訳者解題
以上5篇がクローカーの収集した、デュラハンに関わる南部アイルランド民話である。デュラハンの名を冠する文献で、これより古いものは見当たらない。デュラハンの馬車 Coach-a-bower も同様。首なし馬、首なし騎手ならもっとずっと古くからあるのに、デュラハンと呼ばれるようになったのは、新聞雑誌が普及していく時期の事なのか。
デュラハンのウィキペディアにも、この本が多く引用され、ただ引っ掛かりを覚える箇所もある。
「家の人が戸を開けると盥にいっぱいの血を顔に浴びせかけるともいわれる。」というのは、第2話『ハンロンの水車屋』後書きの引用であろう。おそらく「盥」は誤訳。
…同じ地方(カストルタウン・ロッシュの近郊)に伝わる別の伝説によると、首なし馬に引かれた黒い馬車が、毎晩キャッスルハイドからバリーホーリーから少し先のグラナファウナまで行き、谷を上ってからまた戻ってくるという。また、同じ馬車が毎週土曜日の夜、ドネライルの町を走り、さまざまな家の戸口に停車するとも言われている。しかし、もしドアを開けるような愚か者があれば、即座に洗面器一杯の血がその顔に投げつけられる。
Another legend of the same district relates, that a black coach drawn by headless horses, goes every night from Castle Hyde till it comes to Glana Fauna, a little beyond Ballyhooly, when it proceeds up the valley, and then returns back again. The same coach is also reported to drive every Saturday night through the town of Doneraile, and to stop at the doors of different houses; but should any one be so fool-hardy as to open the door, a basin of blood is instantly flung in their face.
basin の訳語をどうするか。washbasin なら洗濯用の盥なのだが、それならどちらかというと washtab というようだ。そもそも「顔面にぶっかけてくる」というからには、目潰しか、顔を背けさせるのが目的、つまり「見てはならない」という禁忌を示すものであり、全身血塗れにする意図はあるまい。「鉢一杯の血」「洗面器に湛えた血」で十分であろう。この場合、首のないデュラハンが洗面器を使う、という方が面白いように感じる。
また、この話を伝えたクロンメル氏に拠れば、このような狼藉に及ぶデュラハンは毎週土曜日の夜、Doneraileの町に出没するのみであるから、他の町では心配無用。この定期便を避けてさえおけば、ドネライルの街でも問題無さそうだ。
続けてウィキペディアは「デュラハンをホブゴブリン(恐ろしい精霊)"の類としている。」というが、ホブゴブリンなる記述は見当たらない。おそらく第1話『良い女』後書きに、別の記述が混ざったのであろう。
現存する最も優れたアイルランド語辞典の著者であるオライリー氏は、デュラハンという名前について、筆者への通信で次のように表現している。
「デュラハン(アイルランド語ではDubhlachan)とは、暗い、不機嫌な人を意味する。ゴブリンが知られている地方の中には、デュラハンという言葉が同じ意味を持つところもある。その語源は、Dorr、Durr、怒り、Durrach、悪意、獰猛、等々。」この最後の語源の正しさには疑問が残るが、Dubh(黒)は明らかに、この単語の構成要素である。
Mr. O'Reilly, author of the best Irish Dictionary extant, respecting the name Dullahan thus expresses himself in a communication to the writer.
"Dulachan (in Irish Dubhlachan) signifies a dark, sullen person. The word Durrachan, or Dullahan, by which in some places the goblin is known, has the same signification. It comes from Dorr, or Durr, anger, or Durrach, malicious, fierce, & c." The correctness of this last etymology may be questioned, as Dubh, black, is evidently a component part of the word.
goblin は fairy の一種。相互に置き換え可能な場合も。一般に fairy を「妖精」と訳すのは、だから必ずしも適切ではなく、「妖怪」と訳した方が実情に合っている。デュラハンも妖怪の一種である、という主張なら、納得する人は多いのではないか。
しかし Hob-goblin となると、この本ではデュラハンの項になく、次項 Fir darrig の説明になる。
The Fir darrig here has many traits of resemblance with the Scotch Brownie , the German Kobold , and the Hob - goblin of England ( Milton's " Lubber fiend . " ) They all love cleanliness and regularity , are harbingers of good - luck , and in general , for some exceptions cc cur , are like cats , attached to the house rather than to the family .
