4-15
◇
「いらっしゃいませー! 店内でお召し上がりですかぁ?」
「…………」
ミスッタドーナツは、本日も元気に営業中だった。
ニコニコと眩しい笑顔で対応してくれる店員さん。
その店員さんを前にして、夏弥と美咲はカウンターのメニュー表に目を向けていた。
目線の先にはあらあら素晴らしきドーナツ写真群。
胸焼けしそうな甘い香り。
店内BGMは、どこかで聞いた覚えのある懐かしい洋楽が用いられていて。
はしゃぎ過ぎないシックな配色の内装も、大人っぽくてとても良い。
偶然なのだろうけれど、他のお客さんは誰もいなかった。
そう。美咲に手を引かれて夏弥が訪れたのは、以前にその場所を認知したミスッタドーナツ三條店だった。
貞丸や、芽衣の母親が、このお店が働いているという話も聞いてはいたのだけれど、まず外から遠目で伺った限り貞丸は居なかったし、店員さんの中に「戸島」という苗字の人もいないようだった。
「あ、あの……店内でお召し上がりです?」
「あ。いえ、テイクアウトで」と美咲は即答する。
「かしこまりました! ご注文はお決まりでしたでしょうか?」
「えっと……んー。……どうしよ」
悩ましい悩ましい。
美咲は目をキラキラとさせつつ、それでも取り乱してはいけない気持ちがあるのかテンションを無理やり抑え付けていた。
……が、それでも凶悪なそのドーナツパラダイスには目移りしてしまうようで。
「あの、美咲さん。寄り道ってココ?」
夏弥はそんな目移りしている美咲にボソッと声をかける。
「そうだけど?」
「……なぜミスド?」
「え。だって、夏弥さん暗いじゃん。何があったのか知らないけどさ。……とりあえず、ドーナツ食べて気分アゲとけばよくない? みたいな」
「……」
(ほんとにもうこのドーナツジャンキーったら……。いや、もちろんありがとうなんだけど、割と己の欲求でお店選んでない? 己の)
ありがとう。
夏弥は心のなかで、そのお気遣いにぺこりと頭を下げる。
さっきまで深刻だったのになんだか急にアホらしくなってくるのは、きっと夏弥が普通の男子だからだ。
「あのさ、一言だけいいか? 誰でも彼でもドーナツで気分があがるわけじゃな「チョコチップスペシャルとカラメルフレンチ。あと、ホイップ&生キャラメルの方もください」
「かしこまりました~!」
「どっちも二個ずつで。あ、それとオリジナルドーナツとトリプルナッツ大作戦も。二個ずつでお願いします」
「かしこまりました~!」
「うっ……」
美咲は夏弥の言葉を遮り、ガンガン注文していた。
マシンガンみたいなオーダートーク。
全部二個ずつ注文したのは、おそらく夏弥の分もカウントしているからだろう。
「ねぇ、夏弥さん。あとハニハニチュロスも一つ買っていい?」
「え?」
ハニハニチュロス。
美咲の指差す先に、そんな名前のメニューが記載されている。
甘いハニーシロップとお砂糖でコーティングされた蹄鉄状のチュロスである。
なぜ「ハニハニ」という謎のオノマトペっぽい商品名なのかはわからない。
しかしながらキャッチーなネーミングで、お味も最高ときて。ハチミツが大好きな黄色いクマさんにうってつけのひと品である。
「それ結構大きいやつだろ? 食べれんの?」
「だからさ、分けて食べない? あ、すみません。ハニハニチュロス一つください」
「かしこまりました~!」
店員さんのお返事は、いつでも元気いっぱいだった。その口角に若干の引きつりや歪みが含まれていた気もするけれど、おそらく夏弥の気のせいだろう。
「ていうか、俺が答える前に頼むんだな……ハニハニチュロス」
◇
その後も美咲が何点か追加注文をして、結局二人は計二十個のドーナツを携えることになった。(※二十個は多い!)
