように映ってしまうのかもしれない。

「あんたみたいな無粋な男には、女子の気持ちなんてわからないんだよ」

 男子がバンッと机に手をついた。

「何だよ。お前だって松原は高飛車で嫌いとか、よく言ってたろ」

「そ、そうだけどっ!」

 二人の喧嘩に終止符を打ったのは、意外にも修平だった。

「俺もその子に同意見だな。死人に口なし。死んでしまった人は弁解できないんだ。悪口は良くない」

 修平の表情はどこか硬く、男子もそれ以上何も言い返さなかった。男子たちは居づらくなったのか、ぞろぞろと教室を出て行った。その他の集まっていた生徒たちも、そっと離れていく。

「君、ありがとう。縁子をかばってくれて」

 樹理はこくこくと勢いよく頷く。顔が赤い。

「あーあ。吉田君って、樹理のタイプまんまだからなぁ。理想が実体化したって感じ?」

 いつのまにか初生の隣にいた百世が呟く。

 樹理は玩具の兵隊のようにぎくしゃくと百世の方に来た。そのまま百世の後ろに隠れてしまう。いつも物怖じしない樹理らしくない。

「ほら、あっちいくよ」

 百世が樹理を引き連れて、溜め息混じりにこちらを窺っている智佳の元に行ってしまう。

「いい友達だね」

「え?」

 修平に話しかけられ、樹理から視線を外す。

「水無さんを庇うために、喧嘩ふっかけてくれたんでしょう」

 頬杖をついてこちらを窺っている。初生は修平に向き直った。

「何で転入生の吉田君が、松原さんのことを『縁子』って呼んだの」

 数瞬きょとんとすると、いきなり修平が腹を押さえて哄笑した。

「何がおかしいの」

 深呼吸をして元の表情に戻ってから、口を開く。

「いや、抜けてる子って聞いていたからね。随分と資料から受ける印象と実物が違うなと思って」

「資料?何の事」

 修平は、初生の警戒心が一気に上がるのを感じていた。

「本当に資料とは全然違う。警戒なんて言葉を知らないような子だと思っていた。縁子の偏見で事実が曲げられてしまっているのか……それとも、縁子の事件のせいで水無さんが変わったのかな」

 怖い顔で修平を見つめる初生。しかし、初生自身はそんな表情になっていることを知らない。

「俺は縁子の幼馴染だ。一緒に修行をした仲、と言ったらわかるかな」

「もしかして……巫覡!?」

 初生は勢いよく立ち上がると、窓に寄って修平から距離をとった。

「どうして逃げるの」

 修平も席を立ち、初生に近づく。

「近寄らないで」

 初生の目には、恐怖の色が窺えた。

「俺が近づくと、何か水無さんに不都合があるのかな」

「だって、力が……」

 最後まで言い切らずに下を向いてしまう。

「やっぱりそうか……。縁子は水無さんの力を吸収していたんだね?」

 あからさまに初生の目が泳いでいる。

「教えてくれてありがとう。これでやっと、謎が解けた」

 礼を言われて、不思議そうな顔をする初生。

「謎って何」

「縁子が死んだ理由だよ」

 初生の血の気がさっと引いた。

「ごめんなさい!」

 深く頭を下げる。

 修平はうろたえた。

「どうして?」

「だって…私がいなくなって欲しいと願ったから……」

「“天津甕星”の力を使ったせいだと?」

 初生が小さく頷く。

「それはそれでいただけないけど。君は何か勘違いをしているよ」

 修平は一旦自分の席に戻ると、ノートパソコンを持って戻ってきた。

 戸惑う初生をよそにパソコンを立ち上げると、何か操作をして初生の方に画面を向ける。

 そこには赤、青、黄の三色で折れ線グラフが描かれていた。縦軸には何も表示が無く、横軸は日付と時間のようだ。今表示されているのは、二月十四日の分。

「このグラフは一体?」

「力の推移だよ」

「力って、“天津甕星”の?」

 修平は静かに首を横に振った。

「それだけでなく、巫覡としての力もだよ」

 いくら冬だといっても白すぎる、日に当たっていない人特有の指が黄色い線をなぞる。

「この一つだけえらく低い値を示している黄色いのが、縁子の力」

 その線は急激な右肩下がりで、特に十八時四十分を過ぎた辺りが崖のようになってしまっている。そして、四十五分の少し手前から赤と青しか記録されておらず、黄色はそこで消滅していた。

