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願い。  作者: 桜田 優鈴
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壱 目覚める時

 帰りのホームルームが終わると、水無初生(みずなしはつな)はクラス一の速さで筆箱を鞄に突っ込んだ。

 すぐさま席を立ち、教室を出ようとすると

「初生。カラオケ行かない?」

 いつも一緒にお弁当を食べる仲の、百世(ももよ)に呼び止められた。その隣には、同じく友達の樹理(きり)智佳(ちか)もいる。

 彼女たちは高校二年で初めて初生と同じクラスになったので、知り合ってからまだ半年ほどである。それにもかかわらず四人は不思議と気が合い、公私共に認める仲の良さだ。

「せっかくの短縮日課だし、遊ぼうよ」

「はつ、帰宅部だし、塾も行ってないよね。なのに、いつもすぐ帰っちゃうんだもん。たまにはカラオケもいいじゃん」

 二つ結いした髪を揺らしながら、樹理が手を握ってくる。

「んー……ちょっと今日は用事が」

 真っ直ぐに初生を見つめてくる瞳を直視することができず、あらぬ方向を見てしまう。

 しかし、こんな曖昧な返事であっさりと納得してくれるはずもなく。

「初生はいつもそう。用事って何?私たちに言えないこと?」

 百世は、責めるというより悲しいといった表情で問うてくる。友達にこんな顔をさせたいわけがない。しかし……。

「水無さんは、友達に心配掛けたくないのでしょう」

 突然、背後から声がし、驚いて振り返る。

「……松原さん」

 松原縁子(まつばらゆかこ)。数少ない一年、二年ともに初生と同じクラスの人で、他人と群れない一匹狼。長身のモデルスタイル、毎日綺麗に巻かれたロングヘア、大人っぽいメイク。制服を着ていなければ高校生には見えない外見も、彼女が孤独な日常を送っている要因であると、初生は考えている。

「自分で言えないなら、私が言ってあげる。水無さんね、母親がいないの。だから、家事全部やらなきゃならないってわけ。あなたたちみたいに呑気に遊んでいる暇なんてないのよ」

 沈黙。そして。

「ごめんね、気づかなくて」

「私たち、酷いこと言って……」

 百世たちの反応に戸惑っている合間に、縁子は教室を出て行ってしまう。

「別に気にしてないよ。というか、私が言わなかったのが悪いんだし。今まで黙っていて、ごめん」

 手を合わせて頭を下げる。

「何ではつが謝るのさ。うちらに協力できることがあったら、何でも言ってね?」

「……うん!ありがとう」

 単純に、嬉しかった。

 一年生のときは四月の段階で母親がいないことを明かした結果、変に気遣われて上手く友達を作れずに終わってしまった。だから二年生になったら親友と呼べるような子が欲しいと、ずっと願っていたのだ。

 “願い続ければ叶う。”

 恐らく誰かの曲の歌詞で見たのであろう臭い言葉も、今は素直に信じられた。

「カラオケには行けないけど、昼休みとかは遊んで」

「もちろん。家事、頑張って」

「また明日ねー」

 教室を出る。廊下には、テニスラケットやギターを背負った生徒たちの姿がある。きっと、これから部活に行くのだろう。家庭の事情により帰宅部の初生は、ほんの少しだけ彼らを羨ましく思った。

 校門を出て、運動系部活のトレーニングコースと化している急な坂を下る一人で駅までの道のりを二十分かけて、とてとて歩く。一般の高校生ならば十五分もかからずに着ける距離なのだが、運動が苦手であり、身長一四八センチという素晴らしく小柄な初生ではそんなに早く到達できない。

 幸いなことに乗換えが無いため、電車に乗ってしまえば後は楽だ。四十分間揺られていればいい。混んでいることが多くめったに座れないが、初生は立ったまま寝られる派なので座われないのを気にしたことは一度も無い。

 やはり今日も座ることのできないまま、初生の家の最寄り駅に到着した。ホームで大きく伸びをしてから階段を上る。数段先に、大きな荷物を左手に持ち右手で手すりを握り締め、足を引きずるようにしている男の子がいた。

「あの、荷物お持ちしましょうか」

 男の子は驚いて、大きな瞳で初生を見つめた。彼の着ているジャージの胸には『浜西中』の文字が書かれている。

「足引きずっていましたよね。怪我しているんですか」

 初生を見つめていたのは最初だけで、すぐに何故か顔を赤らめて下を向いてしまった。そんな男の子から荷物を自然に取り上げる。

「あ、えっと、剣道の練習で足首を捻ってしまって」

 男の子の速さに合わせて、ゆっくりと一段一段進んでいく。

「剣道、かっこいいですね」

 目が上括弧のように細くなり、両の笑窪が綺麗にできる初生の笑顔。

「あれ?熱があるんじゃないですか。顔が耳まで真っ赤ですよ」

 俯いてしまう男の子の顔を覗き込もうとする。

 男の子は心なしか速度を上げた。

「大丈夫です」

 改札にたどり着いた。男の子に手を差し出され、荷物を返す。

「ありがとうございました」

「いえ。私のお節介で、困っていそうな人を見るとほっとけないんです」

「優しい、ですね」

 初生は激しく首を横に振った。

「私なんか全然。役に立てることも少ないし。私の幼馴染の方がもっと優しいですよ」

「その幼馴染って、男ですか」

「そうですけど、何か?」

 小首を傾げると、男の子は溜め息をついた。

「いいえ。別になんでもないんです。忘れてください。本当にありがとうございました」

 改札を抜けて、ゆっくりと足を庇いながらバスロータリーの方へ行ってしまう。初生は徒歩なので別方向だ。

 今日は早帰りで時間が沢山あるので、普段は週末に行っている駅前のスーパーに寄ることにした。父と初生の二人暮らしの上、父は夜中に帰ってくるようであまり家で食事を取らないため、必要な食材はほぼ初生の分だけである。

 財布に入れておいた買出しメモに従って、かごに商品を次々入れていく。会計を済ませレジ袋を持って坂を下る。十分ほど歩けば初生が十六年間住んできた家だ。さらに三分ほど進めば、同学年の優しい幼馴染の家である。

