弐 許されざる罪
「はぁ……」
古典の授業中にため息が出たのは、決して授業が嫌だったのではなく。
今日はもう二月五日。
バレンタインまであと十日を切り、一般女子のテンションは上がり始めているのである。去年までなら初生も少しは浮かれていた。でも、今年は。
昼休み。
「―――で、はつは誰にチョコあげるの?」
樹理が興味津々といった様子で尋ねてくる。
「樹理、百世、智佳、あと……」
「そうじゃなくって。本命の話だよ」
指折数え始めた初生を百世が止めた。初生は思わずぎくりとしてしまう。
「別に、好きな人いないし」
「あ、目そらした!初生は嘘つけないんだから、正直に言っちゃいなさい。絶対秘密にするから」
三人に詰め寄られ、諦めてお弁当箱を机に置いた。
「好きな人がいないのは本当だけど……告られたというか、何というか」
「マジで!?」
「誰に!?」
百世と樹理が立ち上がらんばかりの勢いで反応する。驚き後ずさると、横から智佳が止めに入った。
「二人とも。初生が困っているでしょう」
智佳を見ていると初生は、お母さんがいたらこんな風だったのかなと感じる。
「もう三ヶ月以上経っちゃってるんだけど、答え出せてなくて。去年までは毎年何の気なしに義理チョコあげてたんだけど、今年もそれで良いのかな、と」
「良くない良くない!三ヶ月保留のままだぁ?相手、どんだけ奥手なんだし」
信じられない、と椅子にのけぞる樹理。やはり自分は非常識な女なのだろうかと、不安が大きくなる。
しかし、わからないものはわからないのだ。
この好きが、幼馴染としての好きか、そうでないか。
「相手は……かず、五木紀斗なんだけど、」
「五木君!?」
三人が同時に叫んだ。
「五木君って、C組のあの五木君?」
「そう、だけど」
「早く返事しないと、もったいないよ。あんなにいい人、他にいないって」
やはり、これ以上待たせるのはよくない。
「わかった。バレンタインまでに答え出すよ」
「応援してるよ」
✻ ✻ ✻
この高校の建物は、一年生から三年生までの教室がある教室棟、理科室や家庭科室等がある特別棟、職員室や会議室のある管理棟、そして外部活のための部室がある部室棟で構成されている。
部室棟以外の建物はそれぞれが渡り廊下で繋がっており、最上階である三階ではベランダのように一旦外に出る構造になっている。
だから、雨の日の移動教室は悲惨だ。わざわざ傘を持つのも面倒なので、大概の生徒は教科書が濡れないように庇いながら走って渡りきるのだが、うっかり滑ってしまう生徒の数が意外と多い。教科書の文字は滲み最悪の場合解読不能となり、制服も大胆に汚れてしまう。学校側は先日の職員会議で、来年度までにプールサイドに敷くような転倒防止マットを設置することを決定したらしい。これで少しは犠牲者が減るだろう。
そのような問題だらけの渡り廊下だが、晴れていて暖かい日には休憩場所としても賑わう憩いの場になる。昼休みに一番人が集まっているのは、港が一望できる教室棟と管理棟を繋ぐ渡り廊下である。
しかしたった一人、紀斗だけはいつも特別棟と管理棟間の渡り廊下で弁当を食べている。決して友達がいないのではなく、むしろ多い。それなのに昼休みをいつも一人で過ごしているのは、一人でグラウンドを眺めるのが好きだからだ。紀斗は塀の上に弁当箱を広げ、通行人に背を向けて立ち食いする。
私には絶好のチャンスだった。
毎日、私は昼休みにその渡り廊下を通る。紀斗はいつも振り向かなかった。
脇を通り過ぎる瞬間、さりげなく紀斗の身体に触れる。目が翳む。毎回、気づかれてしまわないかと緊張する。幸いまだ一度も、私を認識されてはいないようだ。
そしてまた私はぼやける視界の中で感覚だけを頼りに、特別棟の中に入っていく。
完全に紀斗の死角に入ってから、ようやく紀斗を振り返る。彼はグラウンドを見つめたままだった。ほっと胸を撫で下ろす。
細かく震えている紀斗に振れた右手を、左手で握り締める。
「もう少しだけ、私に力を」
紀斗を守れる強さをください。
震えが治まってきた。もう視界も歪んではいない。
教室に戻ると、初生がいつものメンバーに囲まれていた。突然、ポニーテールで眼鏡の人と、二つ縛りの人が身を乗り出して叫んだ。
「マジで!?」
「誰に!?」
全く能天気な女たちだ。
彼女たちは、目の前にいる友達の正体を知ったらどうするのだろう。
初生の友情ごっこを崩壊させてやりたい衝動に駆られる。それを抑えて、自分の席につく。私の席は初生の隣なので、会話がよりはっきりと聞こえるようになってしまった。うるさいからヘッドホンでもしようと鞄に手を伸ばした。
「相手は……かず、五木紀斗だけど、」
「五木君!?」
不意打ちで紀斗の名が出て、思わず手を引っ込める。
「五木君って、C組のあの五木君?」
「そう、だけど」
小さな初生が、ますます小さくなっている。
「早く返事しないと、もったいないよ。あんなにいい人、他にいないって」
返事とは、何だ。
「わかった。バレンタインまでに答え出すよ」
「応援してるよ」
「友達の彼氏が五木くんって、鼻が高いよね」
「いや、百世の自慢にはならないから」
彼氏……だと。
散々もてあそんでおいて、さらに彼女の座に着こうとしているのか。
会話から推測するに、告白したのは紀斗の方だ。もうそこまで、洗脳されていたのか。紀斗は、初生に告白させられた。告白するように仕向けられたのだ。
その時。
耳元でささやく声を感じた。慌てて見回すが、やはり教室には沢山の生徒がいる。
急いで屋上に向かう。この時間なら、まだ誰もいないはずだ。
階段を上りきり扉を開くと、やはり想像した通り人影はなかった。あるのは、
「以前は声をかけずとも気配のみで我を察知できておったのに。最近、御主の力が急激に弱くなっておる」
人でないものの影のみ。
「すみません。晴臣様」
やはり、力が衰えていることを隠すのは難しかったか。
「我はかまわぬ。しかし、問題は御主だ。それだけの力をいきなり失うとは……何か良からぬことをしているのではあるまいな?」
「晴臣様より言いつけられましたように、水無初生を監視し、五木紀斗と引き離すようにと、それだけに注力して行動しております」
「まあ良い。それと、御主なら気づけておろうが、最近“天津甕星”の力が大幅に増大しておる。……件の奴の封印もそろそろ切れるかもしれん。そちらも警戒しておけ」
「承知いたしました」
もうほとんど感じることのできなくなった晴臣の気配。なんとかそれが周囲から消えたことを確認し、緊張を解く。
“天津甕星”の力の増大。そんな重大なことに気づけなかった。晴臣に忠告されて初めて知ったのだ。想像以上に、私の巫覡としての力は落ちている。このわずかな力でどこまでやれるか………。
もう、時間がない。いつまでもこのままではいられないのだ。行動に移らなければ。
紀斗のために。
✻ ✻ ✻
学生鞄を肩にかけて、下駄箱に向かう。
肩を叩かれる感覚がして振り返ると、そこにいたのは。
「かず!」
告白の返事の件について考え事をしていた初生は、素っ頓狂な声をあげてしまった。
「何をそんなに驚いてんだ」
長身を折り曲げて視線を合わせてくる。
「別に、何でもないから」
「あっそ」
初生が歩き出すと、紀斗もついてきた。
「かず、どこに向かっているの」
「グラウンド。部活に決まってるだろ。一緒に帰れないのが寂しいのか」
「はぁ!?そんなわけないでしょう」
「どうだか」
告白してきたのは紀斗のはずなのに、この余裕ぶりは一体……。真剣に悩んでいる自分が馬鹿らしくなってくる。
「ちょっといい?」
突然声をかけられ、二人そろって声の方向を見る。そこにいたのは、縁子だった。
隣で紀斗が「この人誰?」と目で問いかけてきたので、紹介することにした。
「えっと、私と一年から同じクラスの松原縁子さん。で、こっちは私の……幼馴染の五木紀斗」
一瞬言いよどんでしまったのは、告白されていることが頭をチラついたからである。そっと紀斗を窺うと、目が合ってしまった。紀斗は別に「幼馴染」に引っかかっている様子はないが、初生は一人勝手に気まずくなって縁子に逃げた。
「松原さん、どうしたの」
「ごめんなさい。用があるのは水無さんじゃなくて、五木君の方なの」
初生は縁子に軽く腕を掴まれた。
その瞬間、全身の力が抜けていくような奇妙な感覚に襲われ、ふらついて廊下の壁に手をついて体を支えた。
「おい、大丈夫か」
「あ、だいじょ、」
「大丈夫よ。ありがとう」
紀斗が話しかけていたのは、初生ではなく、縁子だった。
「ちょっと貧血起こしちゃったみたい」
「保健室行くか。俺、ついてくけど」
「ありがとう。そうしてくれると助かる」
紀斗は縁子を支えながら、思い出したように初生の方を見た。
「松原さんのこと保健室に連れてくから。じゃあな」
待って、とは言えなかった。第一、縁子は本当に青い顔をしていて具合が悪そうで、優しい紀斗ならばこうするのが当たり前だ。でも、その当たり前が何故か無性に悲しい。私だって、よろけたのに。私だって―――。
こんな気持ちになったのは初めてだった。
✻ ✻ ✻
顔色もさることながら、体の震えも尋常でなかった。
「やっぱり、病院に行ったほうがいいんじゃないか」
養護の先生が何度も縁子を説得しようと試みたが、肝心の縁子が病院行きを断固拒否したのである。
先生から職員会議が終わるまで縁子を診ていてくれと頼まれたことに加え、あまりにも具合が悪そうだったので、紀斗はサッカー部副部長である雄聖に練習に遅れる旨を連絡し、保健室に残ることにしたのだった。
「病院に行っても、治らないわ」
ベッドに横たわり天井を見つめたまま、縁子は淡々と言った。
「何でそう言い切れる」
「だって、病気じゃないもの」
布団を口の上まで引き上げて、慣れてるし、と小さく呟く。
「原因がわかっているなら、対処法はないのか」
「あるわよ。でもこれを恐れていたら、何も始まらないから」