「最初、機械の故障だと思ったよ。でも他の二つの記録はきちんと取れているし、おかしいなと思い始めたとき、縁子の家から電話がきてね」

 縁子を撥ねたのは、十八時四十二分発の電車だ。

 黄色い線が消えた時刻と一致する。

「ここ、一気に力が減少しているだろう。そして、君の力も大きく減っている。“天津甕星”の力を使ったとすれば、一瞬大きく上昇するはずなんだ」

 四十分と四十五分の間を、修平の細い指が行き来する。

「巫覡の力がこの減り方をする原因は、一つしか考えられない。でも、信じたくはなかった」

 修平は強く唇を噛んでいた。

「君は巫覡が“天津甕星”の力を吸収できるのを知っているようだけど、吸収した巫覡の身に何が起こるかは知らないのかな」

 初生は口を押さえた。そうしなければ、叫んでしまいそうだったから。

 初叶に聞いていたではないか。

 ―――「奴等のその力は、命削ってやっとるみたいやった」

 あの時は家族を殺されたという話を聞いた後だったから、そこまでして殺戮をするということに悪意を感じただけだった。

「命を、削っていると」

「正確には、吸収したのと同じだけ自分の力を失うんだ。 “天津甕星”の力を巫覡の力で中和しているというのが仕組みだから。力がゼロになれば………死ぬ」

 修平が切りそろえられた爪でカツカツと画面を叩いた。

「この四十分と四十五分の間に、縁子は力を使い果たしているんだとわかった。水無さん、この間に体に触れられていただろう」

 頷くしかなかった。

 今にして思えば、あの時の縁子は縁子らしくなかった。いつもクールで大人びていたのに、鞄を置いた瞬間から人が変わったようだった。語気は荒く、目は真剣そのものだった。

「信じたくはなかった。あの縁子がそんな危険を冒すなんて。……そんな先入観を捨てていたら、縁子を守れたかもしれないのに」

 悔しそうに顔を歪め、拳を握り締めて歯を食いしばる。

 修平の後悔の念がひしひしと伝わり、初生は鼻の奥がツンと痛くなった。

「こっちも見てくれる?」

 修平が別のグラフを開く。

 同じく三本の折れ線グラフだが、横軸が一週間おきなっていた。

「さっきの細かいデータを平均した物だよ」

 青の線は何故か二月第二週のところから始まっている。赤は時々急激に下がりながらも、全体としては上昇していた。青が描かれ始めてからは、その角度が大きくなっている。一方縁子の力はなだらかに減少し続け、ところどころは大きく下がっていた。

「赤が何回か、がくんと小さくなってるだろう。その時黄色はどうなってる?」

「あ、いっぱい下がってるのと一致してる。じゃあ、この赤は誰の」

「君だよ。」

 こんなに力が増大していたのか。特に特訓も何もしていないのに。

「青いのは誰だと思う」

 修平に問われ、二月の第二週頃に現れた人物を考える。心当たりは一人しかおらず、またその人物が正解である自信があった。

「初…じゃなくて……“天津甕星”、だね」

 初叶と言いかけて止めたのは、修平には通じないと思ったからである。初叶という名は、初生がつけたのだから。

「ずっと、縁子の力が落ちていることは気づいていたんだ。それなのに俺は何もしなかった。少し考えれば、あいつが力の吸収に手を出していることくらいわかったのに。何のためにこんなグラフ作ってたんだか……!」

 そこで初生は、修平にとって縁子はとても大切な人なのだということがわかった。

「私のこと、憎くないの」

「え?」

 修平は驚いた顔をした。

「確かに、松原さんが亡くなったのは“天津甕星”の力のせいではなかったかもしれない。でも私さえいなければ、松原さんがこんなことになることもなかったでしょう」

「君は他の巫覡たちと同じ事を言うんだね」

 今度は、初生が驚く番だった。

「あなたは違うっていうの」

 パソコンをパタンと閉じてしまう。

「君や他の巫覡たちは、物事の本質が見えてないよ」

 正面に向き直る。初生も、しっかりと修平の目を見た。

「巫覡が憎んでいるのは、君じゃない。力の乱用だ。何故俺たちは戦い、恨み、殺し合わなくちゃいけない?俺は、力なんて使わずともわかりあえると思っている」

 初生は、縁子が亡くなってからずっと考えていた。

 何が正義で、何が悪なのか。

 誰が正しく、誰が間違っているのか。

 しかし、現実はきっとそうではないのだ。

 絶対なるものなど、ほぼ存在しないのだから。

「吉田君は、すごいよ。あなたみたいな人が、この力を持つべきだった」

 修平は悲しげに首を横に振った。

「俺はすごくなんかない。俺は巫覡としても使い物にならないんだ。僕には巫覡としての力がほとんど無い」

「でも、そのグラフ……」

 閉じられている黒いパソコンを指差す。

「代々巫覡なのは吉田家なんだ。松原はお爺様の弟が婿入りした家。だから、本当は俺が当主として君たちの監視に付くはずだった。俺は一人っ子だったから、念のためにと縁子も小さい頃から一緒に修行してた」

 遠い目で窓の外を眺める。

「差は直ぐに現れたよ。縁子は何百年に一度の逸材だった。そして俺は全く力を使えない。結局本家の俺を差し置いて縁子が当主に。もし俺に力があったら―――」

 修平が脇に抱えているパソコンは、たくさんの傷跡がついていた。

「それでも松原さんを助けるために、必死でそれを使ってたんでしょう」

 初生がそっとパソコンに触れると、修平は上を向いた。

「ほんの少しだけあった力と、文明の力を利用してね。このパソコンがなければ、本当に役立たずだ」

 震えを押し殺した声は、切なすぎた。


 ✻        ✻        ✻ 


 帰り道。

 もし初生の行動を一部始終見ている人間がいたとすれば、その人の目には初生が変人に映っていたことだろう。一人で辺りをきょろきょろと見回しながら、同じところを何度も行ったり来たりしている。

「どないしたん」

 そんな初生が、勢いよく振り返った。

「何や、挙動不審やなぁ」

「あなたを探していたの。どうやったら出て来てくれるのかわからなかったから、前に会ったここをうろうろしてたらいいのかなって」

「ほな、僕が現れて良かったなぁ」

 常に笑っているため、嬉しいのか何なのかわからない。その笑顔に惑わされてしまう前に。

 飄々としている初叶をしっかり見据え、言い放つ。

「巫覡が死んだ」

「……それはまた、単刀直入ずぎやない?」

 初叶は全く動揺していなかった。

 人ならざるものだからこその非情なのか。

「前回会ったとき、沢山のことを教えてくれた」

「はつなちゃんが知りたい、言うたからな」

「あの時は衝撃が大きすぎてわからなかった。でも、ちゃんと考えてみたら初叶の話にも矛盾があるよ」

 初叶が眉根を寄せた。

「矛盾て?」

 笑ってはいる。しかし、初生にはその顔が怒っているように見えた。そのことは初生を怯ませる要因にはならない。むしろ、自信に繋がる。

 ―――大丈夫、今の私ならいつものようにするりとかわされたりはしない。

「初叶はこう言ったよね。『僕は自分の力の使い方っちゅうもんをわきまえてるつもりやし、極力使わんようにしとる』でも本当に、害無く使えていたのかな」

「どういう意味や」

 狐目からわずかに瞳が現れる。

「日香織さん――お母さんは、巫覡に襲われるまで力を使ったことが無かった。つまり、巫覡たちが危険だとして認識した力は、初叶の物だということ。巫覡たちに命がけで消そうと思わせるほどの何かを、初叶がしたんじゃないの。でなければ、巫覡たちが“天津甕星”の力を恐れた理由がないことになる」