「ただいま」

 鍵を開けて扉を開くと、真っ暗な廊下が出迎えた。

 荷物を玄関に置き、電気をつけてから靴を脱ぐ。床の冷たさが足裏から体温を奪っていく。レジ袋を抱え台所に入ると、冷蔵庫に買ったばかりの食材を仕舞った。

「さて、時間もあることですし大掃除でもしますか」

 一人で呟いてから、掃除機を取りに台所を出た。


 ✻        ✻        ✻


 止まりたくなるのを根性で堪える。足を動かし続けなくては。

 白と黒のボールは、紀斗の右足によってゴールの中へと放たれた。

「さすが五木先輩だよな」

 ベンチで先輩の分のタオルを用意しながら、一年生部員が先輩のプレーの感想を口々に言い合っていた。サッカー部は昨年今年と、二年連続でマネージャーを獲得することができず、二人の三年生マネージャーが引退してしまった今、雑用は全て一年生部員の仕事である。

 五木紀斗(いつきかずと)は、三年生が引退した夏の大会後から部長に選ばれた二年生だ。紀斗のプレーは部員の誰もが一目置いている。冷静沈着で口数はあまり多く無いが、冗談もちゃんと通じる人である。

 現在グラウンドでは、二年生全員に一年生の選抜を加えた二十二人を二つに分けて、紅白戦が行われている。前半十分に紀斗がゴールを決め紅が一点、一対零でハーフタイムになった。

 十一月であるにもかかわらず、選手たちは汗だくだ。試合に出ていない一年生の準備していたタオルで拭う。

「集中していこう」

「はいっ」

 紀斗のよく通る低い声が、敵味方問わずに皆を励ます。

 後半が始まった。前半でとばしていた紅が試合終了まで残り三十分のところで相手に隙を突かれて、白も一点を決めた。

 残り時間が少なくなり、引き分けかと思われたその時。ロングパスが紀斗に繋がった。見事ゴールに蹴り込み、二対一で紀斗のいる紅が勝った。

「おめでとうございます、先輩」

 ベンチから一年生が駆けてくる。

「紀斗がいるのはやっぱずるいって」

 白の二年生で副部長の堀雄聖(ほりゆうせい)が、頭をごしごし拭きながら言ってくる。

 確かに、紀斗の勝率は試合も練習もかなり良かった。

「心の底から勝ちたいって願ってるからな」

「おぉ。良い事言うね」

 茶化されたが、紀斗は本気だった。

 思いが強ければ願いは叶う。

 そう信じられるだけの結果が出ていた。


 ✻        ✻        ✻


 今日も紀斗の調子はよさそうだ。

 一人きりの屋上で、持参した双眼鏡を覗き込む。しっかりと紀斗を捉えていた。

 できることならば、サッカー部のマネージャーになって近くで応援したい。しかし、それは許されなかった。どんな緊急事態にもすぐに対応できるよう、部活の加入は禁止されているから。

 今こうして屋上にいるのは、平和である証拠である。これが嵐の前の静けさ、というものでないことを祈る。

 高校一年生の四月に、紀斗と出会った。今は十一月であるから、あれからもう十九ヶ月も経ってしまったのか。紀斗は覚えているだろうか。いや、覚えてはいないだろう。

 それでも良かった。

 ただ、紀斗が幸せであれるなら。傷つかずに済むのなら。

 ―――私は何だってする。


 ✻        ✻        ✻


 学校の周りを三周走り終え、首にかけたタオルで汗を拭きながら校門をくぐった。

「お、今朝も自主練か。よく毎日そんなきついメニューで続くな」

 雄聖がすれ違い様に紀斗の背中を叩いた。

「おはよう。別に、好きでやってるから」

 足を止めることなく、グラウンドへ向かう。

「俺も着替えたら直ぐ行くから」

 紀斗は軽く手を上げて答える。

 サッカー部は毎日朝練がある。紀斗は毎朝、集合時間の三十分以上前に登校して、個人トレーニングをしている。二日に一回ほどの頻度で雄聖もこれに加わる。

 二人が部長、副部長に選ばれたのはその技量や才能だけでなく、努力の賜物である。

 高校のグラウンドはそれなりに広く、とりあえずサッカー部員が練習に不便を感じたことはない。

 校舎の教室棟に寄り添うように建っているのが、外部活のための部室棟である。これはプレハブの二階建てで、一見安アパートである。夏は暑くなりやすく、冬は寒くなりやすい。そのため、外部活に所属する男子生徒は建て替えを望んでいる。

 しかし、所属部活を問わず女子からは人気が高い。理由は、可愛いから、だ。外壁がピンクで、過去に美術部が描いたという花の絵が沢山散りばめられている他、各部活の部屋のドアには部それぞれの特徴を掴んだ上手すぎる絵がある。例えばサッカー部なら、緑色のユニホームを着た茶髪の男子からサッカーボールが力強く蹴りだされ、彼の目線の先、ゴール前には黄色いユニホームの黒髪の男子がいて、真剣な表情で大きく手を広げている、というものだ。

 そしてこれに、公立高校であるがために予算が無いという大人の事情も加わり、今のところ部室棟が建て替えられる予定は全く無い。

 着替えを終えた雄聖は、ボールを持ってストレッチをしている紀斗の元へ向かう。入れ違いに部員たちが次々と来て、部室は着替えるための部員で混み始めた。雄聖は人ごみが苦手なので、人より早く来ている理由の一つに、きつきつの中で着替える破目になるのを避けるためというのもある。