紀斗は、縁子の笑った顔を初めて見た。柔らかな、暖かい笑顔。……いや、この顔は前にどこかで見た気が。
「あのさ、俺たちって前にも話したことあったっけ?」
「えぇ。一年生の時に屋上で、一度だけね」
和斗は眉を寄せて、考え込む。
「入学したての頃よ。まだ髪染めてなかったし、あの頃と今とじゃ私、外見が随分変わってるから」
それを聞き、先入観を取り払ってもう一度記憶を洗い直した。
―――あの時の女の子か。
四月。校庭にはまだ桜が咲いていた。
校内をまだ詳しく知らず、本格的な部活加入は誰もしていなかった一年生たちは、教室から出てお弁当を食べるという考えが浮かばなかった。だから、昼休み開始直後に校内をうろうろしているような者は他にいなかったのである。
紀斗は、そこに目をつけた。この機会に、特別教室の位置なども覚えてしまおうと踏んでいた。
初生を誘おうかとも迷ったが、教室を覗くと新しくできたのであろう友達と楽しそうに会話している姿があり、声をかけなかった。
一人であちこち歩き回る。
屋上に自由に上がれることに気づいたときは、胸が高鳴った。小学校も中学校も、鍵がなくては立ち入れない構造になっており、てっきり高校も同じだと思い込んでいたからだ。
階段を二段飛ばしで駆け上がり、屋上へと続くドアを勢いよくあける。強風に目を細めながら外に出ると、想像していたよりも大きい空間が広がっていた。
「っく、ひっく……」
ふいに、どこからか風に乗って聞こえてきたすすり泣き。
声のする方へ行ってみると、一人の女子生徒がコンクリートにぺたりと座り込んで顔を覆っていた。
「あの。どうしたんですか」
放っておけず声をかけると、彼女は驚いて顔を上げた。驚きすぎたのか涙は止まっていたが、体は思い出したように小さなしゃっくりをこぼした。
長く伸ばした黒髪は無造作にウエーブがかかっていたが、そのはね具合から天然仕様であることが窺える。可愛いよりは美人と言う方がしっくりくるタイプである。
胸につけられたバッジの色で、一年生であることがわかった。
「こっちに来ないでよ」
顔を隠すように、背を向けてしまう。腕の動きで、無理やり涙の跡を消そうとしているのがわかる。
「別に泣き顔見るくらい、大したことないじゃん」
「何よ。高校生にもなった女が、一人で泣いてるなんてみっともないって、思ってるくせに」
声はまだ震えをこらえきれてはいなかった。
「そんなこと全く思ってない。こんなこと言うのは失礼だけど、お前人を見縊り過ぎだよ」
「あんた、誰に向かってそんな口利い……ごめんなさい。あなたには関係のない価値観よね」
感情の振れ幅が大きいらしい。勢い勇んでいたと思ったら、急に萎れた。
「俺でよかったら相談とかのるけど。誰かに話すと気持ちも整理されるし」
隣にしゃがみこんで言うと、彼女は目を落ちそうなほどに大きく見開いた。
「誰があなたみたいな他人に……」
言葉は相変わらずな上からだが、態度が拒絶を示さなくなっているのを感じた。
きっと、この少女は長い間待っていた。
寄り添ってくれる“他人”を。異なった価値観を持っている人を。
「嫌なら無理にとは言わないけど」
素直になれないようなので、紀斗からもう一押ししてみる。
彼女は勢いよく首を振った。―――横に。
一度決断してしまうと、重石がとれたらしい。気が変わらないうちにと思ってか、少女は一気に話した。
「私、本当は自分の意思で生きたいの。でも、私の事情がちょっと特殊でね。この高校への入学も、周りが決めたことなの。今まではずっと、それが当たり前だと思っていたわ。仕様がないことなのだと諦めてもいた。でも、このまま一生そうやって周りに未来を決められていくんだって考えたら、嫌になって」
考えていたよりスケールが大きく、戸惑った。
しかし、伝えたいことはある。
「確かに、諦めなくちゃいけない場面もあると思う。でもそれって大小は様々だけど、誰でもあることだ。全部が思い描いたようにはならない。それでも、ほんの少しでも、自分で選べることは必ずある。そういう部分からちょっとずつ変えていけばいいんじゃないか」
彼女はゆっくりと瞬きをして、そして綺麗に笑った。
本当に、綺麗だった。
「同情されたり、上辺だけの気遣いをされたりしたことは何度もあるけれど、そんな風に言ってくれたのは、あなたが初めてよ」
心から嬉しそうにしてくれる。
泣いていた彼女を見つけたのが自分で良かったと思った。
「ねぇ、あなたの名前、聞いてもいいかしら」
「俺は五木紀斗。一年B組だよ」
「えっ……!」
手を口に当て、視線を泳がす。
「どうした?」
そっと伸ばした手を音がするほど勢いよく撥ね退けられた。
「あ……えっと、その……………ごめんなさい」
そのまま、校内に駆け出していってしまう。
突然のことに呆然としていた紀斗は、行き場を失った手をようやく引っ込めると、自身も立ち上がった。
三階へと続く階段の下からは、生徒たちの楽しげな会話が響いてきた。しかし、電気を付け忘れた無人の踊り場だけが、取り残されたように闇の中に沈んでいたのだった。
何故、今まで気づかなかったのだろう。
目の前で横たわる松原縁子が、あの春に一人で泣いていた少女だったことに。
確かに縁子は約二年の間に大きく変わっていた。
髪は黒から赤茶になり、カールは天然ではなくパーマできちんと整えられているし、薄くではあるが化粧も嗜んでいる。
「思い出してくれたの?」
ベッドの中から、見上げられる。
「何であの時、いきなり逃げたんだ」
「あなたが紀斗だったからよ」
視線を逸らし、ぶっきらぼうに答える。
「意味がわからない。俺が紀斗であることとお前が逃げたことに、何の関係があるんだ」
「……とにかく、今の私があなたに言えることはひとつだけだわ」
苦しそうに顔を歪めながらも、起き上がる。
「私、あの時からずっと、あなたのことが好きなの」
真直ぐに大きな瞳に見つめられ、時が止まった。
屋上で自分だけに向けられたあの綺麗な笑顔が、今決意に満ちた少女に重なる。
それでも、紀斗にとって好きな人は後にも先にも一人だけだった。
「ごめん。俺、好きな人いるから」
「水無さんでしょう。あなたは騙されている」
即座に初生の名前が出てきたことに面食らいつつも、後半部が引っかかった。
「騙されているって、どういうことだ」
「そのままの意味よ。あなたが水無さんを好きな気持ちは、本物じゃない。そう仕向けられたのだから。……あなたは私と同じ。決められた運命の中をただ流されているだけ」
意味深長な発言に戸惑っている合間に、縁子はさらに続けた。
「選べる部分からちょっとずつ変えていけばいい。あなたが教えてくれたことよ。だから私は選んだの。何よりも、紀斗を」
縁子はとても真剣で、冗談を言っているようには見えなかった。
「だからって話が突飛過ぎる。大体、初生が騙してるなんて、根拠も無しに言うな」
「私の言い方に語弊があったわ。あなたを騙しているのが水無さんだというのは正確な表現ではない。強いて言うなら水無さんの、“願い”に騙されている、といったところかしら」
ふう、とひとつ大きく息を吐き出すと、一気に掛け布団を跳ね除けた。
「部活遅刻させちゃってごめんなさい。もう大丈夫よ」
覚束無い足取りで扉の方へ向かう後姿は、とても大丈夫なようには見えなかった。それでも、縁子の話から受けた衝撃が大きすぎて、引き止める気にはなれなかった。
もしも縁子が初生に騙されているのだと言ったのなら、聞く耳を持たなかっただろう。しかし、縁子は“願い”に騙されていると言ったのだ。
三ヶ月前に確かにこの身に起こった、信じられないような出来事。初生も記憶があるから、夢や幻ではないはずだ。
その事件の原因は、初生と紀斗の“願い”だった。
だからこそ、“願い”に騙されているという一見意味不明な言葉も、妙な現実味をもって聞こえてしまったのである。
「紀斗。これだけは覚えておいて」
廊下に片足を踏み出した状態で、縁子は紀斗に背を向けたまま言った。
「あまり水無さんと関わらない方がいいわ」
✻ ✻ ✻
一人で帰るのには慣れていた。断じて紀斗と帰れないのが寂しいわけではない。
ただ、少しイライラしているのは事実だ。
原因はわからない。でも無性にイライラする。
「かずの馬鹿、ドジ、間抜け、おたんこのなす太郎!」
「随分とご立腹みたいやなぁ」
「ぅわ!」
恥ずかしい。人通りが少ないのをいいことに、つい叫んでしまったが、まさか誰かに聞かれてしまうなんて。
建物の影から現れたのは、二十代後半くらいの男だった。
肌は雪のように真っ白で、髪は黄色に近い薄い茶色だ。笑っていると、こちらが見えていないのではないかと思うほどに目が細くなる。
それはどこか狐を連想させるような顔立ちだった。
「ほんまに、はつなちゃんは元気な子やな」
「え、私のこと知っているんですか?」
慌てて記憶の引き出しをひっくり返したが、関西弁を話す知り合いなんていないはずだ。
「よう知っとるよ。まだちっこかったけどな。最後に会うたのは、五歳位の時やろか。年中さんやったもんな。覚えてへんのも無理ないわ」
必死に記憶を漁りなおす。
―――「お兄ちゃんのお名前、なぁに?」
「僕?んー、僕な、自分の名前好きくないねん」
「そうなの?」
「せやから、はつなちゃんが好きな風に呼んだらええ」
「じゃあ、はつなが新しいお名前つけてあげる!」
「そりゃ嬉しいな。どんな名前なん?」
「えっとねぇ………うん、決めた!お兄ちゃんのお名前はね、」
「初叶……なの?」
「お。思い出してくれたんやな」
半信半疑な聞き方になってしまったのは、記憶が曖昧だったからではない。むしろ逆だ。はっきりと思い出したからこそ気づけた違和感。
記憶の中の初叶と今目の前にいる男は、全く同じだった。
それはつまり―――歳をとっていないということ。
仮に初叶の言ったように、最後に会ったのが五歳の時だとすると、十年以上の月日が経っていることになる。
普通十年もすれば、少しは変わるものではないか?