 初叶はゆっくりと、その場にしゃがみこんだ。

「僕の負けやなぁ」

 そのまま腕で顔を覆ってしまう。

「あなたは何を………したの」


 ✻        ✻        ✻ 


 入らない。

 今日のサッカー部の活動メニューは、PK方式のシュート練習だ。

「五木先輩のシュート率、前より格段に下がってますね」

 記録をとっていた一年生が、順番待ちをしている雄聖に話しかけた。

「お前さ、先週くらいに駅で人身事故あったの知ってる?」

「はい。確か……うちの高校の生徒が、線路に落ちてひかれたんですよね」

「その事故、紀斗の目の前で起きたらしいのな」

「そうなんですか!?」

 苦しそうに顔を歪めて、雄聖が頷く。

 突然大きな声を出したので、近くで飲み物の準備をしていた一年生たちが寄ってきた。

「何の話?」

「それがさ、」

 記録係の一年が話そうとすると、いきなり激しく頭を揺らされ、しゃべれなくなった。抗議しようと、頭を押さえつけている人物の方に体をひねると、犯人は雄聖だった。慌てて、睨んでしまっていた目から力を抜く。

「あんまり口外すんなよー」

 もう一度、今度は軽く頭を小突くと、フィールドに走っていった。雄聖の番が、近づいていたらしい。

「なぁなぁ。教えろって」

 秘密にされたことで余計に興味をそそられたらしい部員たちが、残された記録係を囲む。

「言うわけねぇだろ。堀先輩との秘密だからな」

 フンッ、と胸を張る。皆が憧れている先輩が、自分にだけ話してくれたという優越感。

 秘密にすることが先輩の頼みなら仕方がないと大方は持ち場に戻ったが、諦めの悪い部員たちはつきまとう。本心は、お互いふざけあっていたいだけだったが。

「すみません」

「あ、はい」

 じゃれあいをいつまでも続けていると、知らない男子に声をかけられた。制服につけられたバッチの色で、二学年であることを知る。

 入部希望者にしては時期が中途半端すぎるし、彼は見るからに文化系だ。脇に黒いノートパソコンを抱えている。

「五木紀斗君はいますか」

 用事は、サッカー部にではなく紀斗にだったらしい。

「五木先輩なら、あそこです」

 指をさして位置を教える。

 まだ、紀斗の休憩ローテーションはまわってこなさそうだ。

「もう少し時間がかかっちゃうと思うんですけど」

「じゃあ、ここで待たせてもらってもいいかな」

 吐く息が白い。彼の鼻は、既に赤くなっていた。

 運動しているならまだしも、二月の寒空の下を防寒具無しで立っていたら、絶対に風邪をひいてしまう。

「風邪ひいちゃいますって。……そうだ。部室に居てください。練習一段落したら、五木先輩を行かせますから」

「ありがとう。そうさせてもらうよ。で、部室どこかな」

 一年生たちが、顔を見合わせた。

「え、何か俺変なこと言った?」

「あそこのピンクの建物ですけど。あんな目立つのを知らない生徒、いないと思ってました」

 振り返り、部室棟を確認した彼は苦笑した。

「確かに目立つね。いや、俺今日転入してきたから、何も知らないんだ」

「そうなんですか。すみません、失礼なこと言って」

「別に。気にしないで」

 女の子のような、可愛い笑顔だった。馬鹿にしているのではなく、褒め言葉として、彼は高二男児とは思えないほどに愛嬌がある。

「扉に各部活の絵が描いてあるんで、行けばわかると思います」

「わかった。本当にありがとね」

 くしゅん、と小さなくしゃみをして真っ直ぐ部室棟へ歩いていく。既に風邪をひきかかっているのかもしれない。


 紀斗が休憩に入ると、一年生部員が駆け寄ってきた。

「今、部室で二年生の男子が五木先輩のことを待ってます」

「二年?誰だ」

「えっと……すみません、名前聞いてないです。背は高かったですけど、色白で優しそうな人でした」

 特に心当たりはなく、首をひねる。

 兎に角会ってみないことには話にならないと判断し、練習を抜けて部室に向かった。ドアを開けると中にいたのは、後輩が言っていた通りに知らない男子生徒だった。

「五木紀斗君ですか」

「誰」

 紀斗の問いには答えず、パソコンを覗き込んでいる。

「おい」

「やはり……そういうことか」

 ようやく顔を上げた男は、酷く悲しそうな顔をしていて、怒ろうと思っていた紀斗も言葉に詰まった。

「申し遅れました。水無さんのクラスに転入してきた、吉田修平です。聞いてない?」

「あいつとは最近口利いてないから」

「そうなんだ。それは縁子のせいだね」

 紀斗の顔が険しくなる。まだ縁子の名を無心には聞けない。

「君は予想通りの反応だ。俺は縁子の代わりの巫覡だよ」

 巫覡、という単語で、紀斗は修平の胸座を掴んだ。

「お前も、初生を苦しめに来たのか」

 顔を引き寄せても、修平が脅えるようなことはなかった。

 真っ直ぐ、澄んだ目を向けてくる。

「縁子が君たちを必要以上に苦しめていたのなら、僕が縁子の代わりに詫びる。すまなかった」

 投げやりでも、上辺だけでもない、真の謝罪だった。

 それで縁子を殺してしまったという罪悪感と後ろめたさが膨れ上がり、紀斗は静かに手を離した。

「俺も、いきなり掴みかかって悪かった」

 修平はワイシャツの襟を整えながら、「いいえ」と応えた。

「縁子は、水無さんと五木の詳しい調査記録を残してくれた。それは残念ながらかなり偏見を含んでいるものなんだけど、五木に関する資料はどれも君を巫覡から庇おうとしている節がある。君と縁子は、親しかったのか?」

