4-10
夏弥は脇に置いてあった机にお弁当を乗せる。
やっぱり話が終わったら食べよう。と、そう思っていた。
それから洋平のほうに向きなおって、話を始める。
「……あのさ、美咲から聞いたんだけど」
「……」
黙って夏弥の言葉を待つ洋平。
その目は夏弥をじっと見つめている。
「洋平お前、美咲に彼女とのこと指摘されて、ひどい言い返し方したんだろ?」
「……。ひどい言い返し方って?」
洋平の声は、いつになく沈んでいた。
夏弥があまり聞いたことのないトーンだ。
そこに含まれる冷たさに、夏弥はいつかの美咲を思い出してしまうほどだった。
「……『後からここに来たのはお前だろ』とかなんとか」
「あー……。そうだな。……そう、言ったね。確か」
洋平はすっかり箸を止め、窓の外に広がる秋空へちょっと視線を逃がしているようだった。
「なんでだよ? そんな言い方したら、美咲だって嫌な気持ちになるだろ?」
「いや。だってさ……実際、これは事実だろ? あの時アイツにも言ったと思うけど、なんで俺がアイツのために我慢しなきゃいけねぇんだよ? おかしいだろ、そんなの」
夏弥は、洋平の主張を聞いて「自分勝手だな」と早々に結論付けようとは思わなかった。
それは、夏弥にだって少しくらい覚えのある感情だったからだ。
それにまだ「もしかしたら洋平には、そう言わざるを得ない理由があったのかもしれない」という可能性が消えていなかったからでもあって。
「……気持ちはわかるけど、そんな自分の感情ばっかり押し通すなんて――
「なんだよ」
夏弥が言い終える前に、洋平の言葉が割り込んでくる。
「え?」
洋平はぎゅっと眉根に力を入れていて、その表情はいつになく苦しそうだった。
「なんだよそれ」
と改めるように洋平は言う。
言ったあと、洋平が食べかけのお弁当を机の上にそっと置くのを見て、夏弥はただならぬ空気を感じる。
「気持ちはわかるって……夏弥に何がわかるっていうんだよ!」
「きゅ、急にどうしたんだ。……洋平?」
洋平は声を震わせて、ずいぶん感情的になっていた。
ずっと吐き出したい何かがあったのかもしれない。
一方の夏弥は、まさか洋平がそれほど激情しだすなんて思ってもいなくて。
「夏弥……。お前今、気持ちはわかるって言ったな? だったら、俺の言ってることだって、わかるんじゃないのか……?」
「いや、何言ってんだ? 一人暮らしじゃなくなった時点で、一緒に暮らしてる相手のことはまず考慮しなきゃいけないだろ」
「考慮って……。…………じゃあ一体、誰が俺自身の気持ちを汲んでくれるっていうんだ? そんなん、誰かがやってくれる保証なんてないだろうが!
……俺は気付いたんだよ。こういう気持ちは、どれだけ自分勝手でも、自分で汲み取ってくしかないって。俺は今までずっと誰かの気持ちを汲んできたつもりだ。でも結局、みんな自分のことが可愛いんだ。気遣われたことに気付きもしないでな。ずーーーっと勘違いばっかり。俺の気持ちなんて、汲んでくれるやつは一人もいないんだよ!」
「それで……美咲相手なら、ワガママ言ってもいいって話になるのかよ? いい迷惑だろそんなの。美咲は…………お前の不満のはけ口じゃねぇよ」
そう言いながら、夏弥のなかでふつふつと怒りがこみ上げてくる。
洋平と美咲の仲が悪くなったきっかけ。
そのきっかけに、洋平も心当たりがあるはずだ。
あるはずなのに、気付かないふりをしてきたのか。
ずっと、自分には言わないままやり過ごそうとしてきたのか。
洋平の檄にあてられた夏弥は、思わず自分がこれまでに感じてきたことも口走っていく。
「何が。何が俺達四人の不滅神話だ! ふざけんなよ! お前がその不仲になる原因作ってんじゃねぇか! その原因には目を瞑って、なんで美咲と不仲になったかわからないだって? よくもぬけぬけとそんなこと言えたよな⁉」
「はぁ⁉ ふざけてなんかねぇよ‼ 俺が俺の気持ちを優先したらおかしいってのか⁉」
「一緒に暮らしてる相手の気持ちくらい考えてやれって言ってんだ! それが誰かと一緒に暮らす時の常識だろ。俺は当たり前のこと言ってるだけだ!」
「当たり前じゃねぇよ! 夏弥が勝手に常識だと思ってる考え方を、俺に押し付けんなよ‼」
いつの間にか、夏弥と洋平は激しく言い合っていた。