「どうしたん、難しい顔しはって」
線で書いたような細い目が尋ねる。
「あなたは一体、何者ですか」
ぴくっと、初叶の眉が動いた。
「……ほんま、台詞までそっくりや」
小さな呟きは強風にさらわれて、初生に届く前に消えた。直ぐに、別の言葉を発する。
「嫌やわぁ。やっと再会できたんよ、楽しい話をせな」
「楽しい話?」
初生が怪訝な顔をするのも気にせず、笑顔を崩さない初叶。
「そうや。紀斗くんとは進展したん?」
「かずを知っているの?」
いきなり紀斗の名を出され、動揺が隠せない。
「知っとるもなにも。僕の名前つけてくれた時にもゆうてたやん」
「……何て」
幼い自分が、記憶の中で無邪気に笑っている。
「初生の『はつ』と、紀斗の『と』で『はつと』やて」
蘇るかつての想い。
私はいつだって、紀斗と一緒にいたくて、紀斗が一番で、
「はつなちゃんたちは、僕の名前で繋がっとるからな。一緒にいられんわけがない」
そうだ。
答えはずっと前から知っていた。
どうして忘れていたのだろう。それはきっと、当たり前になり過ぎていたから。
願わなくては不安になった幼い頃のほうがずっと、自分の気持ちに正直だった。
私は何よりも誰よりも―――紀斗が大好きなのだ。
✻ ✻ ✻
初雪が降った。この地域は雪があまり降らない。だからこそ生徒たちは、はしゃいでいる。
自分の身に迫り来る危険なんて、知る余地もなく。
白いダッフルコートのポッケットが光っていることに気づき、携帯を取り出す。
メールではなく、電話だった。相手を確認してから出る。
「もしもし」
『もしもし。修平です』
「知ってるわよ。画面にちゃんと出るもの。『吉田』って」
『だからこそ、だよ。昔みたいに修平って呼べよ。縁子』
聞きなれた声が、面白そうに言う。
泣き虫だった幼い頃を消し去ろうとするかのように、修平は最近いきなり男らしくなった。でも残念ながらそれは、縁子には通用しない。縁子にとってはそんな姿も可愛いだけで、つい、いじめたくなってしまう。
「馬鹿。用がないなら切るけど」
『うぁ、タンマ。伝言だよ、晴臣様から』
たった一言で修平から余裕が消えた。
ここまで縁子の思考を裏切らない反応をしてくれると、こそばゆくなる。
縁子は、自分の一番の理解者は修平だと思っていた。―――そんなことを本人が知ると調子に乗ることが容易に想像できるので、誰にも話したことはないが。
「晴臣様?」
『まぁ縁子なら伝えなくてもわかってるんだろうけど。「ついに封印が解けた。警戒せよ」だとさ』
“天津甕星”の目覚め。それだけは見逃さないようにと気をつけていたつもりだったが、案の定それを感じることはできなかったらしい。しかし、私に既に力がほとんど残されていないことは、まだ知られるわけにはいかないのだ。
「わざわざ言われなくても、知っているに決まっているでしょう。でも、何で晴臣様はいつものように直接私に語り掛けないの」
『最近縁子の心が揺れてて、繋がれないみたい。天才巫覡の名折れだな』
この話題は出すべきではなかった。失態。
「そう言うあんたも、巫覡の真似事なんてやめなさい。巻き込まれるわよ、災いに」
ため息混じりにそう言うと、笑い声が返ってきた。
「何よ」
『いや。心配してくれるなんて、やっぱり縁子は優しいなってね』
「は?私はただ、」
せっかく修平のために巫覡になったのに、修平が巻き込まれていては元も子も無いじゃない。
そう言おうとして、止まってしまった。
それを口に出してしまえば、この先修平を酷く傷つけることになる。
修平のために巫覡になったと縁子が言葉にしてしまえば、縁子が巫覡として受ける傷が全て修平のものになってしまう。
小さい頃、不注意で庭に咲いたチューリップを折ってしまっただけで大泣きしたような修平に、そんな重荷を背負わせたくはない。
第一、巫覡としての重荷を背負わせないために、縁子が巫覡になったのだから。
『俺は縁子の代わりだ。だから……』
修平は縁子の言葉を待ってはいなかった。その間合いさえも、縁子の求めていることそのものだった。
「だから?」
『辛くなったら、いつでも言えよ』
「何それ、どういう、」
『ツーツーツーツー……』
小さな機械は、相手が会話を離脱したことを告げていた。それをポケットにしまい、再び歩き出す。
私の巫覡としての力が落ちている原因なら、ちゃんとわかっていた。私は、危険なことをしている。それもわかっている。わかっているけれど―――。
どうしても、紀斗を守りたいから。
初めて、泣いている私を励ましてくれた人。
それまで私の唯一の支えは、修平だった。でも、修平は一度も泣いている私に話しかけたりはしなかった。いや、私がそれをできないようにしていたのだ。
弱さを誰にも見せたくなかった私は、力の気配がするとすぐに涙の跡を消していた。巫覡ばかりに囲まれて育ったので、それで全員に弱さを見せなくて済んでいた。
誰一人として、私が毎日泣いていたことなんて知らない。巫覡であることを苦痛に感じているとわかっていたのは、修平だけだろう。修平は人の心にやけに敏感で、察しがよかった。
ただ見守っていてくれる。
その距離感が心地よく、安心できた。
でも、初めてもらった励ましは、それ以上に嬉しかった。
たとえ自分がどうなろうと、守りたいと思えるほどに。
空を見上げると、もう雪はやんでいた。
✻ ✻ ✻
また、だ。
「紀斗。数学のここの問題がわからないのだけれど、教えてもらえないかしら」
「あー、指数関数な」
そしてまた初生は、C組に向けていた体を回れ右して、A組に帰ってきてしまうのだ。
「なんか最近さあ。松原さん、五木君にべったりじゃない?」
樹理が廊下のほうを指差して、呆れた声を出した。
「さばさばした子って思ってたけど、違うみたいだね」
困ったように眉根を寄せる智佳。
「五木君、はつに告白したんだよね?」
「う、うん………」
初叶のおかげでようやく返事が決まったが、あれからというもの常に縁子が紀斗のそばにいて、話しかけられなくなってしまった。
「あ、松原さんが戻ってきた」
百世の視線を追うと、確かに縁子がいた。
「もう、うちは我慢できない」
言うなり、樹理は縁子のほうへ駆けていってしまった。
「待って」
初生たちは樹理の後を追い、結局四人で縁子に迫る態になってしまった。
「松原さん。何で昼休みの度に五木君にくっついてるわけ」
単刀直入すぎる樹理に、心底迷惑そうな顔をする縁子。
「あなたに何の関係があるの」
「関係あるよ。五木君は初生が好きで、告白までしたんだから」
「ちょ、ちょっと」
初生はあまりその話を広められたくはないので、手で制する。
勢い込んでいた樹理と百世は、それで冷静さを少し取り戻して顔を見合わせた。
「へぇ、それで。あなたたち付き合っているわけ」
長身の縁子から近距離で見据えられ、思わずしり込みしてしまう。
「いや、まだ返事はしてないんだけど、」
「ならいいじゃない。結局のところ、あなたは関係ない。ただの幼馴染ってだけなんだから」
金槌で頭を叩かれたようだった。
そうなのだ。確かに縁子が誰を好きでも関係ないし、たとえ相手が紀斗であろうと、幼馴染という立場の初生が口出しする権利は、ない。
「関係ないなんてそんな、」
「いいよ」
樹理を止める。
「はつ?」
「松原さんの言う通りだよ。私たちには関係ない。それにほら、『人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死んじまえ』って言うじゃない」
ちゃんと笑えているだろうか。引きつってはいないだろうか。
「でもそれを言うなら、先にはつと五木くんの恋路を邪魔してきたのは松原さんなんだよ」
必死になって訴える友達たち。
ありがとう。でも。
「私がはっきりしなかったのがいけないんだよ。かずとは幼稚園からずっと一緒だったから、油断したなぁ」
「幼稚園?」
縁子に聞き返され、どこに引っかかったのだろうかと不思議に思いながらも頷く。
「あなたのお母さんが亡くなられたのはいつ?」
「えっと……」
考えてみて、初生は自分が母の命日すら知らないことに気づいた。
それだけではない。
母がどんな顔で、どんな性格だったかすらわからない。
焦りを隠し、ひとつだけ確かなことを答えにする。
「幼稚園の頃には、既にいなかったけど」
「じゃあ、親戚か誰かに育てられたの?」
何故そんなことを聞くのだろう。
「ううん。お父さんに男手ひとつで」
「あなたのお父さん、二時くらいまでにあがれるようなお仕事なの?」
返す言葉を思いつけなかった。
「男手ひとつなら普通、幼稚園じゃなくて保育園なんじゃないかしら」
縁子に指摘されて、矛盾に初めて気づいた。
ちゃんと考えてみると、おかしいところは他にもたくさんある。