 返答に困った。

 しかし紀斗は、正直に真実を話すことにした。

「俺と初生の仲を裂くために、期間限定の恋人にさせられた」

「……………そう。恋人に」

 修平が、紀斗から目を背けた。

「ちなみに、先日のバレンタインにはチョコをもらった?」

「いや。物は何も受け取ったことなかったけど」

「そっか」

 話しながら慣れた手つきでパソコンを操作し、画面を紀斗に向ける。三色の折れ線グラフだった。

 修平は、初生にしたのと同じ説明をした。

「じゃあ、あの事件は俺たちのせいじゃないって事か」

「まあ。縁子が憎まれていたのは気に食わないけどね」

 修平はパソコンを自分のほうに向け直した。

「それから、これは水無さんには言ってないんだけど、君には知っていて欲しいと思って」

 修平がそれまでより一段と真剣な顔になったので、紀斗も居住まいを正した。

「さっき見せた通り、縁子の力は常に減り続けていた。でも、水無さんから吸い取ったのはグラフが大きく凹んでいたところだけ。残りは、君から吸収していたのだと思う。縁子はよく君の身体に触っていなかったか?」

 思い返してみると、やたらとスキンシップを取りたがっていた。

 手を繋いだり、腕を組んだり。

「確かに触られることは多かったけど。俺には力なんてないんじゃ……」

「力はどんな生物にも少しはあるものだよ。誰だって、試合に勝ちたいときは願ったりするだろう。力があるからこそ願う意味があるってものだ」

 試合でも練習でも、いつも成功するようにと願っていた。願えば叶うと信じられるほどに、効果があった。

 しかし最近は、縁子が亡くなったことによる精神的な問題もあるが、確かに勝率や得点数が下がり続けている。

 修平の話は納得できた。

「その中でも五木は、触媒にもなれる程に力があった。でも君がこの部屋に入ってきたとき、確かに普通の人よりは大きいが、触媒となりうるような力は感知できなかった」

 つまりは、縁子に奪われたから。

「でも、そんなことして何になる?触媒は他の奴でもなれるんだろう。初生の力を消した方が……」

「そう、思うよな」

 床に引きっぱなしになっていたストレッチ用のマットに胡坐をかいてしまう修平。紀斗には背を向けている。

「おい」

「縁子はさ、君のことが好き……だったんじゃないか」

「告白されたのは事実だけど、それは……」

 嘘だと思っていた。初生に近づくための。

 しかし告白された時は確かに、真剣な目をしていた。

「これは俺の想像だけど、縁子の本心としては世界平和も“天津甕星”のことも、きっとどうでも良かったんだよ。………ただ、好きな人が傷ついて欲しくなかった。それだけのために行動していた」

 紀斗は縁子と一緒にいた時間を思い返した。

 初生が人質にとられていたし、全てが強引だった。

 それでも、本当はどこかでそれが縁子の真の姿ではないと気づいていた。

 真の縁子は、初めて会ったときの泣き虫な縁子だ。巫覡としての運命を嘆き、自らの意思で生きたいと泣いていた。

 縁子が選び取った未来。

 それが、自身を傷つけ嫌われてまで紀斗を守ることだったのか。

 あの四月の屋上で、泣いていた彼女を見つけたのが自分で良かったと思っていた。

 でも、今は。

 見つけてあげなければ、そしてもっと優しい人に見つけられていて欲しかったと心底思った。


 ✻        ✻        ✻ 


「何もする気ぃは無かったんよ」

 初叶は顔を伏せたままだ。

「前に言うたな、僕は恋をしたって。そんときに願ってしもうたんや。彼女を自分のものにしたいて」

 初生は、かける言葉が無かった。

「僕の願いを叶える力は、はっきり言うて強すぎる。僕にとって、願うこと即ち叶うことや。彼女は僕を愛してくれとったけど、それが純粋な心だったんか僕の力に従わされとったんかは、結局わからず仕舞いや」

 初叶は悔しそうでもあり、悲しそうでもあった。

「確かなんは、彼女を好きやった奴が他にもおったっちゅうことや。あいつは僕が人でないことも知っとって、何をしてでも僕を彼女から遠ざけようとした。して、叶ってしもうたんや。あいつが傷つく、最悪な方法で」

 初生には、初叶の気持ちが痛いほどわかってしまった。

 縁子を憎んだのは、巫覡に家族を殺されたせいもある。しかし、紀斗を奪われたからでもあるのだ。縁子が亡くなるという最悪な方法で、初生の願いも叶ってしまった。

 それが“天津甕星”の力のせいではなかったのだとわかっても尚、初生から罪の意識が消え去ったわけではない。

「あいつが不幸になって欲しかったわけやない。でもな、そんなの何の言い訳にもならへんのや。力は人やない。情や常識なんて欠片もあらへん。はつなちゃんにもあったんやない?信じられへんような方法で願いが叶ったこと」

 あったのだろうか。誰かの不幸の上に成就した願い。

 願ったせいで傷つけた事。傷……怪我…………!