「パス練習しようぜ」

 言うが早いや、雄聖は屈伸している紀斗に蹴りこんだ。

 やはり紀斗は瞬発力も人並み以上で、すぐに蹴る体勢に入る。

「こっちはストレッチ中だ、いきなり始めるな」

 文句を言いつつも、いい位置に返してくる辺りが流石だ。

「やっぱ、五木先輩すげー」

 着替え終わった後輩たちが、朝練習の準備をしながら憧れの眼差しを向けていた。


 ✻        ✻        ✻


 もう、私の命がそう長くもたないということはわかっていた。

 力を使わないようにすれば死が遠のくが、それでは意味がない。私が今まで命を削って守ろうとしたものの未来を、少しでも長く繋ぎとめたい。

 真っ白な部屋で、ひとり目を閉じる。四月に入ってから病状が悪化してしまったため、個室になった。―――寂しい。

 でもきっともう直ぐ、愛する桜の精が来てくれるはずだ。

「入ってもよろしいでしょうか」

 扉がノックされた。

 待ち人ではない。聞き覚えのない、男の声である。

「どうぞ」

 音を立てずに、扉がスライドされる。

 中に入ってきたのは、私と同年代くらいの無表情な男だった。

「どこかでお会いしたことは、ありましたか?」

 雰囲気が、よく知った人にどことなく似ていた。しかし、私のよく知る彼がここに来ることは絶対にない。

「いいえ。しかし、兄が大変お世話になったと聞いております。そうですよね、日和(ひより)さん」

 感情の一切が取り除かれたかのように、言葉にも抑揚がない。

「兄……あなたは、吉田(よしだ)晴海(はるみ)さんなのですか」

「婿入りして、今は松原の姓を名乗っております」

 招き入れなければ良かった。そう後悔しても、もう遅い。

 数年前に膝を悪くしてから杖がなくては歩けない。逃げるのは不可能そうだ。

「ずっと探しておりました。しかし、あなたの防壁と錯乱術は強固で、位置情報が曲げられていた。苦労しましたよ」

 やはり、死が間近な私の力では、もう巫覡たちを騙すのは無理だったか。

 脳裏に大切な人々の顔が次々に浮かんできた。

 ごめんなさい。

 私はあなたたちを守り通せなかった。あま

「現在、巫覡たちが“天津(あまつ)(みか)(ぼし)”の元へ向かっております。直に決着がつくでしょう。同じ家に皆様お揃いのようですから、こちらとしては一人一人対処する手間が省けて良かったですよ」

「待って。まさか、全員捕らえたりはしないですよね。これは“天津甕星”と巫覡との問題でしょう。あの子たちは何も知らないわ」

「私たちが恐れているのは、あなたが言うところの桜の精とやらではありません。“天津甕星”の力です。その力を受け継いでいる可能性が少しでもあるのなら、その時点で全員が巫覡の敵です」

 過去の私の選択が今、沢山の愛するものたちに災いとなって降りかかろうとしている。

 悲しみを繰り返させないこと。

 それが私の償いだった。

 それなのに。

 また、過ちが繰り返されようとしている。

「巫覡の力では“天津甕星”の力に対抗し得ない。わかっていますよね」

 身体はあまり動かせないが、せめて目で相手を刺す。

 しかし、晴海は全く動じなかった。

「巫覡は“天津甕星”を倒せない。その考え方は、疾の昔に覆されました」

 嫌な汗が、どっと出る。

 “天津甕星”の唯一にして最大の弱点は、私しか知らないはずだった。

「どういうこと」

 声が震える。

(はる)(おみ)が、見つけたのです。“天津甕星”を消す方法を」

 その才能を武器に辣腕を振るっていた、晴臣の姿を鮮明に思い出す。彼が既にそのたった一つの方法を見つけていると考えるほうが自然だった。私だけが知っていると思い込むなど、なんと身の程知らずで傲慢だったのだろう。

 確かに、先に罪を犯したのは私たち。しかしこれでは、ただの弔い合戦だ。

 そんなことのために、大切な人を消されたくなどない。

「そうはさせない」

 歯を食いしばって、起き上がった。

「まだ動けるのですか。三十年以上も防壁を張り続けて、生きているだけでも尊敬に値するというのに」

 尊敬など、されていない。冷ややかな目が、私を見下ろしている。

 弱り果てた今の私に、何ができるだろう。

「晴臣に言われた通り、ここに来て正解でした。兄は日和さんを高く買っていますよ。その力を一族のために使っていただけなかったのが残念ですね」

 もう私には、ほとんど力がない。

 ならば、できることは唯一つ。

「何をしているのですか」

 私はあなたたちを守ってあげられない。

 だからあなたたちは、自分で自分の身を守らなくてはいけなくなった。それは同時に危険を伴うけれど、きっと今のあなたたちならできる。

 私はそう、信じているから。

「手が、体内に……」

 私のお腹の中に封じ込めていた力。

 これは本来、娘と孫の力になるはずだったもの。

「この凄まじい“天津甕星”の気配は……一体」

 窓を開け、外に抛る。

「止めなさい!」

 晴海に後ろから殴られる。

 霞む視界の中を、私の封じていたものが、一直線に本来の持ち主の元へ飛んでいった。

 どうか、間に合って。

「雑談などしている場合ではありませんでしたね。僕が迂闊でした」

 私を床に引きずり落とし、晴海が医療機器に触れた。機械の操作音が真っ白な病室に響く。

「病院はいいですね。手を汚さずに始末できる。まるで“天津甕星”のようだと思いませんか?」

「……天津甕星は、そんなこと…………しない」

 身体が重くなっていくように感じる。

 始めから、私が助かろうなどとは考えていなかった。

 大切な人たちが幸せであれば、それで――十二分。


 温もりを失った日和を抱き上げ、ベッドに寝かせる。

 ちらりと掛け時計を見上げると、六時十五分を指していた。

「あなたが味方であって欲しかったですよ。本当に」

 抑揚と感情を一切欠いた言葉と共に、晴海はそっと日和に布団を掛けた。


 それと時を同じくして、桜の精のもとに大勢の巫覡が攻め入った。

 戦いを繰り広げる彼らは、かつて皆に愛され敬われた巫女の命が、覡の手によって奪われたことなど、知る由もなかった。

 そして桜の精もまた、最愛の人が既にこの世に存在しないと知る術はなく。

 皮肉にもそれは、彼と彼女が出会ったのと同じ、桜の綺麗な季節のことだった。


 ✻        ✻        ✻ 


 今日二年A組の担任は、出張で午後から学校にいなかった。普通毎日行われる帰りのホームルームは、今日は普通でないため行われない。七時限目の授業を終えると、A組の生徒たちは廊下に飛び出していった。皆一秒でも部活時間が増えるのが嬉しいようだ。

 初生は帰宅部なので、特に急ぐ気もない。急いで家に帰ったところで、どうせ出迎えるのは見慣れた真っ暗な廊下。

 いつも帰りが遅く休みもない父とは、顔を合わせることもない。一人暮らしと大差なかった。

「初生、また明日ね」

 百世が手を振っている。慌てて笑顔で手を振り返した。

「無理しすぎないでね」

 初生のすぐ横から声がして、驚く。

 声の主は智佳だった。平安の女性のような綺麗な黒髪が夕日で輝いている。

「少し、元気がないように見えたから。気のせいだったらごめんね」

 智佳は、四人の中で一番気が利き、周りの態度に敏感だった。ポジティブで常に元気な百世や、相手が誰であっても自分の信じることは曲げない樹理とは全く異なるタイプの良さである。