母のこともそうだ。家に仏壇はあるが、写真を見たことは一度もない。毎月通帳には父の給料が入っているが、最後に父と顔を合わせたのがいつなのか思い出せない。毎日欠かさず二人分の夕食を作るが、それを食べてくれたことはない。残った父の分の夕飯は、全て次の日の初生の朝食になっていた。仕事が忙しくて残業が続いているのだと思い込んでいた。しかし、休みなく三六五日働いているなんておかしすぎる。
「あなたも、決められた運命の中を流されているのね」
呟かれた言葉は、切なく揺らめいていた。
✻ ✻ ✻
「紀斗、パス!」
声に向かって、ボールを蹴る。以前なら、相手に繋がるはずだった。
しかし。急に視界に入ってきた雄聖に、パスが味方に届く前に奪われてしまう。雄聖はそのままゴール前にあがっていく。どんなに足をはやく動かしているつもりでも、ついていけない。綺麗にまわされるパスに、踊らされるばかりだ。
「どうしちゃったんだろうな、五木先輩」
密かに増えていた紀斗ファンの一年生たちが、首を傾げる。
「最近、調子悪いよな」
「もう一週間くらい、堀先輩に負けっぱなしじゃん」
足を怪我してしまい、見学しながらサッカーボールを磨いていた二年生部員が顔を上げた。
後輩に向かって、小指を立てる。
「彼女、できたっぽい」
「マジですか」
にやりと笑って頷く。
「五木先輩、カッコイイもんなぁ」
「えー。でもそのせいで弱くなったんだったら、幻滅するよ」
「確かにな」
はぁ、と揃って溜め息をついてしまった後輩を尻目に、二年生部員は再びボールを拭き始めた。
その日の結果は、二対零。
結局紀斗は一度も、シュートを決めることができなかった。
✻ ✻ ✻
わからない。
初生の家族の本当の姿がどうなっているのか。
一人考え事に耽りながら、機械的にいつも通りの帰路をたどっていた。
誰かに聞こうにも、親戚は一人も知らない。祖父母や伯父さんというものに会ったことすらなかった。
「なんや、今日はえらく暗い顔しとるな」
顔を上げると、いつの間にか目の前に初叶がいた。
そうだ、彼なら。
「ねぇ初叶、私のお父さんやお母さんのこと知らない?」
初めて、初叶の瞳が見えた。
しかしそれは刹那のことで、すぐにまた線に隠されてしまった。
「どうしてそないなことが知りたいん」
聞いてはいけない。
何故かそんな気がした。
この問いの答えを知ってしまえば、もう後戻りはできない。そんな予感。
それでも―――進みたいから。
「私の家族に対する記憶には、矛盾が多すぎるの。私は真実が知りたい。何が本当なのかを見極めたい」
「仮に、はつなちゃんの記憶が操作されてるとするな。したらそれは、何のためにされたんやと思う。少なからず、はつなちゃんが知らんほうがええと思ったから、やったことや。知ったら辛いことかもしれへん。それでも、知りたいんか」
しっかりと初叶を見据えて大きくうなずく。
「いい目や。今のはつなちゃんなら、大丈夫やろう」
初叶は、紀斗に似た大きな骨ばった手で初生の髪を優しく撫でた。
近くの公園のベンチに並んで腰掛けると、一息ついてから語り始めた。
「でも、その話をするにはまず、“天津甕星”について話さなあかんなぁ」
「あまつみかぼし?」
「そや。『日本書紀』に出てくる悪い神様の名前やな。これが僕につけられた名前でもあるんよ。悪神が由来なんて名前、嫌やろ」
一見全く関係のない話に、なんとかついていこうと小さくうなずいて先を促す。
「前回会うた時に聞かれたな、何者や、って」
そのときは、紀斗の話を出して有耶無耶にされていた。
「もうはつなちゃんは気づいてるみたいやけど、僕は……」
「……人間じゃない、の」
「当たり。大正解や」
かなりの暴露話であるはずなのに、初叶はあっけらかんとしていた。
僕は人間じゃない、なんて簡単には信じないのが普通だろう。三ヶ月前ならば、初生もそうだった。
しかし、体が入れ替わるという人知を超えた事件を自らが起こしてしまってからは、世界観が変わっていた。
「僕は“天津甕星”。これは名前であり、族名でもある。中には、僕の持つ人間にはない力自体をこの名で呼ぶ者もいるみたいやけど」
「人間にはない力?」
「願いを叶える力や」
思い出した。幼い頃に聞いた言葉。
“願い続ければ叶う”
それを教えてくれたのは、初叶だ。
「僕は元々、願いの塊のようなもんや。強く願ったのに叶わず、諦められたり、忘れられたり、捨てられたりしてしまった願い。その、「叶えられたかった」ちゅう願いの思いが集まって、僕が生まれた」
人の強い思いが生み出した、願いの結晶。
「そんな僕が、人を好きになった」
夕日に照らされ、空を見上げる初叶の頬が紅く染まった。
「その人とは……」
「結ばれたで。娘も一人おった。日香織ゆうんやけどな、日香織には“天津甕星”としての重荷を背負わせたくなかった。だからずっと隠し続けたまま育てたんや。身内ゆうことを差し引いても、いい子に育ってくれたと思うで」
そこでようやく、初叶は初生の方を向いた。
「ほんま、はつなちゃんはちっこい頃のあの子にそっくりやわ」
優しい目は、初生を見ているようであって、初生を見ていない。ただ単に、その中に残る日香織の面影を見つめていた。
「日香織さんは、どうなったの」
「死んだ」
初叶は笑顔の仮面を被ったまま、初生を直視していた。
いくら初生であっても、仮面を脱ぐことができないほど辛いということだと理解できないほど、鈍感ではなかった。
「日香織はほんまに何も知らんかったんや。普通の人間の女の子として生きてて、普通に結婚して子供もおった。幸せそうやった。なのに……何で日香織が死ななあかんかったんやと思う」
難しい問いを投げかけられ、返答に窮した。
「答えは、脅威だから、や」
「脅威って……」
「“天津甕星”の力は、願いを叶えるための力や。もしも「人類が滅亡して欲しい」と心から願えば、それは簡単に現実になる」
そう言われれば、確かに脅威だ。
しかし。
「日香織さんは自分が“天津甕星”の血を継いでいることも知らなかったんだよね?」
「そうや。だからこそ、脅威やった」
「???」
意味が理解できずに首を傾げると、初叶が再び初生の頭に手を置いた。
「つまりや。僕は自分の力の使い方っちゅうもんをわきまえているつもりやし、極力使わんようにしとる。でもな、日香織はちゃうねん。自覚がないから、力の制御もできん。本人にその気がなくとも、心からの願いは勝手に叶っていくっちゅうことや」
無自覚のうちに何かを恨み、危害を加えてしまうかもしれない。それは被害を受ける側にとっては脅威だ。
「だから人間たちは日香織を……消した」
酷い。
人間が何か被害を受け、その報復をしたというのならまだわかる。
しかし、何もしていないのに「するかもしれない」という理由で危害を加える。
その方が“天津甕星”よりもよほど恐ろしく感じた。
「日香織だけならわからんでもない。でもな、ほんまに酷いんはこっからや。奴等は僕と繋がりのあったもんは皆敵やと考えとるらしかった。妻を、日香織の夫とその家族を、皆殺した」
「それじゃあ、ただの殺戮じゃない!」
なんて惨い。
「そうや。なのに奴等は今尚正義を気取っとる」
背筋がすっと寒くなった。
「奴等はその時に“天津甕星”を完全に排除するつもりやったらしい。でもな、奴等には二つの大きな誤算があった」
「誤算?」
「一つ目は、奴等が考えていたよりも僕の力が強かったことや。奴等は人間やけど、特殊な力を持っとった。詳しい仕組みは知らんけど、奴等は“天津甕星”の力を吸収できるみたいなんや。せやけど、僕の力全てを吸い取るのはできんかった。その力は、自らの命削ってやっとるみたいやった」
命懸けで、挑んできた。
こんな殺戮を―――。
「かといって僕は殺せへん。自分でもようわからんけど、人やないから老いも死もないみたいなんよ。せやから、封印することにされた」
「じゃあ、この約十年間あなたは、封印されて?」
「正解」
十年もの時間を奪うなんて。
「二つ目の誤算は、日香織が死に際に全力で“天津甕星”の力を行使したことや。僕は本気でこの力を使ったことは………ない。どんなに叶えたい願いがあろうと、それを現実にするためには犠牲が大きすぎるし、予期せぬ悲劇を呼ぶことになるから。……日香織の最初で最後の全力の願いは、誰にも覆すことのできない絶対なるものになってしもうた」
絶対に覆せない願い。
最期の願い。
「日香織さんがそこまでして願ったことって……」
「娘が生き残ることや。まだ四歳になったばかりの小さな女の子とはいえ、奴等にしてみれば忌まわしき“天津甕星”のクオーター。せやけど、どうしても殺せへんし、そこまでの戦いや僕の封印のために奴等も多くの人が亡くなったり、負傷したりしとった。既に新たにもう一人封印ができるだけの人材もおらへんかったし、その子は無事に生き延びたってわけや」