「あった……」

 小学校の修学旅行の班決め。

 初生は、紀斗と同じ班になりたいと願っていた。そしてその願いは叶った。

 でも、もしもあの時紀斗が右手を骨折していなければ、違う班になっていたのかもしれない。

「はつなちゃんも、あるんやな」

 初叶はとても苦しそうだった。

 きっと何年もの間、一人で苦しみ続けてきた。

「初叶は……“天津甕星”の力が嫌?」

「嫌や。すっごく」

 いつも笑顔だったのは、一旦その面を取ってしまえば二度と付け直す自信が無かったから。

「ねぇ初叶。私に考えがあるの」

 ゆっくりと、初叶が顔を上げた。


 ✻        ✻        ✻ 


 手にぐしゃぐしゃになった手紙を握ったまま、呆然と立ち尽くした。

「……………もう一度、言ってくれへん?」

 声が震える。

 聞きたくなどない。

 それでも、知らなくてはいけない。自分が何をしてしまったのかを。

「先刻、晴義様が、お亡くなりに、なりました」

 ゆっくりと一語一語をかみ締めるように、琴が繰り返した。

「晴義様は、至急晴臣様と直接お話したいと、大蔵へ向かわれておりましたが、無事に対談を終えて戻られた宿で倒れられていたそうです。発見されたときには既に、息をひきとっていたと」

 わかっているのに、目を背けようとしてしまう。無意識に、心無い質問が口を衝いていた。

「死因は何なん」

「それはまだわかりません。持病はありませんでしたし、至って健康でしたが」

 僕は、自分で自分を傷つけている。泥沼にはまっている。

 俄に勢いよく襖が開いた。

「あなた!」

 目に涙を浮かべた日和が、怒りを露に向かってきた。

 ぱんッ。

 避けるつもりなどなかった。むしろ、何発でも叩いて欲しかった。それで犯してしまった過ちを少しでも償えるのならば、いくらでも受ける。

 しかし、日和が打ったのは後にも先にもその一回だけだった。

「琴、外してもらえるかしら。人払いを。しばらく誰も近づかせないで」

「承知いたしました」

 静かに琴が部屋から出て行く。

 沈黙が続いた。

 二人で、声をあげずに泣いていた。拭うことをせず、慰めることもしない。

「ごめんなさい」

 しばらくして、日和が僕に謝った。

「何で日和が謝まんねん。悪いのは全部、僕やん」

 激しく首を横に振る。

「私もだよ。本当は私、あなたの正体と力を知っていた。でも、あなたが人でないと認めてしまうのが怖くて……。もしもそれを隠していなかったら、こんなことにはならなかったかもしれない」

「日和のせいやない。僕が、晴義が消えることを願ってしもうたんや」

 日和が、僕の顔を見上げた。

「こんなの、卑怯だとはわかってるけれど……。お願い、私にも償わせて欲しいの。このままならきっと私は、この先誰にも罪を問われない。婚約者が殺された、被害者として扱われるかもしれない。そんな未来に、私は耐えられないの」