化学準備室いっぱいに声を張り上げて、外の廊下にまでその声が響き渡る。
「普段女子の気持ちには理解があるくせに、なんで美咲の気持ちがわからねぇんだよ‼」
「アイツの気持ち? はぁ⁉ そんなこと言ってたら俺の気持ちはいつ自由になるんだよ⁉ 俺だけが不自由なまま生き続けろって言いたいのか⁉」
「不自由……?」
「ああ。そうだ! 不自由だろ!」
「どこが不自由だっていうんだ? お前みたいに、友達も恋人も手に入れ続けて、皆から羨ましがられる青春送ってるようなやつの、どこが不自由だっていうんだよ‼」
気付けば、夏弥は洋平のシャツにガッとつかみかかっていた。
本当に反射的だった。
「……なんだよ? 俺のこと殴る気か夏弥? ははっ。美咲のことマジで好きになったってのか? 俺の妹のこと、お前までそんな風に見てたのかよ。冗談でもやめろよ、気持ち悪い」
つかまれていた洋平も、夏弥の襟元をグイッと引っつかむ。
「はぁ? それとこれと関係ないだろ? 俺は、お前がわざと美咲の気持ちを考えてないことに怒ってるんだが? ていうか、お前こそ、俺につかみ返してきて、どういうつもりなんだよ?」
「どういうつもりって、そりゃ決まってるだろ? 理解してくれない残念な幼馴染みには――こうするしかないって思ったからだ!」
次の瞬間、夏弥の顔面に洋平の握りこぶしが飛び込んでくる。
鈍い音と共に、その右手が夏弥の頬を抉る。
「いっ――――てぇな。洋平お前……何すんだよ。残念なのはお前のほうだろうが!」
殴られたことに動揺しつつ、夏弥もカッとなってしまう。
勢いのまま、洋平の顔に全力で握りこぶしを振り抜いていて。
「つっ……お、お前だって俺のこと殴ったりして……マジでわかってくれねぇんだな。俺と同じ立場のくせに。やっぱりモテないってだけで相当価値観違うってことか。例え幼馴染でも、血が繋がってない女子と一緒に暮らすのはもうそれだけで嬉しいってか? あははは! 拗らせすぎだろ!」
「まだお前そんなこと言って――
そんなやり取りを繰り広げていた、まさにその時。
「あ、あのー、失礼しま……え、なつ兄? それに洋平も……こんなとこで何やってんの⁉」
突然、化学準備室の扉が開けられ、秋乃が入ってきたのだった。
しかし、二人は秋乃がやってきたことに一切目もくれず。
「お前が悪いんだろ! 謝れよ! 美咲に謝れ‼ アイツがどんな気持ちになったのか、わかっててやってるなんて最低だろ‼」
「アイツのことまで考えてられねぇわ! なんで兄妹でそんな気ぃ使う必要あるんだよ⁉ 大体、他人のお前が俺達兄妹のことに口出ししてくんなよ‼」
取っ組み合いの喧嘩は続いてしまっていた。
夏弥も洋平も、一度口火を切ったことで、二発三発と遠慮なく次の手が出ていってしまう。
「ちょ、やめてよ二人とも‼ 手ぇ離してよ! なんで喧嘩なんかしてんの⁉ お願いだからやめてよ‼」
つかみ合う二人の間に飛び込んでいった秋乃だったが、目の前の男子二人は一向に手を離さない。そればかりか――
「は、理解できないわマジで! ああ、そういえば夏弥の《《お父さん》》も理解できない最低な人だったもんな? 近所でも腫れ物扱いされて、その挙句どっかに消えちゃったしな! 理解できない人間性って、ひょっとして遺伝するのか?」
「っ……洋平、……お前‼」
「なつ兄! やめてってば‼ 殴っちゃダメぇぇぇ‼」
次の瞬間、夏弥の拳が思い切り振り抜かれる。
この殴り合いのなかで、一番力が込められた拳だった。
だが、その殴り込んだ先にあったのは洋平の顔じゃなかった。
二人のあいだに割り込んできた秋乃の、その顔に入ってしまっていた。
「っ⁉」
「秋乃⁉ なんでお前――
痛烈。
夏弥が力いっぱい込めて振り抜いたその拳のせいで、秋乃は勢いよく準備室の床に倒れ込む。
黒縁メガネも、床を滑るように飛ばされていき。
同時に、血の気の引くような重たい衝撃音が室内に響いたのだった。
「あ、秋乃! しっかりしろ!」
「夏弥……おい秋乃のやつ、息してなくね……?」
「秋乃‼ 聞こえてないのか⁉ せ、先生呼んできてくれ洋平! 早く‼」
夏弥は慌てて秋乃に駆け寄り声をかけたが、無反応だった。
彼女は床に頭をぶつけ、うつ伏せのまま微動だにしなかった。