「心配してくれてありがとう。私は大丈夫だよ」

「良かった。じゃあ、私は部活に行くね」

 茶道部である智佳は、先生に弟子入りしているらしい。熱心にやっていることは、初生にもわかる。

「頑張ってね」

 教室には、初生を含めて五人の生徒しか残っていなかった。

 鞄の中を整理してから、初生も教室を出る。

 靴を履き昇降口を出ると、校門に見知った人影がいるのを発見した。

「かず、何でここにいるの?ひとり?部活は?」

 思わず駆け寄り、質問攻めにしてしまう。対する紀斗は初生を一瞥しただけで、下に置かれていた鞄を拾い上げて歩き出してしまった。

「もしかして、私のこと待っていてくれた……とか?」

 期待半分、冗談半分な初生の質問。

「もしかしなくても、俺がお前以外の誰を待つと」

 予想外の答えに、テンションが一気に跳ね上がった。

「すっごい優しいね!」

「別に」

 紀斗はふっと顔を背けてしまう。その態度が初生には若干気に食わなかったが、待っていてくれた優しさに免じて許すことにした。

 長い足を思う存分使う紀斗の一歩は、初生にとって致命的な大きさである。「少しはチビを労われ!」と何度も心の中で叫ぶ初生であったが、今のところそれが紀斗に伝わっている様子は残念ながら全くない。

 そんな気遣いのかけらも無い紀斗であるが、運動神経抜群、いつも優しく、いつもクール、一八六センチという長身、そして多くの女子から言わせるに「イケメン」ということもあり、(初生にはイケメンとやらの基準がよくわからなかったが)かなりモテる、らしい。

 だから、紀斗と仲が良いことを皆に羨ましがられる。初生と紀斗は幼稚園からの付き合いで、家が近所の幼馴染である。

「あ、私の質問、答えてくれてない。部活行かないの?」

 思い出して、前を行く背中に尋ねてみる。

「サッカー部の顧問、お前のクラスの担任だろ。出張でいないんだ。で、副顧問もそろって出張」

「あー、それで練習許可おりなかったってわけか」

「そういうこと」

 気づけばもう駅に着いていて、そして運よく電車が来た。溢れかえらんばかりの混雑具合の中、なんとか箱に体を押し込む。聞きなれた音と共に扉が閉まると、どこからかきついタバコの臭いがした。

「良かったね。待たなくてすんで」

「俺は・・生と・・・・もっ・・・一緒・・・た・・な」

「え?」

 満員電車がちょうど切り替え地点の上を通過したようで、紀斗の声が初生に届くことはなかった。


 ✻        ✻        ✻


 鮭を二匹焼いて、そのうち一匹を白米と共に胃袋におさめる。もう一匹はラップをかけて冷蔵庫へ。

 台所の引き出しからいつものメモを取り出し、食卓に置いておく。

『お父さんへ

 夕食は冷蔵庫の中にあるよ。温めて食べてね。

 おやすみなさい。

 初生より』

 何度も使いまわしているため、紙はよれている。メモ用紙の絵柄は、何年も前に放送を終了したアニメのキャラクターだった。

「そろそろ、書き直した方がいいのかな」

 初生に応える声は存在しない。

 孤独感を振り払うために大きく伸びをして、食器を流しに運ぶ。洗い物は朝にまとめてやることにしているので、夜の分は水につけておく。

 先日遣り残していた場所を掃除していた結果、結局丸一日を家事に費やしてしまった。

「はぁ。疲れた。」

 初生は自室に戻ると、一気に体が重くなった気がした。そんな自分が、年寄りのように思えてきて。

 ―――縁子は良い意味で大人っぽいけれど、私は悪い意味で老けているのではないだろうか。

 浮かんでしまった取り留めもない空想が、思いのほか初生自身を傷つけていた。

 別に、家事をするのが嫌なわけではない。むしろ落ち着くし、好きなくらいだ。しかし、歳相応の、高校生の今しかできないような楽しみをもっと味わえても良いのではないだろうか。

 例えばそれは友達と放課後に遊ぶことであったり、部活であったり……恋愛であったり………?

 そのとき、初生の頭に現れた人物がいた。

 紀斗。

 幼いときから、ずっと一緒だった紀斗。

 初生の目に輝いて映ったのは、いつだって自分ではなく紀斗だった。

 母親がいない子、と特別視され友達がなかなかできず、できても遊ぶ時間はほとんど取れないためどこか浮いてしまって、完全に輪の中に居続けることは難しかった。

 ……その隣で常にクラスの中心にいたのは紀斗だった。

 小学生のときも、中学生のときも、卒業アルバムの部活コーナーに初生が写っていることはなかった。高校でも、この先初生が部活にはいることはないだろう。

 ……サッカー部の中心で部員に囲まれて写っていたのは紀斗だった。

 初生は紀斗と一緒に帰ろうとして、何度も紀斗に告白しようと待ち構えている女の子に遭遇した。紀斗に渡して欲しいと、手紙を託されたこともあった。連絡先を教えて欲しいと懇願されたこともあった。

 ……まぁ、紀斗は誰とも付き合う気はないようだけれど。


 ――――私が、かずになりたい。


 急に眠気が襲ってきて、耐え切れずにベッドに横たわった。

 まだ明日の予習をしていないし、お風呂にだって入っていない。でも、ほんの少しだけ仮眠をとるくらい。

 緑茶色の毛布を肩まで引っ張りあげて目を閉じる。

 睡魔は驚くほどの力強さをもって、初生を眠りへと誘った。


 ✻        ✻        ✻


「んっ……」

 ぼやける風景。

 目をこすり、寝ぼけている頭を稼動させる。ようやく結ばれた焦点。最初に認識したのは机に並んだ教科書だった。初生の記憶ではきちんと布団で寝たはずなのだが、どうやら学習机で眠ってしまったらしい……と、納得しかけてはたと思った。

 ―――私の机の色って、もっと明るくなかった?