 胸が苦しくなった。

 たった今、僕も日和と同じものを欲した。

 責めて欲しい。蔑んで欲しい。哀れみでも、労わりでもなく。

「僕と一緒におったらこの先、辛いことだらけやで」

 大好きな人。大切な人。

 君にそんな顔をさせたくなかった。

 そんな道を選ばせたくなかった。

「二人で、頑張って償っていこう?」

「……そうやな」

 そっと、日和を抱きしめた。

 重い罪で、この小さな身体が壊れぬように。


 日和は、吉田家との縁を切った。けじめをつけるためらしい。

 沢山の巫覡たちの反対を押しのけてのことだった。特に琴は最後まで日和を留まらせようと説得していたが、日和の決意の固さを知って納得してくれた。

「日和様の分まで、私は巫覡としてここに残ります。いつでも帰ってきてください」

「ありがとう。でも、私はもうこの家の敷居を跨ぐことはないわ。そうでなくては、償いにならないもの」

 吉田の姓を捨てた日和は、母の旧姓である水無を名乗ることになった。

 遠くへ。巫覡に“天津甕星”の力が届かない場所へ。

 もう二度と、同じ罪を繰り返すことがないように。


 そうして、十年の月日が流れた。

「あなたは、どうしたいの」

 何の脈絡もなく、日和がそう尋ねた。

「どうって……力を使うことなく、日和と平穏に暮らしたい」

「私とじゃないと、駄目なの?」

「当たり前やん。僕が一緒に居たいのは、日和だけや」

 日和が優しく微笑んだ。

「私以外も好きになれなくちゃ駄目よ。だってあなた、全然歳をとらないじゃない」

 気づいていた。

 鏡の前に並ぶと、同い年くらいに見えるようになっていた。出会った頃、日和はまだ十七歳くらいだったはずだ。

「でも、無理や。他の人を好きになんてなれん」

「私たちの子供でも?」

「………え?」

 日和は真面目な顔をしていた。

「でも、“天津甕星”を増やすことになるかもしれないんやで」

「私ね、あなたと一緒にいて気づいたことがあるの。巫覡の力と“天津甕星”の力は打ち消しあう関係にある。……だから、私との子なら、力も弱まると思う」

 おそらく、人間である日和よりも長く生きてしまうであろう、僕のために。日和が居なくなっても僕が一人にならないように。

 そのために、産まれてきてくれたんだよ―――日香織。

 日香織はすくすくと健康に育った。

 毎年元旦には、おみくじを引かせた。それが、僕の考えた“天津甕星”の力を測る方法だった。誰でも、大吉が出て欲しいと願う。わざと大吉が出にくい神社に連れて行った。

「お父さん。今年も中吉だったよ」

 悲しそうな顔をする娘には申し訳なかったが、大吉が出ないことに毎回安堵していた。

 でも、そんな方法は無意味だった。

 日香織が結婚し家を出てから、日和が種明かしをしてくれた。

「あなた、日香織が大吉引きませんようにって、無意識に願っていたでしょう」

「わかっとったんなら、どうして早く止めんかったん」

「だって……それであなたが安心することができるなら、いいと思ったから」

 何年経っても、僕は日和に守られていた。

 僕の知らないところで、ずっとずっと守られていた。そのことを本当に理解したのは、晴臣にかけられた封印が解けてからだ。

 疑問に思っていた。何故、晴義が亡くなって四十年近く経ってから復讐されたのか。

 水無家が襲われた日、日和が亡くなっていた。

 日和はずっと、僕の居場所を巫覡に特定されないようにしていたのだと気がついた。


 結局、僕は日和を守れなかった。

 僕は罪を償うどころか、願いによって沢山の幸せを手に入れた。

 日和、日香織、そして―――初生。

 幸福をくれた君たちに、僕は何を返せるのだろう。

 もう地上にはいない二人には、この先長い時間をかけて返していくしかない。

 けれど初生は。

 少しでも、苦しみを取り除いてあげられたら。

 もう初生が“天津甕星”のせいで苦しまなくて済むように、僕ができること――――――。


 ✻        ✻        ✻ 


 紀斗が部活に行くために教室を出ると、初生がいた。

 話しかけるなと言われているので、いつも通り無視する。

「待って」

 しかし、約十日ぶりに懐かしい声が呼び止めた。

「あのね、私のクラスに転入生が来て」

「吉田だろう。聞いた。全部な」

 初生は目を大きく見開いた。

「それなら話が早い。私ね、もうこの力を失くそうと思う。誰も傷つかなくて良いように」

「失くすって、どうやって」

「それは、」

「何してるんだ」

 話を遮ったのは、修平だ。

「ごめんね。巫覡としては二人が一緒にいるのを見逃せないから」

 申し訳なさそうに、パソコン片手に隣に立った。

「吉田君も、立ち会ってくれると嬉しいな」

「立ち会う?何に」

 初生は深呼吸した。

「“天津甕星”を、消すんだよ」

「消すって……話したと思うけど、俺には力がないんだよ。感知はパソコンでできるようにしたけど、吸収は…」

「違うよ。私、思いついたんだ。もう誰も傷つかなくて済む方法を」

 初生は、二人を交互に見た。

「巫覡の力を使おうとするから、犠牲者がでるんだよ。私とかずが、願えばいい」

 紀斗と修平は同時に息を呑んだ。

「“天津甕星”自身が“天津甕星”の力を消すっていうのか」

 修平がパソコンを起動させるためにしゃがんだ。

 その隙に紀斗が、巫覡である修平に聞こえないように、小声で初生に言った。

「それじゃあ初生が」

 初生はさらに小さな声で、屈んでくれた紀斗の耳元にささやく。

「大丈夫。消すのは“天津甕星”の力だけ。私自身が消えるわけじゃない」

 確かな言葉を聞いて、紀斗は安心した。

「そこ、何話してるの」

 修平に止められ、二人は距離をとった。

「水無さんの力が消えても、問題は“天津甕星”本人の方だ。晴臣様のかけた封印が解けてしまってからは行方不明になっちゃったし。今他の巫覡たちが探してはいるけど。水無さんの力じゃ、“天津甕星”に願いを行使することはできないだろうし……」

「晴臣様?」

 紀斗が首を傾げる。

「あぁ。俺の祖父で、巫覡のリーダーみたいな方だ。強大な力を持っていたらしい。“天津甕星”の封印をしたときに力を使い切って亡くなり、簡単に言えば霊になって指示を出し続けてくださっている」

 巫覡がそこまで人知を超えた存在であったとは。

 初生と紀斗はただただ驚いた。

「でも、その心配も要らないよ」

 初生は小さく笑った。

「私、初叶にもうこの計画を提案したんだ」

 意味がわからない、という様子の男子二人を見て、慌てて説明を加えた。

「初叶っていうのは、実は“天津甕星”のことなんだ」

「えぇっ!」

 修平が絶句した。

「封印が解けて直ぐ、初叶は私の前に現れた。初叶は誤解されてるよ。本当はただ、家族と一緒にいられるだけで良かった。初叶自身も“天津甕星”の力を嫌っている」

 呆然としている二人をよそに、初生は続けた。

「私とかず、初叶が願う。絶対にどんな願いでも叶うんだよ。私たちは願う。“天津甕星”の力が消滅することを」

 修平はすごい速さでキーボードを叩いた。

「ピロロン」

 直ぐにパソコンが鳴る。

「晴臣様からだ」

 初生と紀斗に画面を向けてくれる。

『確かにそうだが、信用ならん。我も立ち会う。そして、騙しておったときには容赦せんぞ』

「こいつ!」

 紀斗が怒りで顔を赤らめる。

「落ち着いて、かず。仕様がないんだよ。今までのことを考えたら」

 初生は修平からパソコンを借りると、慣れない手つきで文字を打ち込んだ。

『私のお婆ちゃんを好きだったのは、晴臣さんですよね』

「えっ?」

 横で見守っていた修平が声をあげた。

『日和さんのことか。彼女を好きだったのは、我ではない。兄の晴義だ』

「晴臣様は、松原に婿入りした晴海様との二人兄弟のはずでは………」

 修平にパソコンを渡す。初生では入力速度が遅すぎると判断したためだ。

 滑るように修平の白い指がキーボード上を動く。

『“天津甕星”との戦いで晴臣様がお亡くなりになり、縁子が当主になるまでの間晴海様が松原家と吉田家をまとめていらした。……晴義という名の人物は全く存じ上げません』

 英雄のように語られ、死して尚巫覡を導き続ける晴臣。そして、晴臣が母体から力を吸い尽くしたがために無能で産まれたともいわれる晴海。

 先代の当主の子供は、この二人だけだと聞かされていた。

『兄上も、愚弟と同じだった。それなのに当主となられた。だから我が当主に納まった折、重臣たちの手によって、兄上の存在が記録から消去されてしまったのだ』

 弟と同じ、つまりは晴義にも力が無かった。

 無能者が当主を勤めた。―――力ある者ほど、それを恥だと考える傾向にある。

「酷い………」

 口を押さえて、初生が小さく漏らした。紀斗も顔を歪めている。

 しかし修平は、無能ゆえに迫害され続けてきた自身の過去を回想し、彼らならそれくらいやりかねないだろうと納得していた。表立って罵られることはなくなったが、正式な当主となった現在でさえ、上層部の巫覡ほど修平に対し陰口を叩いている。