John Canon O'Hanlon "A LEGEND OF MURRISK."(1870) 後書きに、それらしき記述があって
[4] デュラハン・ドラチャン・ダブラチャン・デュラチャンは、アイルランドのホブゴブリンに無差別につけられる名前で、首なしに見えるものとされている。語源は、暗い、怒っている、不機嫌な、激しい、悪意のある存在を指しているようです。
[4] The Dullahan, Dulachan, Dubhlachan or Durrachan, are names indiscriminately applied to Irish hobgoblins, represented as appearing without heads. The etymology of the word appears refer- able to a dark, angry, sullen, fierce or malicious being.
というのは、明らかにクローカーの注記を引きずりつつ、半世紀も経って呼び名もやや変化したのだろうか。
第2話『ハンロンの水車屋』について
マイケル(「ミック」)・ヌーナンが、靴屋に靴を求めて遠い南の町に出かけ、徒歩で帰路に就くが「ハンロン老人」の廃屋である粉ひき小屋から、ガタガタという音を聞く。
とあるのは、正確ではない。ミックは修理を頼んだ靴を取りに出かけ、靴屋の直前で(姿の見えない)人狩りの物音に追いかけられた時、昔動いていた水車屋の音を聞くのだ。
月も出ていない黄昏時、ミックはごく慎重に歩いていた。ところが森から降りてくると聞こえてきたのは、鳴り響く角笛やらシッシッとけしかける声やら、全世界の猟犬の鳴き声やら、もう自分を追ってきているとしか思えなかった。次いで馬の疾走音、鞭打ちの声。彼は古き良き歌のように絶叫、
"笛吹きよ、野の花よ、そして 探索者よ、こんにちは"
川の向こうの灰色の岩から聞こえてくる谺は、言ったことをそのまま返してくる。しかし、ミックには何も見えないまま、ジャック・ブライエンの家の前まで、叫び声と鳴き声が一歩一歩と追いかけてきた。その騒ぎの中で、確かにハンロンの古い水車屋の音が聞こえた。当然ながら、彼は恐怖と脚力にかけて走り切り、一度も後ろを振り返らなかった。
ジャック・ブライエンとはバリーダフ Ballyduff にある靴屋の名で、その店まで追いかけられたことになる。ワイルド・ハントという奴だろうか?往路で姿なき声に追い立てられたミックは、靴屋に居たお隣さんダービー・ヘインズに借りたコーチで帰宅するとき、今度は声なき姿に出くわす。
道端の水たまりに浮かぶ月影を眺めていたところ、まるで大きな雲が空を覆うように、その月が突然消えるのが見えた。と思って、肘をついて振り向いたミックだったが、驚くまい事か!車のすぐそばに、6頭立ての黒く大きな高級車が高々と聳え、それを引く黒馬の長い黒い尾が地面近くまで伸びていて、黒ずくめの服を着たコーチマンが運転席に座っていたのだ。中でもとりわけミックがぎょっとしたのは、コーチマンにも馬にも頭の形が見えない。横をかすめていったその馬車は、スリングトロットをしているかのように馬が足を振り上げており、コーチマンが長い鞭で馬を触り、車輪が渦巻きのようにクルクル回るのが見て取れた。なのに何の音もせず、聞こえるのはダービーの馬の規則正しい足取りと、グリス少々を欠いていなければ無きに等しい、車の軸受けが軋む音だけだった。
この怪異を目撃したミックが帰宅して翌朝。
「ミック、俺を止めるんじゃない」とダンが叫ぶ。
「何で急ぐんだ?」とミックは聞く。
「ああ、ご主人様!ご主人様が危篤だ!もはや裁きの日まで、二度と馬にも乗れまい!」
領主が倒れた。二人は急を知らせに走るが、
ダンは狩猟馬に拍車をかけ、マイケル・ヌーナンは直した靴を脱ぎ捨て、ケイト・フィニガンの家へと野原を駆け抜けた。しかし、医者もカティも役には立たず、次の夜に空の月が見ていたのは、バリーギブリンの(哀しきかな)喪に服している、とある家であった。
と、訃報に至る。作者は更に注記して
「首なし馬車」と呼ばれるものの出現は、非常に一般的な迷信であり、一般的には死の兆候、または何らかの不幸の前兆と考えられている。