 今目の前にあるのは、黒に近い色だ。首をめぐらし横を見ると、紺色の掛け布団がのったベッドがあった。

 まずはひとつ息をついてみる。

 そして、落ち着く。

 もう一回落ち着く。

 ―――で、この理解不能な状況を焦ってみる。

「何で、私がかずの部屋にいるわけ!?」

 そこで初生はもうひとつ余計なことに気づいてしまう。

「……なんか声低くない?」

 まるで紀斗の声のように。

 まさかと思い、立ち上がってみる。目線の高さが明らかにいつもより上にあって、良く知った紀斗の部屋がいつもと違って見える。

 何度も羨んだ長い足は今や初生の一部となり、手は骨ばった男のものだった。顔に手を当てると、予想より高い鼻がある。鏡を探してみるが、高二男児の部屋にドレッサーなんてあるわけもなく。

 淡い希望を持って「私が知らない間に、かずの家に遊びに来ちゃってました」説を信じ、初生の愛用しているバックを探してみるも、そんなものはここに存在しない。出かけるときはどんな近場でも必ず持ち歩いているあれがない限り、初生が自らここに来た可能性はほぼゼロになる。

「かずになっちゃった………」

 つぶやいた声は、やはり紀斗のもので。

『リリリリリリリリリリリリリリリリ……』

「うわぁあああ!」

 いきなり鳴り出した青い携帯電話。もちろん紀斗のものだ。

 常にバイブのため大音量の設定に慣れていない初生には、心臓に悪かった。

「これは、出て良いのかな……?」

 一応体は紀斗だし。紀斗は今いない……というより、私が紀斗なのだし。第一、声が紀斗だし。……などと、ひとしきり自分自身への言い訳を終えた初生は、未だ着信音を響かせている青い物体をそっと手に取った。画面をタップすると真っ先に目に飛び込んできた文字。

『水無 初生』

「私から電話!」

 もやもやと渦巻いていた罪悪感は一気に消え、勢いよく通話ボタンを押した。

『もしもし』

 聞こえてきたのは、ホームビデオでよく耳にする声。

 すなわち、初生の声。

「も、もしもし」

 初生の口から発せられるのは、もうその声ではない。

 急にそのことが悲しくなって、一生このままだったらどうしようかという不安が大きくなって、怖くなって。

『……泣いてるのか』

 携帯電話の中から、初生の声が訪ねる。

「泣いてないもん」

『嘘ばっか』

 声が入れ替わっているから、不思議な気分だ。

『大丈夫だ、俺がついてる』

 一足先に状況を飲み込んでいるらしい紀斗がなだめてくれる。

 今はその強さと優しさが、嬉しい。嬉しいけれど

「私の声で『俺』とか言わないでよ」

『それはこっちの台詞だ。『私』なんて言うな。それから、そのトーンで泣くな。気持ち悪い』

「き、気持ち悪いって……私だって好きでこんな状態になったわけじゃないのに」

 自然に笑いがこみ上げてきた。そんな場合でないのはわかっているのに。

『……元気、出たみたいだな』

「うん。………ありがと」

『おう』

 そういえば、小さい頃から困ったときはいつも紀斗に助けられていたな、と思い出した。

『で、お前の状況は』

 一転して紀斗が真剣な雰囲気になったのを感じ、初生も気持ちを切り替えた。

「目が覚めたらかずの部屋にいて。体もかずになってて。どうしよう、ってなってたら電話がきた。かずは?」

『俺も大体一緒だ。こうなった原因で、何か思い当たることはないか』

「思い当たることなんて、」

 無いよ、と言おうとして止まった。

 ――――私が、かずになりたい。

 眠りに落ちる直前、確かにそう深く望んでしまったのだ。でも、あれはただの気の迷いというか何というか。

『どうかしたか』

 突然黙りこんでしまった初生を心配してくれたのだろう。紀斗に呼びかけられた。

「かずは何か無いの、思い当たること」

『…………あることにはある、けど』

 紀斗にしてはめずらしく歯切れが悪い。

「思うんだけどね、隠し事してたら元に戻れないと思うんだ。だから私もかずも、全部、正直に話そ?」

『……そうだな』

 渋々といった様子の紀斗。口は重そうだ。

「じゃあ、言いだしっぺの私からね。私、急に眠くなって寝ちゃったんだけど、その直前に考え事していたの」

『俺も同じだ。考え事していて、いきなり眠気が』

 どうやら、これが正解のようだ。

「私の予想では、そのとき考えていたことが原因じゃないかと思うんだ」

『同意見』

「私が考えてたのはね、『私がかずになりたい』ってこと」

『………』

 あぁ、馬鹿だと思われていたらどうしよう。いや、それならまだいい。気持ち悪いとか、こんな奴嫌いだと思われてたら、

『……俺が思ったのは』

 全神経を耳に集中させる。答えを聞きたくないはずなのに、でも知りたくて。

『俺が初生になりたい』

 息が止まるかと思った。これは夢なんじゃないかとも思った。

 身体が入れ替わっているという状況は夢であってくれたら嬉しいが、でもやっぱり、紀斗の気持ちが現実であって欲しくて。

『どうしたら元に戻れると思う』

 紀斗に問われ、若干考えて答える。

「願い続ければ、願いは必ず叶う。でもそれが複数の人の願いならば、そして強い願いならば尚更に、叶う。……今回は私とかずが同時に願ってしまったから、こんな馬鹿げた願いが叶ってしまったのだと思う」