 かつての晴海もそうであり、縁子の才能が開花した途端に当主の地位から引き摺り下ろされた。その扱いからしても、巫覡内部での無能者の立場が垣間見えるというものだ。

『晴義様は、どうしていらっしゃらないのです』

『“天津甕星”に殺された』

 その場の空気が凍りついた。

『一体、何があったのですか』

 キーボードを叩く音が、やけに大きく響く。

『我が兄上と最後に会ったとき“天津甕星”について相談された。「私は当主として、巫覡を守る義務がある。だから“天津甕星”が真に危機を招く者であるのなら、消すべきだ。……そう自分に言い聞かせ、一度はお前に“天津甕星”を消す決意の文を書こうともした。しかし、やはり私には彼が悪には見えない。第一、日和さんの大切にしている者だ。日和さんが好きなのは、本当は私ではなく“天津甕星”だ。私はできることなら、日和さんと“天津甕星”の結婚を認めてあげたい。」兄上はそう言って、我の目を見据えた。その時の兄上の表情は、今でも忘れられない。我は反対だった。人ならざるものと巫覡との婚姻など。しかし、最終的に折れたのは我の方だった。「帰ったら、二人の結婚の儀を執り行う。」兄上は、はっきりとそうおっしゃった。それなのに、その日の夕方“天津甕星”の力が使われたのを感知し、兄上は亡くなった』

 それが全ての始まり。

「こんな弔い合戦は、もう終わらせなきゃ」

 初生は、両手で胸をおさえた。

「吉田君、タイプしてもらっていい?」

 修平が頷くのを見てから、初生は晴臣に語りかけた。

『確かに、初叶――“天津甕星”が晴義さんを殺してしまったのが事の発端かもしれません。でも、それは私の家族を殺していい理由になるのですか』

「お前の家族が殺されたって、どういうことだよ!」

 紀斗が驚き、肩を揺する。

「俺も知らない。水無さんの家族を殺したなんて記録は、どこにもなかった」

 修平も、画面に初生の言葉を打ち込みながら、怪訝な顔をする。

 いくら待っても、文字は返ってこなかった。

「逃げるなんて、卑怯だ」

 紀斗が吐き捨てる。

「最後にひとつ、自分で入力させて」

 初生が、修平からパソコンを受け取った。

『答えたくないのなら結構です。ただ、初叶は初叶なりに、自身の力に苦しんでいたということだけは言わせてください』

 パソコンを返すと、縁子が亡くなる前のようなすっきりした笑顔で紀斗を見上げた。

「力、貸してくれる?」

「でも俺の力はもうなくて……」

 修平が、力のグラフを表示させた。

「いや、五木の力は水無さんと共鳴して、増大してきている。ひとつだけなら叶えられると思うよ。どうするかは、五木次第」

 紀斗の答えは、決まっていた。

「もちろん協力する。」


 ✻        ✻        ✻ 


 三人と一つの霊は、公園に来た。

「初叶。どこにいるの」

 探し回る初生を真似て、紀斗と修平も公園内を見渡す。

「ピロロン」

 修平の鞄の中から音が鳴った。パソコンを開く。

『逃げたのではないか』

「違う!」

 画面に浮かび上がった文字に初生が叫ぶ。

「なんや、大声出して」

 ブランコがキィッと耳障りな音をたてた。誰もいなかったはずなのに、初叶はブランコに座っていた。

「あれが初叶か」

 紀斗の問いに、初生が頷く。

「もしかしなくても、紀斗くんやろ。想像通り、かっこいいやん。はつなちゃんからよく話してもろうとったんよ。やっと会えて嬉しいわ」

 もっと怖い姿を想像していた紀斗と修平は、笑顔でブランコに乗る関西弁の男に唖然とした。

「そっちのインテリくんは何て名前なん」

「吉田修平君。クラスメイトで、巫覡なの」

 巫覡、という単語にブランコをこぐ足を止めた。

「そう、修平くんは巫覡なん」

 ブランコを降り、初生の元に来る。

「ピロロン」

 皆が一斉に音源を見た。

『お前は何も変わっとらんな。十二年前にも思ったが、老いはないのか』

 初叶は線の目を崩した。

「その物言い。これは、晴臣か!」

 修平は驚きつつも、初叶の迫力に押されて頷く。

「晴臣、ずっと君に謝りたかったんよ」

 初叶の言葉を、修平が画面にタイプしていく。

「ほんまに、ごめんな。……謝ったところで許してくれるとは思ってへん。そんでも言うときたかった。勝手に手紙読んどいて、勝手に憎んで……殺して…………」

『そうか……。書きかけの文を読んでおったのだな。兄上は、お前のことを認めておった。日和さんの気持ちを尊重して、結婚させるつもりだった』

「晴義が。でも、日和が僕を好きになってくれたのは“天津甕星”の力のせいで」

『いや。日和さんに力は働いていなかった。本当に日和さんはお前のことを好いとった』

 初叶は、今や完全に面を手放していた。

『我は巫覡。力を視る者。お前が力で日和さんを手に入れたのでないことくらい、知っておるわ』

 初叶は、静かに泣いていた。

「そうなん、力、使ってへんかったん……」

 “天津甕星”自身は、力を視ることはできない。

 その事を巫覡たちはわかっていなかったのだろう。

 初生は、そっと初叶の手を握った。

「僕、今世界で一番幸せな自信あるわ」

 初叶を抱きしめた。初生の小さな腕でも十分に抱けるほど、初叶の胴は細かった。

「初叶は優しすぎるほど優しい。私がちゃんと、知っているから」

 初叶の頬を離れた雫が、初生の首筋に落ちた。

 苦しいほどに強く、抱き返される。初叶が耳もとに口を寄せた。

「もう後悔なんてない。このまま消えような」

 初生以外には聞こえない声量でささやくと、初生の耳を塞いだ。そのまま、初叶は紀斗のことを真直ぐ見る。

「はつなちゃんのこと、頼むで」

「はい」

 紀斗が口を引き結んでしっかりと首肯する。それを聞くと、初叶は初生から手を離した。

「さぁ、願おうか」

 初生、紀斗、初叶が瞳を閉じる。

 修平は、パソコンの画面を凝視した。力を示す数値がぐんぐん上昇していく。初叶の力を表示していた青の線がグラフの最高値を突き抜け、測れなくなってしまった。

「僕らの願い」


 ―――“天津甕星”が消滅して欲しい!