日香織の願いによって救われた命。
「でも、たった四歳の子一人生き残って、どうすることもできひん。奴等も少しは情があったんやろな、その子の記憶操作して、帰りの遅い父親と二人暮らししとるっちゅう設定にして、生活費は出したってたんやな。これは僕の封印解けてから知った話やけど」
まさか、その生き残りの娘は―――。
「私、なの」
「………正解や」
頭が真っ白になる、という表現は的を射ていると実感した。
初生はただ、ぼろぼろと大粒の涙を流し続けることしかできなかった。その涙が収まるまで、初叶はずっとただ髪を撫で続けていてくれた。
初叶の胸は温かく、懐かしい匂いがした。
✻ ✻ ✻
携帯電話が着信音を響かせた。
出ることをためらう。しかし、五コールを過ぎても鳴り止まない辛抱強さに負けた。
腹をくくって、通話ボタンを押す。
「何の用」
掛けてきた相手が修平であることは確認済みだ。
『縁子から愛を頂いたので、お礼の電話』
「はぁ!?」
想定外の返答に、素っ頓狂な声をあげてしまう。
愛?愛って何なのだ。
『チョコレート。今日、宅配便で届いたよ。縁子がバレンタインに誰かにチョコあげるなんて、初めてじゃない』
初めて買った、バレンタイン用のチョコレート。
もっと後に届くよう設定して贈るべきだったと、後悔した。
「別に、あんたが好きだからあげたってわけじゃないわ。たまたま売り場の前通りかかって、つい買っちゃっただけで」
買ったはいいが、紀斗へ渡す勇気がなかった。自分で食べるのは惨めすぎるが、捨てるのももったいなく、どうしたものかと悩んでいたとき、何故か修平の顔が浮かんだ。長い付き合いの中で、プレゼントを贈ったことは一度もなかった。
縁子の誕生日には必ず何かくれた修平。
お返しをひとつもしないのも悪いし。
別の人にあげる予定だったものを横流しするのも悪いのだが、そこには目を瞑ってもらうことにした。
『知ってるよ』
「何を」
『だから。縁子が俺のこと何とも想ってないってこと。……ったく、自分で言ってて悲しくなるから、言わせるなよ』
怒ったような声は、作り物。
あぁ。だからか。
きっと私は心のどこかで、修平なら全てわかった上でそれでも受け取ってくれるとわかっていたのだ。
めそめそ泣いているか、優しく微笑んでいるか。常にそのどちらかだった。
皆に傅かれて育ったせいで、上からの物言いが当たり前になってしまった私。それなのに、修平は一度たりとも私に対して声を荒らげたことがなかった。きっと、私が人と接することが苦手なのもわかっていたからだ。
大切な仲間であり、友達。
恐らく修平も、私のことを親友だと思ってくれている。
「でも私、一番の理解者はあんただと思ってるわよ」
ずっと隠し続けていた心を口にした。
これが最後。
私の全部を受け止めてくれた修平にあげられるものは、これが最後。
『縁子。何か、変なこと考えてないよな?』
「変なことって何よ」
言い返しながらも、内心ひやりとする。
『俺さ、縁子が屋敷からいなくなってからすごい頑張って、力感知できるようになったんだ。しかも、かなりの高感度で』
「だから?」
『………縁子の力、日に日に減っているだろ』
まさか、知られていたなんて。
「あんたには、関係ないでしょ」
『関係ないわけないだろう!俺の代わりに縁子が、』
「関係ないわ。だから、この先私の身に何が起ころうと、あんたには何一つ責任はない」
『本当に、一体何するつもりなんだよ』
思いつめる質の修平を労わったつもりだったが、墓穴を掘ったか。
「何も。ただ、あんたにびーびー泣かれると面倒だから言っとくだけ」
『泣かねーよ。縁子、俺さ………いや、ごめん。何でもない』
言いかけたことを打ち消して、それ以上何も言わなかった。
その間合いのはかり方は、やはり縁子が望む通りで。
でも、それでは駄目なのだ。
素直になれない、捻くれた縁子に対して、間合いをはかってくれていては何も始まらない。
修平が縁子に対して唯一理解していない点は、きっとそこだ。
「さようなら」
縁子は別れを告げて電話を切った。
バレンタインより前にチョコレートが届いてよかったのかもしれない、と思い直した。
✻ ✻ ✻
二月一四日。
鞄の中には、昨晩料理雑誌とにらめっこしながら作り上げたフォンダンショコラが入っている。ラッピングも凝って、紀斗にあげるものとしては初めて可愛くしてみた。例年は義理チョコを強調するかのように可愛い要素を避けていたのだ。
初生は休み時間の度にC組に向かっては、廊下で楽しそうに話し込んでいる紀斗と縁子の姿を目の当たりにして引き返す。
話しかければいいのだ。
ただそれだけで、紀斗はきっと以前と変わらないように初生の方を見てくれる。
でも、もしも迷惑そうな顔をされたら?
縁子に言われて初めて気づいた、初生と紀斗の関係性の脆さ。
―――「結局のところ、あなたは関係ない。ただの幼馴染ってだけなんだから」
次こそはと思いつつ、いざ二人を目の前にすると縁子の言葉が蘇る。
そして、どこかで縁子の方が紀斗には似合っていると感じている初生自身の心に、さらに傷つくのだ。事実、学年でも一二を争う身長の小ささを持つ初生より、モデル体型の縁子の方が紀斗と釣り合う。初生と紀斗では、遠巻きに見ると恋人というより親子だ。
そんな事を繰り返し、結局学校で渡すことはできなかった。
今日も紀斗は部活があって帰りが遅い。初生は校門で待つことにした。
今までは遅くまで働く父親のために家事をこなさなくてはいけないと思っていたから、放課後はなるべく早く家に帰るようにしていた。しかし、家には初生一人だけしか住んでいないという真実を知ってからは、少し手を抜いている面がある。
どんなに室内を綺麗にしようと、どんなに美味しい料理を作ろうと、全て自分にしか還元されないのだから。
紀斗に渡すための包みを鞄から取り出し、両の手でふわりと抱きしめる。
空が闇に侵食され始めた頃、ようやくサッカー部員と思われる生徒たちが出てき始めた。
「水無じゃん」
声をかけてくれたのは、雄聖だった。
一年生のときは同じクラスだったので、それなりに仲はいい。女子とは上手くいかなかったのに一年間を何とか乗り切れたのは、男子たちが親切にしてくれたということが大きい。
雄聖も、初生を助けてくれていた人の一人だ。
「確か、部活入ってなかっただろ」
「うん。かずを待ってるんだ」
初生の返答と聞くと、雄聖は困ったような顔をした。
「用があるならまた今度にしてさ、今日は帰ったら?一人が嫌なら、俺が一緒に帰るけど」
早くこの場を離れたいかのように、初生の腕を軽く引っ張る。
雄聖の行動は、いつも相手のことを考えてのことだ。それは一年間でよくわかっている。今回も、初生のためを思ってこうしてくれていると感じる。
それでも、今日渡さなければ意味がないのだ。
十四日、バレンタインに渡さなければ、お菓子のお裾分けと大した差はない。
それに今年は、伝えたいこともある。
ようやく気づけた、本当の想い。
「ありがとう。でも、どうしても今日かずに会いたいから」
雄聖の視線が初生の腕に落ちると、そっと手を離した。
初生が大事に抱えているものが何なのか見当がついたようだった。
「そっか。何かあったら言えよ。……………負けるなよ」
「え?」
じゃ、と短い別れを告げて、雄聖は校門から続く急な坂を下っていった。
各部の部長、副部長は戸締りなどがあるため帰りが遅くなるが、副部長の雄聖が帰ったということは、部長の紀斗ももう帰れる状態になっているはずだった。
根気強く待つ。
背の高い影が近づく度に、心音が大きくなる。しかし、肝心の紀斗はなかなか現れなかった。
帰宅ラッシュも過ぎ、気づけば教室の明かりもほとんど消されてしまっている。
「あっ、かず……」
何故。
ようやく出てきた紀斗の隣には、帰宅部であるはずの縁子がいた。
「あら、水無さんじゃない」
蔑むように、上から見下される。
それでも怯まずに顎を上げ、つけまつげで強調された漆黒の瞳を注視した。
「ちょっと外してもらえないかな。私、かずに話が、」
「それはできないわ」
言うなり、縁子は紀斗の腕に自身の腕を絡ませた。
「紀斗、私と付き合うことになったから」
「え……。嘘、嘘だよね、かず?」
紀斗は一切、初生を見ようとはしなかった。
ただ一言。
「……ごめん」
それだけを残して、二人で帰路をたどっていった。
何故。
一歩も動けずに固まってしまった初生は、あまりにも自然なカップルに見える二人の背中を目で追い続ける。本当は、見たくなどないのに。けれど、逸らすことができない。
何故和斗は、縁子と付き合うことにしてしまったのだろう。
返事が遅すぎたから?
初生が嫌いになってしまったから?
縁子を初生以上に、好きになったから?