 言ってしまってから、あれ?と思う。

 “願い続ければ叶う。”なんて、誰から聞いたのだっけ。誰かの曲の歌詞で見たとか、そんなことじゃなく、何かもっと重要な――――。

『その原理でいくと、今度は同時に元に戻りたいって願えば良いんだな』

 紀斗の発する初生の声で、ハッと我に返る。

「多分そうだと思う」

『じゃ、願え』

 目を閉じて、一生懸命願う。


 元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。元に戻りたい。


『……戻らないな』

「……そうだね」

 何がいけないのだろう。

 こんなにも一生懸命願っているのに。

『お前は何で、俺になりたかったわけ』

「そ、それは」

『思うに、それが重要なんじゃないか?』

 確かに、そうなのかもしれない。

「さっきは私からだったから、今度はかずからね」

 不満そうな呻き声の後、紀斗が暴露を始めた。

『お前、いつも大変だろ』

「……大変な人になりたかったの?」

『馬鹿。そうじゃなくて………』

「何なのさ」

 要領を得ない話に、つい応答が荒くなる。

『俺が辛いのとか全部、代わってやれたらよかったのにって』

「そんなのっ……馬鹿だよ!」

『だな』

 駄目。

 雫は零したとしても、嗚咽はこらえないと。

 でも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・嬉しい。

「嘘。ごめん。ありがとう」

『別に、何かできたわけじゃないし、逆に迷惑、』

「そうじゃなくて!」

 涙声で叫んでしまったのが駄々っ子のようで。慌てて勢いを沈める。

「そうじゃなくて。かずの優しさに対して、ありがとって言ったの」

『こんなんで良ければ、いくらでも思っといてやる』

「………うん」

『だからもっと、頼れ。お前は一人で頑張りすぎだ』

「………うん。でもそのためには、かずはかずでいなきゃ」

『そうだな。支えるには、お前になっちゃ意味無いな』

 頼っても良かったんだ。甘えても良かったんだ。こんな近くに、見守ってくれている人がいたんだ。―――近すぎてわからなかった。

『泣き止んだか?』

「うるさい」

 ごしごしと目をこする。そこでふと思い立った。

「今ならかずの泣き顔見放題だね」

『止めろ』

 動揺の無い鋭い声は、かなりの迫力があった。

 これが本物の紀斗の低い声だったら………私の声で良かった、とひそかに胸を撫で下ろした初生であった。

『お前の理由は』

 うっ、と言葉に詰まる。でも、隠し通すわけにもいかない。二人の身体がかかっているのだ。

「かずのことが、羨ましかったの。友達と放課後に遊べて、部活で活躍して。いつも輝いて見えてた。………ついでにモテるし?」

 最後は小さい声で付け加える。すると、返ってきたのは初生の予期せぬ答えだった。

『確かにお前は他のやつより遊べないし、部活だってできないけど、俺よりお前のがモテてたろ』

「……はい?」

 十六年間の記憶をざっとさらってみるも、誰かに告白されたようなことは全く無い。これのどこが、モテたと。

『まさか気づいてなかったわけじゃないよな。例えば幼稚園のときホワイトデーに、チョコあげてもいない男子からお返しもらってただろ』

 事実だが。

「あれはただ単に、クラスみんなにあげてたんでしょ?」

『そんなの、照れ隠しに決まってるだろ』

 反論しようとしたが、確かに他の女の子が手提げいっぱいにお菓子を持ってはいなかったような。

『それから……小三くらいだっけ。劇やったろ。あの時クラスの男子ほぼ全員がお姫様役にお前推薦しただろ』

 あれはてっきり嫌がらせだと。

『小五。キャンプファイヤーのダンスでお前と踊るために、必死なやつが多数』

 そんなこと、初耳なのですが。

『修学旅行でお前と同じ班になるために、白熱した腕相撲大会が勃発』

 じゃんけんで早く決めればいいのにと、女子たちで話していた、あれか。……ん?でもあの時は確か―――。

「全ての班が決まった後に、私別の班の子と代わっちゃったよね。」

 それで紀斗と同じ班になった。一緒の班になれてとても嬉しかったから、このことは初生もよく覚えている。

『あれは大変だったんだぞ。せっかく優勝したやつが、お前と一緒になれなかったんだから』

「なんか悪いことしちゃった気分。……でも、かずは負けてたってこと?クラスで一番握力強かったのに」

『あの時は右手骨折してたろ。左手でやったんだ。そりゃ負けるだろ』

「そっか」

 納得はしたが、引っかかることがあった。

 紀斗が骨折した理由って、なんだっけ。

『一番わかりやすい例を思い出した。中二のとき、告られたろ』

 しかし、紀斗のとんでもない発言で、初生の小さな疑問は吹っ飛んでしまった。

「待って。私告白されたことなんて、一度も」

『お前にとっては、そうかもな』

 意味深な発言に、続きを促す。

『あいつが「俺のこと好き?」って聞いたら、お前満面の笑みで「もちろん!一生友達でいてね!!」って』

 その場面を思い返してみて―――。

「そ、それって私、すっごく酷いことした………?」

『したな。思いっきり。いっそ清々しいほどに』

 きっぱりと言い切る紀斗が憎らしくなってくる。

「何でもっと早く教えてくれなかったの。私が何も気づいてないことも、全部知ってたくせに」

『知って欲しくなかったから』

 あっさりと悪びれずに言ってくれるが、よく考えると相当酷い。とりあえず、弁明は許してやろうという情けを持って、尋ねる。

「……何で」

『好きだから』

 ……………はい?

「いや、そりゃ私だってかずのこと好きだし、かずが告白されているところを目撃するのは複雑な心境ですけ…」

『俺の好きは、そういう好きじゃなくて』

 初生が言い終わらないうちに、紀斗が被せてくる。

『友達とか、幼馴染とか、確かにそういう好きも混じってるけど。俺の好きの大半は、付き合って欲しい、とかそういう方の、好き』

「……何、好き好き連呼して。」

『そうしなきゃ、お前わかんないだろ。鈍感』

 恥ずかしがっている様子など微塵も無く、さもそれが当たり前かのように。

「悪かったですね。鈍感で」

 悪あがきは、所詮悪あがき。

『可愛くない奴。特に男の声だと救いようが無い』

「かずの声でしょう」

 二人で声をあげて笑った。

 声が入れ替わっているから、二人が同時に笑うと自分の声が遠くから聞こえてくるように感じる。浜辺で聞く、波の音に似ていた。

 ひとしきりの笑いがおさまると、静寂が訪れた。

『お前はさ、』

 先に切り出したのは、紀斗だった。

『どうしようもなく鈍感だから気づかなかったろうけど、俺、ずっとずっと前から、お前のこと好きだ』

「……うん。」

 こんなときどう答えればいいのかなんて、誰にも教えてもらってない。

『俺と、付き合って欲しい』

 ちゃんと見ていてくれた人がいる。

 ありのままの初生を、好きになってくれた人がいる。

 紀斗にならなくても、初生は初生でいいのだ。

「私は、」

 そのとき、再び急激な睡魔が初生を襲った。その既視感に怯えるより先に、意識を手放してしまったのだった。


 ✻        ✻        ✻


「聞こえておるか」

「はい」

 暗闇の中にあるのは、己の声のみ。仮に私以外の人間がここにいたとしたら、私はひとりでしゃべっている不審な者に見えたことだろう。

 もうひとつの、語りかけてきた声の主は、ここにはいない。しかし、どこかには存在する。

 私は、巫覡。声を聞き、発する者。

 そして―――唯一“天津甕星”の力に対抗し得る者。

「感知しておるな。力が使われたのを」

「はい。そして急激に増大した」

「そうだ。御主の役目、わかっておろう」

「水無初生を、監視すること」

「それだけか」

 年老いた男の低い声が、体中にまとわりついてくる。

「……五木紀斗を、引き離すこと」

「そうだ。こうなってしまったからには、もう手段を選んでいる暇は無い。“天津甕星”のことも気になる。………我が何を言いたいか、聡い御主ならわかるであろう」

 いざとなれば、五木紀斗を殺せ。

 言葉にしないのは、悪い言霊を発しないためだ。一族始まって以来の天才と呼ばれし巫覡は、死して尚配慮に抜かりが無い。

 彼に次ぐ天才と畏れられる私はしかし、彼のような崇高な理念のもとに口にしなかったのではない。単に、紀斗を殺すという手段を始めから否定しているからだ。だが巫覡としては、このような考え方は間違っている。だから私は、彼に従うふりをする。まだ私には、彼の力が絶対に必要だ。