 消えていた青の線が、再び表中に現れた。その値は急激に下降を続ける。赤もそれに平行して下がる。

 その時、修平は自分の愚かさに気づいた。

 ウィンドウを開いて、晴臣宛にタイプする。

『力を全て失えば死ぬというのは、巫覡も“天津甕星”も同じなのではないですか。晴臣様、知ってらっしゃったのでしょう』

『これで“天津甕星”は消える。御主も松原の娘の敵が取れて、嬉しかろう』

 修平は手を握り締めた。ただでさえ寒さで痛んでいた古傷が開く。

『誰も傷つかない、その中には水無さんも含むべきです!これでは、彼女が皆の傷を背負っただけだ』

 止めなくては、と修平は思った。しかし、絶対なる願いの前では、成す術もなく。

 既にグラフ画面には何も描かれていなかった。

 修平が顔を上げるのと、三人が目を開けるのが同時だった。

 初叶の身体の向こうに、滑り台が透けて見える。そして初生は真っ青な顔で地べたに座り込んだ。

「おい初生、どういうことだよ。消すのは“天津甕星”の力だけで、お前自身が消えるわけじゃないって言ってただろう!」

 紀斗が生気の無い初生を抱きかかえて叫ぶ。その合間にも紀斗に伝わってくる初生の脈拍は遅くなっていく。

「嘘ついちゃって、ごめん……ね」

 空気の抜けるような呼吸音。

 冷たくなっていく身体。

「水無さん、しっかりするんだ!」

 駆け寄った修平の脳裏には、縁子の顔が浮かんでいた。

 二度と会えなくなる。その意味を、辛さを、痛いほど思い知らされたのは、つい十日ほど前。

「死ぬなんて、許さねーぞ!!!」

 紀斗の叫びに返事は無く、瞼が完全に閉じてしまう。

「初生!」

 肩を揺すると、つぅと静かに涙が線を引いた。

「こんな…こんなつもりでは、なかったのに………」

 紀斗の隣にしゃがみ、修平も初生の顔を覗き込む。

 僅かに、ぴくりと眉が動いた。

「水無さんしっかりして!」

「初生、聞こえるか?」

 二人の声に呼応するかのように、初生の頬に赤みがさしてきた。

「命が、戻ってきている……?」

 ゆっくりと、瞼が開く。

 修平の言葉通りに、初生は徐々に身体の自由を取り戻していく。

「大丈夫か、初生」

「うん。………でも、何で」

 初生は自身に起こっていることが信じられず、起き上がって手を開閉しては「何で」を繰り返した。

「騙してもうて堪忍な」

 声のした方を振り仰ぐと、下半身は既に認識できないまでになっている初叶が笑っていた。

「騙したって、どういうこと」

 初生が再び手を握ろうとしたが、初叶に触れることはもうできなかった。すり抜けてしまう身体に、初生はそれでも手を添える。

「これは賭けだっだんやけど、上手くいったみたいやな。日香織―――お母さんの『娘を生き延びさせて欲しい』という願いは、今でもまだ有効なんよ」

 それは十年以上前、巫覡たちに襲われたとき初生の命を繋いだ母の愛。

「はつなちゃんからこの計画を聞いた時。僕の、そして自らの命をも犠牲に人類へ安寧をもたらすという決意に賛同はした。でもな、君は僕の大切な孫娘なんよ。そう簡単に死なせはしない。力が消えても、はつなちゃんが生き残れると思ったからこそ、実行に移したんや。まぁこれで天津甕星の力は消滅するから、この先は日香織の加護も消える。ちゃんと自分のこと、大事にするんやで」

「天津甕星の力を使えば生き残れるというのなら、どうして、初叶も生き残れるように願わなかったの!」

 大粒の涙を零しながら、初生は背景と同化し始めている初叶に詰め寄る。

「はつなちゃんは人間から産まれとるから、身体と力は別物や。力が無くなっても身体は残る。でも、僕は強大な力によって実体化してたんや。力がゼロになったら、何も残らへん。何も無いところから何かが生まれるっちゅうことは有り得ん。誰かの身体に乗り移ってしまうのが関の山や。そないなことになったら、また犠牲者が出るで」

 初叶はしゃがんで、初生に目線を合わせた。

 手を頭に乗せているが、それを感じることはもう、できない。

「始まりは、願いを叶えて欲しいって思いやった。願いを叶える力は手に入れた。でも、叶えてもらえたことは無かった」

 目を凝らさなければ、どこに初叶がいるのかわからない。

「はつなちゃんが初めてなんよ、僕の願い叶えてくれるんは。『ただ大切な人と一緒にいたい』僕の本当の願いを叶えてくれて、ありがとう。一足先に、日和と日香織に会うてくるな」

 初叶は確かに、心の底から笑っていた。

 仮面ではない、満面の笑み。

「くれた名前の通りやな。初めて、叶えてくれた」

 完全に、姿が見えなくなってしまう。

「初叶!!」

 何も存在しない空間に、初生は必死で手を伸ばす。

「次は、はつなちゃんの番やで。願い、叶うと良いな」

 遠い空から声が降ってくる。

 その声が触ったかのように、何か冷たいものが初生の首筋に触れた。

「雪だ……。」

 初生はしんしんと降り積もっていく雪の中にいつまでも座りながら、空を見上げていた。

 ゼロになった力で、初叶の幸せを願いながら。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

この作品には続きがございます。

ぜひ次のお話もお読みいただけますと幸いです。

感想もお待ちしております。

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