という。訳者はダンテ『神曲』を思い出した。地獄を巡るダンテへ、亡者たちは近い将来に来るべき事を教える。特に説明はないが、亡者が未来を知るのは常識であったらしい。してみると、近い将来を予兆したこのデュラハンは、亡者であった事になる。
第3話『収穫祭』では、語り手が帰り道にデュラハンと遭遇する。
「…そして、目がないはずの車長は、車輪を切り回しているそのときに、その長い鞭の一撃で、俺の目をくり抜くところだった。運転技術を見せびらかすように、馬に鞭を入れまくっていた次いでにだ。あの策士は、俺がそこにいることをよく判っていた上で、すべてわざとやったとしか思えない。…」
ウィキペディアに曰く
…しかしクローカー民話集の第3篇『収穫期の晩餐(The Harvest Dinner)』においては、首無し御者は「長い鞭」をふるうに過ぎない。この長鞭を馬たちに対して猛烈に打ちつけ、勢いあまって遭遇者の片目をつぶすところであったが、この人間は首無しの者が故意に目を狙ったものと受け止めた。これについてクローカーは、首無しの者は人間の目撃者の眼を潰しにかかる習性があるという結論に達しており、その理由付けとして、見ることができない首無しの者は、見ることが出来る健常者に怒りをつのらせるのだとしている。
というが、この理由は『収穫祭』ではなく『死の高級車』後書きにあるもので、別の人からの聞き書きである。
デュラハンとその馬車に関する以下の説明は、コーク近郊に住む女性から受けた。
「…コーチマンは極めて長い鞭を持っていて、自分を見ようとする者の目を、どんな距離でも鞭で打ち抜くことができる。見られて激昂するのは、首なしゆえに、言葉を返せないからであると推測される。憐れむべし、首がなくても平気な人間など、デュラハン以外に居ない!…」
続けてウィキペディアは
クローカー民話集の第4篇「死の馬車 The Death Coach」は自作のバラッド詩だが、そこに「背骨」の言及があるものの、鞭ではなく馬車の車輪の軸が人間の背骨でできており、車輪の放射が大腿骨だと、歌われる。
というが、「馬車の車輪の軸」は誤訳。pole は車軸ではなく、馬に牽かせるための構造で轅という。スポークは輻。
The Death Coach の注記にある "Coach a bower." の名は、ドイツ語 Bauer を取り込んだものではないか。そう考える理由は、デュラハン翻訳の切掛になった『魔弾の射手』及びドイツ民話に「焔の馬車」があるのが一つ。
車輪のガラガラいう音と、誘導員の鞭の音が、一斉に鳴り響いた。客車1台と護衛を含む馬6頭が駆け寄ってきたのだ。
「道を塞ぐとは何事だ」と、先頭を走る男は叫んだ、「道を空けろと言っているんだ。」
ヴィルヘルムが顔を上げると、馬の蹄から火の粉が飛び散り、車輪の周りには炎の輪が出来ていた。
同様の話がグリム兄弟『ドイツ伝説集』にも収録され、Coach-a-bower ともデュラハンとも言っていないけれど、死の兆しを告げる焔の馬車が認められる。この焔は煉獄のイメージらしく、マルチン・ルター以来新教徒が多くを占める筈のドイツに於て、カトリック特有の煉獄が広く共有されているのは意外に感じる。
もう一つ、peasant wagon の存在がある。写真は Wikimedia から。
wagon は、人の乗り物ではない荷馬車を指す。peasant は「農奴」または土地を持たない雇われ農夫をいう。小作人とか水呑百姓というのに近い。
史料はほとんど無い。19世紀末の着色写真にある荷車を牽くのが馬でなく牛、人が乗らない筈の荷台に頭を抱えた物体が積載されるなどは、とりあえずスルーして頂きたい。金のなる木など持たない貧民が有り合わせで作ったものだから、ボロく見えるのは仕方ない。牛で牽く大八車という所か。まさかこれが海を渡ってアイルランドへ輸入されたとは思えないが、そういうものがあると伝え聞く機会はあったろうし、自分達で作る事もあったろう。
Coach 自体が高級舶来品であった以上、これに肖って名を借りるくらいは普通にやったのではないか。との夢想に証拠が付けば良いのだが、そう都合よくは行かないのが残念なところだ。
結局、訳者が思うに。首なし騎手と死の高級馬車は、大陸で個別の存在であったのが、アイルランドで統合されたのではないかと考える。