4-06
◇ ◇ ◇
「雛子おばさん、久しぶりに見たけど元気そうだったね」
「……」
玄関からリビングに戻った夏弥は、美咲に臆面もなく話し掛けてみる。
様子をうかがっていることが美咲に気取られないよう、夏弥なりに配慮した話し方だった。
(まぁ、さっきの会話からして美咲はご機嫌ナナメだよな。本当なら二人で済ませる予定だった晩ごはんに、とんだイレギュラーが紛れ込んできたんだし)
美咲がツンツンしてしまう理由は、夏弥も十分わかっているつもりだった。
「美咲……怒ってる?」
「……。あたしは別に、怒ってなんか……」
「さっきの口調だと……怒ってないようには……思えないけど」
夏弥はそう言いながら、テーブル脇の茶色いクッションに腰を下ろす。
ソファに座っていた美咲の、斜め前に位置する場所だ。
「……」
「……」
夏弥と美咲。どちらとも、しゃべり出さなかった。
目を合わせられないことや、沈黙が流れている点でいえば、雛子がやってくる前の甘酸っぱかったあのシチュエーションに似ている。
似ているけれど、中身はまるで別物だった。
壁に掛けられていたいつもの時計は、午後七時過ぎを示している。
この固まり切った空気をあざ笑うように、そのまま秒針は進んでいく。
(どうしたらいいんだろう……。恋人が……いや、美咲が嫉妬してる時って、嫉妬されてる側の俺はどうするのが正解……?)
夏弥にはその答えがわからなかった。
いくら考え抜いてみても、答えは見つかりそうにない。
雲をつかむような、なんて比喩は、きっとこんな時に使うものなんだろうなと感じる。
「ねぇ、夏弥さん」
「うん?」
そんな時、美咲が、それまでとは少し違った雰囲気で話し始める。
「こういう時……誰かと一緒に過ごすのって、良い事ばかりじゃないんだなって痛感するよね……」
「……そう、だな」
ツンツンしていた態度から一転。
美咲は少し落ち着いた様子を取り戻していた。
その妙に切ない口調のせいで、夏弥からもこんな言葉が漏れてしまう。
「……ごめん。俺、恋愛経験もマジでないから。だから、美咲が嫉妬……とかしてるってわかっても、どうしたらいいかとか、そんなんも全然わからなくて」
「……」
気が付けば、美咲は夏弥の目をじっと見ていた。
自分のせいで夏弥が顔を曇らせることなんて、望んでいない。
でも、どうしても気持ちが抑えられなくて。
もっと自分の方を、向いていてほしくて。
そんな想いが募るばかりだった。
対する夏弥は、美咲に見つめられたままセリフを続ける。
「こんなこと、美咲に訊くのもおかしいけど……こ、こういう時って、どうされたいもの……?」
「……」
夏弥の飾らない言葉を耳にした美咲は、ちょっとだけ間を置いて、
「……ぷふっ」
意外にも、軽く噴き出してしまったのだった。
「え?」
「あ、ごめん。……なんか夏弥さんって……たまに色々ぶっちゃけ過ぎてて、ウケる時あるから」
「わ、悪かったな。でも……ほんとにわからないんだ。我ながら冴えないやつだなって反省してます……」
(俺だって、美咲と同じ恋愛初心者。無理なものは無理だし、わからないものはわからないんです……)
美咲は、はぁ、と浅いため息を挟む。
それは落胆というより、ちょっと余裕のある「やれやれ」といったご様子のため息だった。
それからまた、美咲はいつもの落ち着いたトーンで話し始めていく。
「うん……でも、そうだよね。あたしだって、こういう時の正解って、なんなんだろうって思うし。……ていうか、人によって正解が違うんじゃない?って思うから」
「人によって違うなら、尚更難しいな……」
「……。でも、あたしがその……し、嫉妬して、ちょっと嫌な気持ちになってたのは事実だから」
「……」
「どうされたいって質問だけど。……言ったら叶えてくれるの?」
「え……ああ。できれば叶えるつもりだけど」
「ふぅん……」
美咲はちょっと宙を仰ぎ見てから、これ、という願い事を決めたらしかった。
決めたあと、なぜか指をもじもじさせながらしゃべり始める。
「じゃあ、夏弥さん。まず…………あたしの隣に座ってよ」
美咲はそう言ってから、自分の横に優しく手を置く。
「まっ、またそこのソファか」
「ソファに座って、さ。……あたしの目を見て……好きだよって……言ってみて……よ」
「――っ!」