「はい」

 しっかりと、肯定の意を示す。

 強大な力の主が、離れていくのを感じた。閉じていた目を開くと、暗闇が横たわっていた。

 たった今まで対話していた相手。それが、今まで私が知っていた最大の力だった。

 それが、つい一時間ほど前、更なる大きな力を認知してしまったのだ。

 私は、“天津甕星”の力を甘く見すぎていたのかもしれない。

 油断は命取りだと、何度も教わっていたのに。

 闇の中に一瞬、昼間屋上から見た紀斗の姿が浮かんだ。

 もう、油断なんてしない。

 容赦もしない。

 全ては世界を、人々を……………紀斗を守るために。


 ✻        ✻        ✻


「ケーキ屋さんになりたい」

 あ、それ子供の頃の話でしょう。今は別に。


「会社のっとって億万長者や」

 結局わいは、万年平社員か。


「ゼロレンジャーのレッドになって、地球の平和を守るんだ!」

 そんなもの、なれるわけがなかったんだ。


「世界一幸せな花嫁さんになんねん」

 離婚手続き、面倒やな。何であんなんと結婚してもうたんやろ。


「弁護士さなって皆を助けたいんじゃ」

 俺には無理じゃ。頭悪いやに、馬鹿だったもんぞ。


「わたしね、歌手になるの」

 何よ今更。音痴なんだから、なれないに決まってるじゃない。


 みんな、どうして諦めてしまうん。

 僕を叶えてや。

 僕を願いのままにせんといて。

 叶えて欲しい。

 僕の願いは、たったそれだけやのに。

 僕を忘れんといて。諦めないで。

 僕を、存在させて。


「……きて。起きて。ねぇ、起きてってば」

 甘い香りがした。何か柔らかいものが、手に触れている。

 目を開くと、満開の桜の木があった。

 その手前に焦点を合わせると、心配そうにこちらを見つめる少女がいた。艶やかな黒髪は、耳の下に赤いリボンで一つに束ねられている。着ているのは白と赤の袴。巫女のようだった。

「あ、目が覚めた?」

 背中を支えて起こしてくれる。彼女との距離が縮まると、甘い香りがふっと強くなった。

 大きな桜の木に寄りかかって、眠っていたらしい。

 ここは神社の境内のようで、様々な大木があった。ご神木というやつだろうか。風が吹くと、淡い薄紅色の桜の花びらが僕らの周りを舞った。

「おおきに。助けてくれたって」

 するりと口から、言葉が零れ落ちた。

「関西弁?」

 彼女に聞かれて、戸惑った。自分でも何故こんな言葉遣いをしているのか、わからなかった。

 しかし、自分の中にある一番強い思いが、この方言で話している。とはいっても、沢山の方言が入り交ざっており、どれが本当の自分の言葉なのかはわからなかった。

「私の名前は、日和。あなたは、何者なのかしら」

 にっこりと微笑みながら、日和が立ち上がる。

 つられて立った。日和の背が低いのか、僕の背が高いのか、二人の身長には頭一つ分以上差があった。

「背、随分高いのね。そのわりに線が細い。ちゃんと食べていないのでしょう」

 日和は楽しそうだった。

「日和も小さいやん」

「あはは。そうね、私が言えたことではないわね」

 桜吹雪の中で笑う日和。

 その笑顔が自分に向けられただけで、胸がきゅうっと締め付けられる。でも、どこかが温かい。―――そうか。

 僕、日和が好きみたいやわ。

「あなたは結局、何者」

 神社の縁側に腰掛けて、隣を小さな手で軽く叩いた。座っていい、ということらしい。

 素直に従った。

 丁度正面に、ご神木の桜の木がくる位置だ。

「人間とは言わせないわよ」

 ぶらつかせている自身の足先を見つめたまま、日和が畳み掛けた。

「何でや」

 姿形は、人間の男そのものだった。どこにでもいそうな、背が高くて痩せ型の男。

 戸惑っていると、日和が顔を上げた。

「私ね、巫覡なの。巫女と言った方がわかりやすいかしら。……だから、あなたが人間でないことくらいわかってしまうの。力があるということは、使いたくなくても使われてしまうということだから」

 日和は、苦しそうな顔をした。

 本当は力など欲しくなかったというように。

「僕、目が覚めたらあそこにおったんよ。自分が誰かなんてわからん」

 正直に答えた。

 今の僕にある記憶は、沢山の声と思いと願いと、日和のことだけ。

「じゃあきっと、あの桜の精よ」

 日和は暗くなった自分を振り切るように、大きな声を出した。

「僕、そんなええもんやないと思うで」

「自分を信じなきゃ駄目よ。あなたはご神木の桜の精。いいわね」


 ―――今にして思えば、日和は始めから僕の正体を知っていたのかもしれない。


 日和は僕の手を引いて、母屋の中に入っていった。引き戸を開けると直ぐに、そろいの袴を着た女たちに出迎えられた。

「日和様、お帰りなさいませ」

 女たちは、一斉に床に手をついて深く礼をする。

「客人よ。粗相の無いように」

「承知いたしました。客間にご案内いたします」

「いいわ。私が案内します。お茶の準備はお願いね」

「畏まりました」

 外にいたときと打って変わって、日和は威厳に満ちていた。

 二人で長い廊下を進みながら、僕は声を小さくして尋ねる。

「もしかして日和は、偉い人なん?」

 僕の心配を吹き飛ばすように、日和が笑った。

 二人きりだと、室内でも外のように接して大丈夫なようだ。

「私、この家に嫁ぐことになったの」

 と、つぐ?