テイクアウトでたくさん買うと、手提げ部分の設けられた細長い箱が用意される。
いわゆる、ケーキ箱の細長いタイプである。
外側にはミスドのマークがプリントしてあり、「ミスッタ☆ドーナツ」という文字が陽気な筆記体で描かれていた。おしゃれ。
それから二人はスーパーに立ち寄って、夕飯の買い物を済ませる。
この買い物を予見してなのか、買ったドーナツの箱は美咲が率先して持っていた。
ただ、家にある食材を把握していた夏弥は、この買い物がほんの少しだけ買い足せばいいものだとわかっていた。
だから、このスーパーでの滞在時間は本当に短くて。
「本当にそれだけでいいの?」
買い物を終え、スーパーの自動ドアから外へ出るなり、美咲は夏弥にそう尋ねた。
「うん。家にもう食材あるからね。切らしてたポン酢と、お豆腐だけ買っておけばいい」
「すごいね、夏弥さん。もう完璧にママじゃん」
「ママって……。そうでもないだろ。……あはは」
夏弥の笑みには感情がこもっていなかった。
どこかやりきれなく笑う夏弥の様子は、もちろん美咲にも引っ掛かりを感じさせていて。
「…………」
隣を歩き続ける夏弥を、美咲は横目でじっと見る。
彼がノッてこないことにとても違和感があった。
いつもなら、「あら美咲ぃ? そんな冗談言う子は晩ごはん抜きかしら~?」くらいのウザい冗談はかましてきそうなのに。
よしそれならと、美咲は手にしていたミスドの箱をその場で開け、ハニハニチュロスをつかみ取る。
「夏弥さん、ちょっとこっち向いて」
「え?」
美咲に言われ、夏弥は横にいた彼女の方を向く。
次の瞬間――。
「はいっ」
「ングッ――⁉」
美咲は夏弥の口に、思い切りハニハニチュロスを押し付けたのだった。
そのチュロスは、美咲の狙い通り夏弥の半開きだった口を塞ぐ。
「よしっ」
美咲は夏弥の口が塞がったことに満足したようだった。
一体何の「よしっ」かは不明である。が、美咲はそれから目を閉じて、うんうんと頷くのだった。
彼女の中で何かのミッションが完了したらしい。
「――っかは。何すんだよ? 急にハニハニしてきて……」
「…………」
「…………どうしたんだ?」
夏弥は口に入れられていたチュロスを手に持ち、一度口から離す。
ハニハニチュロスのザラリとした舌触りや食感が、少しだけ口の中に残っている。
唇の端っこについたお砂糖を親指の腹でぬぐっていると、美咲が不意にこんなことを言いはじめる。
「ねぇ。元気出してよ……」
「……!」
肩を並べて歩く二人のあいだに、ちょっぴり静かな空気が流れ出す。
さっきまでの空気とはまた違う温度の空気だった。
薄赤く染まった帰り道は、さらにそこから暗くなっていく途中で。
二人の影は、もうそれが影かわからないくらい曖昧なものになっていた。
「チュロス……おいしい?」
「あ、ああ。そうだね」
それから、美咲はぴたっと立ち止まる。
数歩前に出てしまった夏弥は、振り返って彼女の顔を見た。
「……?」
美咲は伏し目がちだった目線をフッとあげて、訴えかけるようにこう言った。
「夏弥さんに元気がないと…………なんか、この辺が痛いんだけど……」
「……っ!」
この辺、と言いながら、美咲はそっと胸の辺りに手を当てていた。
言葉の強さのせいか、その冷静そうな瞳の奥に、とても強い感情がこもっていることがわかる。
――好きな料理のこと、楽しそうに話してた朝の夏弥さんが好き。
――いつものふざけたりしてる夏弥さんのことが好き。
――でも、今みたいに元気のない夏弥さんを見てると、あたしは切ない。
そんなセリフを言いそうな表情だった。
唇を食い締めたままの美咲に、夏弥はゆっくりと応える。
「……そう言われてもさ」
「いい。言えないことは無理に言わなくてもいいから。……言えることだけ、言ってよ……」
そこからまた間をあけて、美咲は続けて言う。
「……こういうのが、彼女の役目じゃないの?」
「……っ」
夏弥は美咲からはっきりと「彼女」という言葉を聞かされて、顔が熱くなるのを感じる。
確かに美咲の言う通りかもしれない、と夏弥は思った。
よくドラマや映画なんかで、優しい嘘や優しい隠し事、なんてものがあるけれど、本当にそれは、「優しさ」なのだろうか。
美咲の言葉のおかげで、夏弥は気持ちに踏ん切りがついた気がした。
「……。そうだよな。わかった。……じゃあ、家に帰ったら言うよ」
「……うん」
ちゃんと伝えるべき相手に伝える必要があると夏弥は思った。
自分はそんなに、強くなんてない。
美咲と付き合っているから。だから彼女に罪悪感を感じてほしくないだとか。これは自分と洋平の問題だからとか。
そういう理由をこじつけて、伝えないことが正しいことのように思いこんで。
こんな、確かめもしない「誰かのため」なんて考え方は、所詮独りよがりな考え方だ。
美咲も秋乃も、まど子にしても。
周りにいる人間は、必ずしも無難な答えを望んでいるわけじゃない。
夏弥は自分の考えを改め、手にしていたチュロスを口へと運んだ。
くどくない絶妙な甘さが、舌の上でじわりと広がる。
「……甘っ。ハニハニチュロスうまいな」
「……ふふ。ちゃんと半分残しておいてよ? あたしも食べるんだし」
「……。そいつはどうかな」
「そういえば英和辞典、今カバンに入ってるけど出していい?」
「あ、ごめんなさい」
調子を取り戻して、二人は家路をまた歩いていった。
東の空。あの暗くなり出した空に浮かぶ星を、夏弥はチラッと見る。
すべて伝えた結果、美咲がどんな反応をするのかなんて、考えても仕方のないことだ。
そう思って、なんとなく足に力を入れる。
洋平に「言わないでください」と口止めされていたことを踏まえてもなお、夏弥は美咲に言うべきだと判断したのだった。