頬を赤くしながら注文する美咲の姿は、なぜかちょっといじらしくもあった。
それが、ただの悪ふざけで言ってるわけじゃないことは、ひしひしと伝わってくる。
おかげで夏弥に課せられたお役目は、難易度がグンっと上がっていた。
身体まで重ねておきながら、実際のところ夏弥は「好き」というシンプルな告白をしたことがなかった。
だからこれも、初体験といえば初体験なのかもしれない。
「そんなことを俺に…………言えと……」
思わず手の甲を口にあて、やや身を引いてしまう。
恥ずかしくて仕方なかった夏弥のその反応に、美咲は一瞬憤慨する。
「だ、だってどうされたいかって質問だったじゃん! ……なんでそういう反応……? そんなに嫌なら無理にしなくていいけど。……」
美咲は夏弥から目をそらし、モスグリーンカラーのソファに指を立てている。
そのソファのガワを人差し指でグリグリといじくっているさまは、いわゆるステレオタイプないじけ方。
諦めと寂しさの入り混じったその姿を前にして、夏弥の胸はきゅうっと締め付けられる。
「……」
彼は複雑な気持ちだった。
きゅんきゅんとズキズキが、ちょうど半分こずつ同居しているみたいな感情。
きっとこの気持ちにぴったりな名前なんてないのかもしれない。
けれど、この気持ちには夏弥を突き動かすだけの力が備わっていたらしくて。
「……じゃあ、隣に……座らせてもらいます……」
「……!」
夏弥は、ゆっくりとクッションの上から立ち上がって、美咲の隣に座る。
「……」
夏弥が座ったことで、ソファはそれまでよりもう少しだけ沈み込む。
(近っ。……予想できてたけどやっぱり近いな。ていうか、恥ずかしいなこれ……)
ソファにちょこんと並ぶ二人の姿は、そのまま写真に収めたいくらいしっくりと来ていた。
美咲との距離が、とにかく近い。
肩から腰にかけてのラインが密着してるせいで、美咲の呼吸ひとつだって感じ取ることができる。
「……じゃあ夏弥さん……言ってくれるんだ。アレ」
「……あ、ああ」
夏弥はすぐ隣に座る美咲の横顔を見て、あまりの近さに改めて息を呑む。
心臓が速まって仕方ない。
(この緊張感はなんなんだ。美咲の顔を間近で見るくらい、今更なんてことないはずなのに)
頭ではわかっていても、心臓はうるさく鳴り続けていた。
つい先日、もっともっと近くで美咲のその綺麗な顔を見ていたはずなのに。
(……ていうか、やっぱり美咲の横顔って整ってるよな……。いや真正面から見たって整ってんだけど。肌がすべすべしてて……こういう芸術品かよってぐらい、人の視線をさらっていっちゃうような魅力があって……)
「ずっと……見ていたい顔してるよな……あっ」
「っ!」
思わず、夏弥は見惚れるままにそんなワードを口走ってしまう。
うっかり口走ったにしては、あまりにも大胆な発言だった。
「ずっと見てたいって……あたしのこと、そんなに見てたいの? ……~っ!」
夏弥のその褒め言葉を拾って、今度はあたしが攻めてみよう――と、そう思うも、美咲は自分の攻めた発言に対し、言ったそばから照れくささがこみ上げてくる。
可愛らしく頬まで赤くして、盛大に自爆していた。
「そ、そうだよ! 今更だけど、美咲は綺麗なんだよ……。見てたいって気持ちが湧いてきたって変じゃないだろ。俺は美咲のこと……その……好きなんだから」
既成事実はあったけれど、それでも夏弥はついに「好き」の二文字を美咲に伝えた。
シンプルでストレートな告白は、何よりも美咲の心を動かしていく。
「……」
その告白に対して、美咲はちょっぴり無言のままだった。
膝のうえで丸めていた手に、ぎゅっと力が入る。
そのまま黙り込むのかと思えば、次の瞬間には美咲も口を開いていて。
「もう一度」
「え?」
「もう一度。……今度はあたしに、もっと……顔近付けて」
「――っ!」
美咲は落ち着いたトーンで、とんでもないことをおっしゃる。
「わかっ……た」
「……うん」
お互い、あの夜と同じか、それ以上に鼓動が高鳴っていた。
一度越えてしまった一線の思い出より、現在進行形で身体を寄せ合ったり、見つめ合うことのほうが、体感では刺激が強いのかもしれない。
「……す、好き」
「……うん。……でも、今のはアウト」
「え? ……アウト?」
アウトとはどういうことなんでしょう。