脳内に浮かんではこびりつく、あらゆる可能性。そのどれもが真実のようで、そのどれもに現実味があって。
ゆらりと波打った風景の中で、二人の姿がひとつになった。
もう、和斗の隣にいられるのは私じゃない。
そのことを理解していくにつれ、未だ抱えたままでいるものが重く感じてくる。
「こんなもの……!」
ぐっと奥歯を噛み締めて、溢れそうになるものを飲み込む。オリオン座を睨みつけながら、坂を下った。コンビ二から漏れる刺すような光が、ゴミ箱を照らしている。
初めて作った本命のバレンタインチョコレート。
ぽっかり開いた冷たい口から、闇の中へと落っこちた。
✻ ✻ ✻
境内の桜は既に散り、若葉を広げ始めている。
一日のほとんどを、部屋から出ずに庭を眺めて過ごした。
空いた時間をどう使っていいのか、有り余っている時間を全て使って考えてもわからない。何に使うのかを考えることで時間を浪費する。
日和は既に、巫覡としての力が弱い婚約者の晴義に代わって、当主の仕事をこなしていた。
だから世話役になれたからといって、一日中僕のそばにいるわけにはいかなかった。その分は、琴が世話してくれた。
「琴」
「何にございましょうか」
雑巾で飾り棚を拭いていた琴が、律儀に身体ごと僕の方を向いた。琴は日和と正反対で感情をあまり表には出さないタイプだったが、責任感は人一倍大きい。言い方を選ばなければ、部下として重宝する人だった。巫覡の間でも、琴は使い勝手の良い人材として扱われている節がある。
しかし、日和だけは違っていた。意外にも琴は、日和にとって一番の親友らしい。一方琴は日和に尊敬の念を抱いており、友情というよりは忠誠に近かったが、確かに日和の前ではよく笑った。
「最近、日和の様子がおかしない?」
日和はあからさまに、僕を避けている。
それだけならば僕が嫌われたのだと思うだけで済むのだが、どうもそう単純な話ではないらしい。
庭を眺めながら溜め息をついたかと思えば、いきなり巫覡全員分の食事を作り出したりする。
完全に、情緒不安定なのだ。
「結婚の儀が、目前になってしまいましたからね」
声を潜めて、応えてくれた。
晴義に近い人間に聞かれないための配慮だろう。
「でも、日和はこの結婚のこと納得しとるんやろう」
「以前は、仕方のないことだと諦め、晴義様との結婚を受け入れておりました」
「以前はって……今は違うんか」
重い首を縦に振った。
「何があったんや。酷いことされたんか」
怒りが無意識に口調を荒くさせ、琴を問い詰めてしまう。
日和を傷つける者は、たとえ誰であっても許せない。
「桜の精様は日和様のために、お怒りになられるのですね」
「当たり前や。あんな娘苦しめるような奴がおって、冷静でいられるか」
ふっと、琴が柔らかい笑顔になった。
日和のいるところ以外で初めて見る表情だ。
「桜の精様は、日和様を愛してらっしゃるのですね」
「何でそうなんねん」
まだ五月だというのに、暑い。
顔が熱を持っている。
「大丈夫です。誰にも申しません。もちろん、日和様にも」
好きになったとたんに相手の婚約を知ってしまった、報われない想い。
消し去ろうと努力し続けたが、捨てられない想い。
この想いは自身の中だけに留めておかなければならないのだと、戒めてきた。
それが今、ここから出してと泣き叫んでいる。
「日和様を、愛してくださっているのですよね」
限界だった。
押さえ込めていた分だけ、想いは大きく成長していた。
「……愛しとるよ。初めて会うた時から」
「やはり、そうでしたか」
琴は雑巾を手放すと、僕のすぐそばに来た。
今まで以上に声を小さくする。
「お願いです。日和様を救って差し上げてください」
「どういう意味や」
琴の眼差しは、真剣だった。
「桜の精様のお心を、日和様にお伝えしていただきたいのです」
つまり、告白しろということか。
「待て待て。日和はもうすぐ結婚するんやで。僕がそないなことしても、迷惑なだけや」
「いいえ。今の日和様に必要なのは、あなたです。巫覡の価値観を持っていないあなただけが、唯一日和様をお救いできる可能性を持っていらっしゃるのですから」
ようやく話が見えてきた。
つまるところ琴は、日和の元気がないのを、「私自身ではなく、巫覡としての利用価値でしか、評価されていないのではないか」という思考の表れだととったらしい。そして、巫覡でない僕が日和を愛していると告白することで、その思考を断ち切ろうとしている。
もしもこの報われない想いが、どんな形であろうと日和の役に立つのなら。
「わかった」
僕は、琴の考えに乗った。
次の日、久しぶりに日和の時間が空いた。
日和が朝いきなり僕の部屋に押しかけてきて、その貴重な自由時間を、丸々僕に当ててくれると宣言した。そこには友情しかないとわかっていても、純粋に嬉しかった。
何故か日和は朝から不自然なほどはしゃいでいて、僕を避けるようなこともない。
出会った日と同じ、ご神木を正面から見られる位置の縁側に二人で腰掛ける。
「一日自由なんて、珍しいやん」
「本当は今日も仕事があったのだけれど、琴が日和様は最近働きすぎだーって掛け合ってくれたらしくてね。お休みいただいちゃった」
琴に仕組まれたことだったらしい。
せっかく琴が苦労して作ってくれた機会を、無駄にするわけにはいかない。
「あんな僕、日和に大事な話があんねん」
癖なのか、また足をぶらつかせていた日和が、動きを止めた。
「嫌な話なら聞きたくない」
つま先を見つめる瞳は、今にも泣き出しそうだ。
何が日和をそこまで不安にさせているのかがわからない。
「どう受け取るかは日和次第やからなぁ。嫌な話って、例えばどんなん?」
「もう消えるからばいばい、とか」
即答だった。
なぁ、君は僕がいなくなるんじゃないかと不安になって、泣きそうになっているん?
もし本当にそうだとしたら……………ごめん。
不謹慎だけれど、すごく嬉しい。
「僕は消えんよ。日和の前からいなくなるなんて、考えたこともなかったわ」
「本当に!絶対、ずっと一緒にいてくれる?」
僕を見つめる二つの瞳を、輝かせたのは僕。
その可愛い顔を笑顔にさせたのは僕。
ほらまた。
閉じ込めている想いが、泣いている。
「僕は自分が何者かもわからんから、消えるのかどうかは自分も知らんけど……少なくとも、僕の意思で消えるゆうことはありえへん」
「ありがとう」
え………。
気づいたときには、日和は僕の胸の中にいた。
しがみついた背中は細かく震えている。―――泣いている。
突然のことで、どうしていいのかわからない。
恐る恐る、日和の頭を撫でた。
「ごめんなさい。実は私、あなたと話すの今日で最後にしようと決めていたの」
「……何で」
僕の服を握る小さな手に、力がこもる。
「私は、晴義さんの妻にならなくちゃいけないから。もう誰も、好きになっちゃいけないから」
その小さな手が握ったのは、きっと僕の心だ。
想いが、日和が欲しいと駄々をこねる。
「でも、無理だよ。あなたのことが、大好きになっていた。あなたは、初めて巫覡の力抜きで、私を大切にしてくれたから。この時間を、あなたを、手放したくなんてないよ」
「僕も、」
言ってはいけない。
状況が変わった。
日和の様子がおかしかった本当の原因がわかった。
今の日和に、これは逆効果だ。
しかし、もう静止することは不可能だった。
一度解かれてしまった自戒は、もう戻らない。
「日和と話せなくなるのは辛い。日和が、好きやから」
「えっ」
腕の中で、日和が僕を濡れた目で見上げた。
「初めて会うた時から、ずっと日和が好きやった。日和が好きになってくれたより前から」
「それは違うよ」
微笑んだ拍子に、涙の雫が一粒こぼれた。
「だって、あなたが目を覚ます前から惹かれていたもの。本当に、桜の精が具現化したと信じられるほどに、綺麗だったから。……ここまで好きになったのは、もう少し後だけれど」
親指で、涙を消してやる。
人間の姿をしていてよかった、と思った。だが、どうせならもう少し身長が低くあって欲しかった。
だって、かなり屈まなければならないから。
日和と口づけをするためには。
お互いの気持ちを知ったわけであるが、このままではいけない。
隠すつもりは始めからないので、僕と日和は正々堂々、晴義に事の次第を話した。
もちろん、そう簡単に認められるわけもなく。
毎日毎日、二人で晴義の元へ行き、頭を下げた。
「頭を冷やせ、日和さん。人間ならともかく、その方は桜の精なのでしょう」
その度に言われる言葉は、僕の心を深く抉った。
人間ですらないくせに。
一番気にしていることを突かれ、挫けそうになる。
しかし、諦めるわけにはいかなかった。
もちろん、日和が諦めたくなれば引き下がるつもりだった。でも、日和が僕との結婚を望んでくれている間は、僕から折れるようなまねをしたくなかった。それが、僕を選んでくれた日和に感謝の気持ちを示せる、唯一の方法だと考えていた。
このままでは埒が明かないと思ったのであろう。
晴義は、遠方の大蔵という地で修行をしているらしい次男を呼び寄せた。
次男の名は、晴臣。
歴代の巫覡の中で最も力が強いらしい。ここではもう晴臣の修行の相手をできる者がいないために、別の一族が率いる日本最大勢力の集団に一時的に所属している。日和に聞いた話では、晴臣は大蔵においてもその才能を発揮し、晴義が当主の座を明け渡す前に、日本一の巫覡になってしまいそうだ、ということだった。
その最強巫覡に、僕を目利きさせようというのだ。
「これで僕が何者か答えられるようになるねんな」
僕としては、自分の正体を暴いてもらえるのはありがたいことだった。自分が何者かわからないというのは、時々どうしようもない不安に駆られるものである。しかも、日和と共にあるにあたって、自身のことすら知らないのは、何とも頼りなく、情けないと自己嫌悪に陥る一因でもあった。
「……あなたは、桜の精だよ」
晴臣が到着する予定日が近づくにつれて、日和は再び元気をなくしてしまった。
―――日和は、真実を暴かれるのを恐れていた。
どんなに日和の元気がなくなろうと、時間が止まることはない。
「お帰り。長旅ご苦労様」
玄関の広い廊下に巫覡総出で並び、晴臣を出迎えた。
「ただいま帰りました。兄上」
晴臣は挨拶を返し、腰から折って深く礼をする。
長く伸ばされた夜色の髪が、天辺でひとつに縛られている。鍛え上げられた身体は、軍人のように引き締まっていた。