「この神社は代々吉田家が守っているのよ。現在の神主兼巫覡の当主には、三人の息子さんがいらっしゃって、その長男と私が婚約しているの。結婚の儀は、一ヵ月後くらいかしら」

 前を行く背中がひどく悲しそうに見えるのは、僕が失恋したからだろうか。それとも。

 日和が幸せなら、僕の恋が実らなかろうが構わなかった。

 でも、幸せでないなら。

「日和はちゃんと納得してるん?」

 隅々まで綺麗に整えられた部屋に通されたが、僕は掛け軸も生け花も観賞する気になれなかった。

 日和は背筋を伸ばして正座をした。僕も胡坐で視線を合わせる。

「私は、現代に存在する巫女の中で一番力が強いの。だから婚約。わかりきっていたことなの。もちろん、お相手の(はる)(よし)さんは良い方よ」

 だからさっき、力があることを嘆くような顔をしていたのか。

「失礼します」

 僕の口より先に、襖が開いた。

「お客様がいらしておると聞いたが」

「晴義さん」

 日和に晴義と呼ばれた男は、巻き毛の短髪で温和な瞳の持ち主だった。

「日和さん、そちらの方は」

「桜の精です」

「ほう」

 晴義はさして驚いた風もなく、畳に腰を下ろした。

 やはり、巫覡だから力で人間でないことがわかるのか、と思っているとそうではなかった。

「私は巫覡の当主であるにも関わらず、力が弱いのです。だからこそ、強い力を持つ日和さんが必要だった。力を借りる以上、どんなことでも信じなければね」

 豪快に笑った。

「信頼しとるんですね」

「ええ、もちろん。三男は完全に力が無いので、婿に出る予定です。その代わり次男は、三人分の力を持っているかのように強大な力を持っている。落ち着いたら当主の座は弟に譲って、神主に専念しようと考えております」

 日和はずっと押し黙ったままだ。

「桜の精様。どうぞ、ごゆっくりしていってください。その間の世話は、あちらの巫女がいたします」

 手で示された方を見ると、襖の向こうにおさげ髪の女が控えていた。

 目が合うと深く礼をされたので、受け礼する。

(こと)と申します。何なりとお申し付けください」

 外見に似つかわしくない、低い声だった。表情も硬い。

「待ってください」

 突然大きな声を出した日和を、全員が見つめる。

「世話役、私にやらせてはいただけませんか」

「日和様。結婚の儀が近うございますのに」

 おさげの女が、困った顔をする。

「お見つけ申し上げたのは私です。それに人間のお客様ではないのですから、それなりに大きな力を持った者がお世話役になるのが良いかと存じます」

 日和が必死になって、晴義に訴える。

 嬉しかった。僕のために、そこまでしてくれることに。

「わかった。日和さんに一任する」

 とうとう、晴義が折れた。

「ありがとうございます」

 頭を下げた日和と共に、僕も正座になって深く深く礼をした。


 ―――もしあのとき、日和が世話役になっていなかったら。

 晴義は日和と共に、幸せな人生を送っていたのだろうか。


 考えてもどうにもならないことを何度も考えてしまうのは、一人きりの時間が長すぎたからだ。

 十二年間、ずっと一人きりだった。

 しかし、永遠に続くと思っていたその闇は、突然終わりを迎えようとしていた。

 音さが共鳴するように、力が増大しているようだ。

 それに合わせて奪われていた自由が、山の雪が溶け出すように、少しずつ取り戻されていく。

 ここから抜け出すことは、まだ無理だろう。

 だが、近いうちにこの空間は崩壊する。綻びが今この瞬間にも広がっていることが、何よりの証拠だ。

 だから、あと少しだけ。

 君も、孤独に耐えていて。


 ✻        ✻        ✻


 初生が家をでると、門の隣に紀斗が立っていた。

「元に戻れてよかったな」

「そ、そうだね。あはは……」

 ぎこちない笑いと共に、紀斗を通り越して駅へと向かう。

「おい。せっかく家に寄ってやったんだから、高校まで一緒に行けばいいだろう」

 そう言ってついてくる紀斗。

 早足で頑張っていた初生であったが、それは逆に紀斗の歩幅に合わせていると同義になってしまった。

「そういえばかず、電話切らないで寝ちゃったでしょ。起きたときに慌てて切ったけど。でね、私朝ごはんが鮭で昨日も食べたんだだけど、おいしかったんだよ。さすがに二日連続は正直嫌なんだけど、捨てるのはもったいないからね。あ、今日私のクラス漢字テストあるんだ。電車の中で勉強しなきゃ。昨日は結局あんまり勉強できなかったから。それに、」

「まだ、告白の返事聞いてないんだけど」

 あからさまにびくりと肩を震わし、立ち止まる初生。

「お前、この話題切り出されたくなくて話し続けてたろ」

 紀斗は半眼で初生の顔を覗き込んでくる。その視線から逃れるため、初生は下を向いてしまった。

「気づいてるか」

「な、何を?」

「お前、今日一回も俺の顔まともに見てない」

 慌てて顔を上げる初生だが、予想していたよりも数倍近くにあった紀斗の顔に驚き、再び俯いた。

「……ごめん。ずっと幼馴染だと思っていたから」

 被さっていた影が消え、太陽光が初生を照らす。その光が、紀斗が歩き出したことを教えてくれた。

 傷つけたろうか。

 嫌われただろうか。

 たくさんの不安が初生を襲う。

「私、」

「いいよ、それで」

 数歩先で、紀斗が振り返る。

「俺、ずっと待ってるし。今までだって待ち続けてたんだ。それが後何年延びようと関係ない。お前が答えを出すまで、今までの関係性を変えなくていい」

 初生は今すぐに「付き合おう」と、「私も好きだよ」と、言うことのできない自分が疎ましかった。

 でもまだ初生にはこの好きが、紀斗が自分に抱いてくれているような好きなのかどうか、わからなかった。

 だから今は。

「ありがとう」

 待っていて欲しい。

 なるべく早く、答えを見つけてみせるから。

「電車、乗り遅れるぞ」

 紀斗の歩幅が、心なしかいつもより小さくなっている気がした。なぜなら駅に着くまでに、もう初生が小走りになることはなかったから。




 いつも私の隣にいたのは、強くて優しい人でした。


 そして、これからも隣にいて欲しいと、ずっとずっと願い続けた人でした。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

この作品には続きがございます。

ぜひ次のお話もお読みいただけますと幸いです。

感想もお待ちしております。

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