夏弥は一瞬、美咲の言っていることがわからなかった。
その謎を、美咲は次の言葉で解消するように答える。
「あたしの目……ちゃんと見てなかったし」
「……あ。その意味でね」
「うん。……だから、はい。もう一回」
「くっ……」
(待って。待って? 俺、こんなに追い詰められるような大罪犯したんだっけ……? ちょっと雛子おばさんとキッチンに立っただけなんだけど……)
事情はどうであれ、とりあえず今の主導権は美咲にある。
悲しいかな夏弥のこの疑問は、闇へと葬り去られてしまう運命だった。
「……ていうかさ、これって、美咲も俺のことちゃんと見てないとダメじゃないか?」
「そう……?」
「うん。なんていうか、そっちだけチラ見でいいなんて、ズルくない?」
「確かに……ズルいかも」
二人は、肩がぶつかるレベルで隣に座っている。
こんな状態で、顔を向き合わせたらどうなるのか。
今はまだ夏弥が一方的に顔を向けているけれど、向き合わせたら――――その距離はキスシーンのために用意されている距離だ。
「……」
「……っ」
美咲が、静かに顔を向ける。
その澄んだ瞳と、しっかり目が合う。
見つめ合った状態だと、尚更夏弥は実感する。
美咲の顔かたちの美しさ。
それに、こんなに綺麗な女の子が、今は自分の彼女だということ。
他の誰でもなく、自分と両想いなんだということ。
思えば思うほど、口からあの二文字がこぼれそうになる。
美咲の指示なんてなくても、自然と言いたくなってしまう。
「……好き、だよ」
「うん……。あっ、あたしもだけど……。それじゃあ…………その次は?」
「その次……?」
またしても難問をふっかけられる夏弥だった。
一瞬ポカンとしたものの、一度は経験があるからか、頭の引き出しに入っていたその答えを行動に移していく。
「……」
美咲の華奢で女の子らしいその肩に腕を回して、さらに顔を近付ける。
それからボソッと、夏弥は確認してみることにした。
「これで、合ってる?」
「……あ、あってる」
おしゃべりはここまで。
それは二人ともが思っていたことで。
次の瞬間には、お互い素直に目を閉じていた。
「っ……は」
「ん……」
唇が触れ合って、二人の吐息が溶けあうように混ざりだす。
柔らかくて、優しい感触。
美咲は――――キスを好きだと言ってくれた。
そのことを思い出すと、夏弥はさらに身体が熱くなってしまう。
「……」
少し触れたあと、夏弥はそっと顔を離そうとした。
けれど、それは美咲の可愛いわがままによって止められる。
「まだやめないで」
「……っ」
「んっ」
続いていく。
ソファの上でキスを交わしていると、さっきまでの気まずさが嘘みたいに思えてくる。
周りの物音ひとつ聞こえなかった。
いや、本当なら聞こえていたはずなのだけれど。
すべて美咲のセクシャルな息遣いに飲み込まれてしまっていて、些細な物音なんて耳に入ってこなかったのだ。
「……」
「な……っぁ、美咲。このまま続けてたらまずいって」
「……うん……でも、続けたい……。夏弥さんも……キス、好きって言ったじゃん」
「は、歯止めが、効かなくなっちゃうだろ……。……晩ごはんだってまだ途中なのに」
夏弥は横目で、テーブルの上の料理を見た。
「あたしより……晩ごはん?」
「~っ!」
ここで小首をかしげるのは卑怯だ。
と、そう夏弥は心のなかで叫んでいた。
美咲は雛子と違い、素でこういった仕草を見せる瞬間がある。
無自覚で行なうあざとい仕草ほど、罪なものはない。
「……晩ごはんより……美咲、です」と、はにかみながら夏弥は言う。
「~~!」
自分が尋ねたことを答えてもらっただけなのに、美咲は恥ずかしくてたまらなかった。
晩ごはんよりあたしとキスしてたいんだ……と、心のなかでセリフをなぞってしまって。まあ恥ずかしいこと恥ずかしいこと。
――それから二人は、何度もキスを交わしていった。
何度交わしても次を求めてしまうのは、二人が「おとしごろ」だからだ。
そう。おとしごろ、である。
思春期の二人には、この言葉がもっともふさわしい。
日本語とはよく出来ているもので、「お年頃」の彼らに「落とし頃」という字を当てて読んでみても、同じ色恋を指し示せるのでおもしろい。
無論、夏弥も美咲も、すでに想い人を落とし終えているのだけれど。