「まずは、一息つきなさい。話はそれからだ」
晴義の勧めで、晴臣は久しぶりの自室に向かった。
服の袖を引かれる感覚がして、振り返る。
「どうしたん?」
不安げな顔をしている日和がいた。
「『晴臣様が大蔵に帰って欲しい』って、願って。心の底から」
「願うって……」
あまりに突然なことで、直ぐには頷けなかった。
「ただ、願うだけでいいの」
必死の訴えに、わけがわからないなりにも応えてあげたいと思った。
そして、同じ願うなら叶えてあげたい。
目を閉じて、日和に言われたことそのままを全身全霊で願う。
外から、誰かが駆けてくる足音がした。その音は徐々に大きくなり、玄関の引き戸が、外から勢いよく開かれた。
「晴臣様はいらっしゃいますか!」
袴を着た丸刈りの、見たことのない若い男が、肩で息をしている。
「一体どうなされたのですか」
まだ玄関に残っていた巫覡の一人が尋ねる。
「大蔵で緊急事態が発生いたしまして。どうしても晴臣様のお力をお借りしたいのです。私は使いとして大蔵からやってきました」
「それは大変。すぐに晴臣様をお呼びして」
「はい!」
別の巫覡が、長い廊下を走っていく。
晴臣は、直ぐに出てきた。
「せっかくの帰省でしたのに、誠に申し訳ありません」
丸刈りが泣きそうな顔をする。
「気にしないでください」
晴臣が短く返して、晴義の方を向いた。
「すみませんが、そういうことです」
「仕方あるまい。大蔵様のお役に立て」
晴義は、晴臣の肩を強く叩いた。大きく頷いた晴臣は、外へ出ると振り返った。数瞬、初叶と目が合った。その瞳はどこまでも冷たく。
「落ち着いたら、手紙を出します」
晴臣と使いの男は、大蔵に帰っていった。
騒ぎを聞きつけ玄関に集まってきた巫覡たちは、ひとり、またひとりと、それぞれの持ち場に戻っていく。
「すごいね、あなた」
隣にいる日和の笑顔は、どこかぎこちなかった。
「何で、願ってなんて頼んだん」
真剣に問う。
偶然にしては、あまりに出来過ぎている。
「晴臣様に会いたくなくて、」
「そうやない!」
初めて、声を荒らげた。
日和が怯えたのを見て、しまったと思っても遅い。しかし、どうしても謝る気にはなれず、そのまま続ける。
「日和、何か僕に隠してるんやない?」
「……何もないよ」
目を逸らした。
日和は嘘がつけない。
「隠さんといて。なぁ、僕は一体何者なん。本当は知っとるのやろ。答えて」
顎を持ち上げて、こちらを向かせる。しかし、目を合わせてはくれなかった。
空中を見つめる瞳が、濡れてきた。口を一の字に引き結んでいる。
そんな顔をして欲しくなんてなかった。
「………もうええ」
耐え切れずに、開放してしまう。
俯いた日和の頬を雫が伝い、床に落ちた。
「話せるときが来たら、その時には教えてな」
今は上手く笑えている自信がない。こんな顔を見せたら、余計に日和を苦しめる。
わざと何もなかった風に、少し手荒に髪を掻き回す。こうすれば、背の低い日和から僕の顔は視覚に入らないはずだ。
手を退けると、日和は髪を整えようとするのを装いながら、両の手で顔を隠した。そのまま、こくんと小さく頷く。
それが、二人の限界だった。
日和は逃げるように母屋を出て行き、僕は彼女を追いかけることができなかった。
前以上に、自分が何者なのか知りたくなった。
かといって、もう一度日和を問い詰めたりはしたくない。誰かが日和を傷つけるのも許せないが、それが自分であることは最も許し難かった。
日和を問い詰める以外に、僕の正体を知る方法はないか。
時間なら、捨てるほどあった。
考える。考える。考える。
―――「落ち着いたら、手紙を出す」
去り際の晴臣の言葉に思い至ったのは、それから三日後のことだった。
ただの近況報告か何かかもしれない。しかし、もうそれしか可能性はなかった。
あとは、どうやってその手紙を手に入れるかだ。郵便受けは門のところだが、屋内外からよく見える位置にあり、こっそり持ち出すのは厳しい。
「琴」
布団を干している背中に呼びかける。相変わらず律儀に正面に向き直り、何にございましょうか、と返してくる。
「変なこと聞いてもええ?」
いつになく小声になった僕に合わせて、距離を詰めてくれた。
「母屋の中、どこ歩き回っても怪しまれん人っておる?」
我ながら、怪しすぎる質問だな、と内心で苦笑した。
しかし、琴は至って真面目な面持ちで考えてくれる。
「全部屋となると、限られてくると思います。第一、一般の巫覡は身の回りのことを自分でやるのが基本ですから、他人の部屋にいたら誰であっても怪しまれますね」
「……晴義の部屋はどうなん」
「晴義様のお部屋なら、掃除やお食事運びのために何人かは自然に入れます。私も入れますよ」
「琴も」
「はい。それがどうかいたしましたか」
本当は、誰も巻き込みたくはない。しかし、僕はこの一ヶ月間を境内とこの客間のどちらかで過ごしてきており、それ以外の場所に侵入するには目立ち過ぎる。
「晴臣から晴義への手紙が読みたいんや」
それだけで、僕が何をしたいのかを全て理解したのだろう。
「上手くできるかはわかりません」
詳しい説明をする前に、琴が返事をした。
「それでも、出来る限りのことはしてみます」
布団を全て干し終わると、琴は部屋を出て行った。
彼女はきっと、手紙を持ってきてくれるだろう。
これでようやく、自分の正体を知りたいという願いが叶う。―――願い……………。
兎に角、自分の正体を知ることが先決だ。頭を振って、取り留めのない不安を押しやった。
琴が僕の部屋に来たのは、その日の夕方だった。
「どうやった」
開口一番、そう尋ねてしまった。
琴は僕の目の前に正座する。慌てて僕も、胡坐から正座になって背筋を伸ばした。
畳の上に白い封筒が二つ置かれる。
「一番上の引き出しにあったのを、拝借してきました」
それだけ言うと、琴は退室しようとした。
「待って」
とっさに呼び止めると、わざわざ身体ごと僕に向く。
「どうしてこんなこと協力してくれたん」
「……何故でしょうか。とても協力したい気持ちになったので」
一礼して、今度こそ退室する。
孤独の部屋に、二通の手紙。宛て先はそれぞれ、『吉田晴義様』『吉田晴臣様』となっている。晴義宛の方は既に封が切られており、読まれている。そして幸運なことに、晴臣宛の方はまだ口が糊付けされておらず、封筒を破ることなく中身を取り出せそうだった。
気が逸るのをなんとか自制し、まずは晴臣から晴義への手紙を広げる。
謹啓
新緑の候、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。
早速ですが「桜の精」と呼ばれし者について、私の意見を述べさせていただきます。
私が先日訪問した際、県内に差し掛かった頃から非常に強大な力を感知しておりました。
しかし、その力は巫覡のそれとは感じが違ったので、不思議に思っておりました。
実際に対面して、確信いたしました。その力の持ち主は、紛れもなく「桜の精」と呼ばれし者です。
その正体は、「桜の精」などという神聖なものでは決してありません。
むしろ、その逆といっても過言ではないでしょう。
兄上も、人の強い思いが具現化したり、力を持ったりすることはご存知だと思います。
彼は正しくそれです。
人の強い願いの結晶。しかも、かなりの人数の思いが結合しているために、強大過ぎるほどの力を有しています。
大蔵で修行を積んだ今の私でも、互角に遣り合う事は難しいでしょう。
人の願いから生まれたならば、恐らく彼の力は、願いを叶える力。
彼は人間にとって危険な存在です。これは、吉田家始まって以来の危機であると考えます。
いつまでも「彼」と呼んでいるのはややこしいので、仮に古の悪神の名を拝借して「天津甕星」としておきましょう。
私は結局、天津甕星と一度も対峙せずに大蔵に戻ることになってしまったので、これ以上のことは掴めていません。
しかしながら、天津甕星が私より強大かつ危険な力を持っていることは事実です。
一刻も早い対策を、ご検討ください。
大蔵で天津甕星への対処法を考えておきますので、お返事お待ち申し上げております。
乱筆お許しください。
敬具
真っ白な便箋に、端正かつ雄渾な毛筆が並んでいた。
全てを読み終わったとき、思わず手に力が入り紙を握り締めそうになり、慌てて畳みの上に置いた。折り目でもつけてしまったら事である。
ずっと知りたかった自分の正体。
晴臣の文を読み、ようやく自分の中にある沢山の方言が何だったのかがわかった。あれは、僕を生み出した人々の願いだ。
願ったのに叶わなかった。
願うのを諦めた。
思った人に捨てられて居場所を失った無数の強い思いが、僕の中で存在し続けている。
大きく息をひとつ吐き出し、隣の封筒に手を伸ばした。晴義の返事だ。
前略
いくら私が当主であるといっても、兄弟間で格式張った手紙を送りあうことに違和感がある。よって、用件だけを簡潔に書くことにする。
天津甕星の件、迅速な対応が不可欠であると判断した。
「桜の精」と偽っていたことに対しても、怒りを覚えている。
天津甕星と日和さんの結婚など、言語道断。直ぐにでも天津甕星を滅するべきだ。
しかし、晴臣一人の力で太刀打ちできる相手ではない、とのこと。
現在の吉田家には、残念ながら晴臣よりも強い巫覡はいないが、何か協力できることはあるはずだ。ついては、晴臣に天津甕星撃滅を主導してもらいたい。
手紙はそこで終わっていた。
嘘だ。
初めて会ったときから、おおらかに明るく接してくれた。僕と日和との関係が変わった後は、多少棘のあることも言われたが、それは日和を想うが故。
それなのに、この手紙を書いた人物はまるで別人のようだ。天津甕星に対する明白な敵対心を持ち、天津甕星を撃滅しようと―――殺そうとしている。
人間を思うあまり、おかしくなってしまったのか。それとも……
―――今まで僕に見せていた晴義の方が偽りなのか。
僕は「桜の精」として紹介された。巫覡である彼にとって、ご神木の精霊ともなれば敬う対象だ。普段の自己を見せてくれていなくても、不思議ではない。
騙されていたのだ。
この手紙を書いた、殺しを命令する残酷な者こそが、本来の晴義なのだ。
悲しみと、絶望と、悔しさと、怒りとが、一気に噴出した。
便箋にしわがつくこともいとわずに、力一杯握り締める。
このままでは、僕は殺される。
信じこんでいた相手に裏切られるほど、苦しいことはない。
僕は、晴義を信じていた。信じていたからこそ、挫けずに日和との結婚を許して欲しいと頭を下げ続けることができたのだ。相手を信じていなければ、始めから頭を下げたりなどしない。
恋敵であり、友だと思っていた。
どうやらそれは、僕の一方通行の感情だったらしい。
晴義は、僕が死ぬことが痛くも痒くもない。殺すことに、なんのためらいもない。
このままでは、僕は殺される。
「……はっ」
息苦しく、ゼーゼーと呼吸をした。
体中が、汗でぐっしょりと濡れている。掛け布団を跳ね除け、右腕で目を覆った。
嫌な夢―――過去を見てしまった。
帰るべき場所も、存在していい場所もないので、ずっとホテルの空き部屋を渡り歩いている。金銭は持っていないので、申し訳ないと思いつつ、勝手に使わせてもらっていた。
こんな時に一人でいるのが辛い。
しかし、僕が頼っていい者など既にこの世にはいない。癒しを求めるには初生は幼すぎる。余計な心配もかけたくない。
拭いきれなかった涙が、頬の上を転がって枕に吸い込まれていった。
✻ ✻ ✻
無言で歩き続けていたが、ようやく紀斗が口を開いた。
「これで本当に、初生の安全を保障するんだな」
遠くに見え始めた駅の明かりを睨み付けながら問う。
「えぇ。彼女はクオーター。完全ではないの。水無さんが“天津甕星”の力を使うためには、あなたも同時に願う必要がある」
「だから、俺が初生との関係性を絶てば満足ってわけか」
つかまれ続けていた右手を大きく振って、縁子を振りほどく。
「満足、にはほど遠いわ。私、紀斗のこと本気で好きよ」
尚横に並んで歩こうとする縁子を振り切るため、早足になる。初生なら走らなければ追いつけなかっただろうが、長身の縁子には通用しなかった。
直ぐに駅に到着してしまう。
「俺はお前と付き合う気なんかない」
改札を抜けた途端、電車の発車音が聞こえた。
一本逃してしまったらしい。
「いいのかしら。紀斗がどうしてもと言うから、私と水無さんの秘密をまとめて教えてあげたのに」
縁子が保健室を出た後、紀斗は縁子が残していった言葉たちがどうしても気になった。
次の日に縁子を捕まえ、全てを話して欲しいと頼むと、縁子は十日間彼氏になり初生との関係性を絶ってくれたら教えると言ってきた。
紀斗はその条件を呑む他に無かった。
初生との十日間を対価に得た情報。
初生が“天津甕星”という、全ての願いを叶えることのできる力を持つ者であるということ。
しかし初生の力は完全ではないため、紀斗の協力が必要なこと。
“天津甕星”はこの世の全てを変えうる力を持つ恐ろしい存在であり、その力から人々を守るために巫覡という者たちがいること。
縁子はその巫覡の一人であり、初生に利用されている紀斗を救うために、二人のいるこの高校に入学したのだということ。
繰り返し言われたのは、初生が求めているのは幼馴染としての紀斗ではなく、従順に初生の願いを共に現実にする紀斗の力であるということ。
そして、二人が共にいたいと願ってしまっていることで現在その願いが現実となっているのであり、決して出会うべくして出会ったのではなく紀斗は騙されているのだ、ということ。
「お前の話を全て信用しているわけじゃない」
「酷いわ。でも、今はそれで構わない。兎に角、紀斗じゃなくても事足りるのよ。幼馴染なら見てきているでしょう。水無さんの周りに人が集まっているのを。力に引き寄せられているのよ。紀斗もその中の一人にすぎない」
楽しそうに笑っている。
「それじゃ辻褄が合わない。初生のことを好きな男子は確かに多いけど、女子には基本的に嫌われてる。力が人を引き寄せるなら、そうはならないはずだ」
縁子は涼しい顔で毛先をいじる。
「磁石の原理と一緒よ」
「磁石?」
「男子をN、女子をSとするとわかりやすいわ。水無さんは強力な磁力を持っている。だからN極を強く引き付ける。反対にS極と強く反発する。水無さんと仲良くできる女子は、力がほとんど無くて影響を受けない子だけ」
手櫛で髪を梳かしている。その手を下ろし、縁子は上目遣いに紀斗を見た。
「そうだ、彼氏期間の延長、承諾してくれるのよね」
にこにこと笑ったまま、隙在らば手を繋ごうとしてくる。
それをかわしつつも、しぶしぶ頷く。
「ありがとう。嬉しいわ」
これしかないのだ。
そうしなければ……初生が巫覡に拘束されてしまうのだから。
「あら、追いつかれちゃったわね」
縁子の視線の先には、たった今ホームに上がってきたらしい初生がいた。
初生は悲しげに目を逸らし、紀斗から一番離れた乗車口の位置に立った。
「なんか悲しそうだから、私が慰めてくるわ。………さようなら」
今までのべたつきが嘘のように、手を振ってあっさりと初生の方へ行こうとする。
「待て。初生に何を言う気だ」
とっさに、手を掴んでしまった。
「引き止めてくれるなら嬉しいけど……」
電灯に照らされた縁子の後姿。
パーマをかけられた赤茶の髪の間から覗く唇が、一瞬だが、強く噛まれた。
しかし直ぐに大きく息を吸って、いつものように絶対王政下の女王のごとき口調になる。
「紀斗は私にそんな口をきける立場かしら。水無さんがどうなってもいいの」
横柄な態度に怒りを覚える。しかし紀斗には、縁子に歯向かう事などできなかった。
人質にとられたのが初生でなかったら。仮に紀斗自身を楯に取られていれば、ここまで追い込まれることもなかっただろうに。
手を離し、黙って見送る。
それしか選択肢は与えられていなかった。
✻ ✻ ✻
ホームに着くと、既に電車に乗ったと思い込んでいた紀斗と縁子がいた。
こんなことなら、もう少しどこかで時間を潰しておけば良かった。
一番階段から遠い位置にある乗車口は、まだ誰も並んでいなかった。精神的にとても疲れていたので、今日は座って帰りたい。いつもならば適当に立っているが、列の先頭を奪われないよう珍しく、点字ブロックで引かれた黄色い線ぎりぎりをとった。
なるべく二人を視界に入れないように、向かい側のホームにある、さして興味もない映画の広告を細部まで観察する。タイトルは『初恋』。人気小説が原作と謳っている。中心に大きく、主演を務める男優と女優の写真が載っており、男優の方の顔は初生もよく知っていた。音楽番組でよく見かける、清水叶稀だ。昔初叶が彼の名前を読み間違えていたな、と思い出す。
「水無さん。紀斗をとる形になっちゃって、ごめんなさいね」
だから話し掛けられるまで、縁子がそばに来ていることに気がついていなかった。
邪魔してはいけないと思って距離をとったのに、わざわざ追いかけてきたのか。
縁子は私の正面に回りこみ、哀れむようにせせら笑った。
腹の底から、沸々と怒りがわいてくる。
「別に。かずが松原さんを選んだんだったら、私は何も言わない」
つい、ぞんざいな言い方をしてしまう。今の自分は嫌いだ。
縁子は、心底意外そうな顔をした。
「もっと力の触媒的存在である紀斗のことを惜しむと思っていたわ。でもあなたにとって紀斗なんて、たかが一触媒、くれてやっても痛くないってわけ」
『まもなく二番線に電車が参ります。黄色い線の内側に下がって、お待ちください。』
ホームにアナウンスが響く。
「何言ってるの?触媒って何」
「とぼけないで。私が何も知らないと思っているからそんな風にできるのよ」
突然縁子は鞄を捨て、両手で初生の肩を掴んだ。
「ちょ、何して」
「いいわ、教えてあげる。だって私だけあなたの正体を知っているというのはフェアじゃないものね」
まさか、縁子は私が“天津甕星”であることを知って―――?
「私は巫覡。声を聞き、発する者。そして……唯一“天津甕星”の力に対抗し得る者!」
体中の力が抜けていく。以前、縁子に廊下で腕を掴まれた時と一緒だ。
今ならわかる。
“天津甕星”の力を吸収されているのだ!
……ということは、縁子は。
初生の家族を虐殺し、初生の記憶を改ざんし、正義を気取る者の仲間!
そして今、初生の力を奪うだけでなく、紀斗にまで危害を加えようとしている。
「許せない!」
―――松原さんがいなければよかったのに!
縁子の手が、初生から離れた。
支えを失った初生は、そのままへたりこんだ。
初生を覆っていた大きな影が消えた。
一瞬、叶稀の顔が見えた。
遮られていた電灯の光が一斉に初生に降り注ぐ。
眩し過ぎる光に耐え切れず、目を瞑る。
次に初生がその目を開けたとき、ホームの様子は一変していた。
✻ ✻ ✻
紀斗は数十メートル先で相対する二人の少女を見ながら、心の中で葛藤していた。
このまま、縁子の言いなりになり続けるのか。
それしか初生を守る術はないのか。
縁子が関わってくる前は、いつも初生と一緒にいた。
そこに理由なんて無くただ好きで、自分が身代わりになってでも守りたいと思った。
―――松原がいなければよかったのに!
その時、縁子の体が傾ぐのを見た。
最悪のタイミングであることは、一部始終をこのアングルから見ていた紀斗が一番良くわかっていた。
とっさに、すぐ近くの柱に設置されている非常通報ボタンを叩く。
しかし。
「きゃ―――――!」
OLらしき女性の甲高い悲鳴を口火に、あちこちでパニックが起こった。
「何、何が起こったわけ?」
「やだ、見ちゃった!女子高生が線路落ちた」
「嘘!生きてんの?」
「無理でしょ、電車に撥ねられたんだから」
あちこちで交わされる人事な会話を掻き分け、初生の元に走った。
「初生!」
まるで何の音も聞こえていないかのように、反応が無かった。
初生はただ、カタカタと人目にもわかるほど震えていた。
✻ ✻ ✻
真っ赤に染まったホーム。
両肩には、まだ縁子の体温が残っている。
ついさっきまで、目の前にいたのに。
―――「答えは、脅威だから、や」
初叶の声が耳の奥で何度も何度もささやかれる。
確かに脅威だ。
今、この力を最も恐れているのは、一般市民でも紀斗でも、巫覡でもない。―――初生だ。
たった今私の前で死んだのは、大人びた孤独な人でした。
そして、初めていなくなって欲しいと、心の底から願ってしまった人でした。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
この作品には続きがございます。
ぜひ次のお話もお読みいただけますと幸いです。
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