3-16
◇ ◇ ◇
キッチンスペースはいつも何かと騒々しい。
デフォで冷蔵庫の「ブブブ……」といった稼働音が鳴っているし、洗い物をすればカチャカチャと高い音が耳につく。
朝食後、夏弥はそんなやや騒々しい中で美咲に話し掛けられていた。
「――――さん。――ねぇ、夏弥さんって!」
「ん?」
夏弥がその声のする方へ顔を向ける。
キッチンスペースとリビングのちょうど境目。その間仕切りの所に立っていた美咲は、自分のスマホを手に持っていた。
「あのさ、もしかしてあたしがトイレに行ってるあいだ、このスマホ見た?」
「いや。見てないけど?」
夏弥は顔色一つ変えず、しっかりと嘘をつく。
それはあまりにも自然な嘘だった。
美咲を欺くには十分なくらい自然である。
彼は、美咲がトイレから戻るまでのあいだ、ちゃんと嘘をつくためのイメージトレーニングをしていたのだ。ここだけ切り取ってみれば、夏弥は何面相なんて目じゃないくらいの演技力だったかもしれない。ミラクルである。
見てしまったことを告げれば、自分達の関係は険悪になる。
夏弥のこの予測は、ほとんど当たっていたに違いなくて。
「ふぅーん……」
「? ……どうしたんだよ?」
「いや。……ところで、今日はあたし特に予定ないんだけど、夏弥さんもないの?」
「ああ。まぁ強いて言えば、宿題しようかなって思ってる」
「え、嘘……」
美咲は、それが大変ショッキングな出来事であるかのように唖然としてみせた。
「どういうリアクションだよ、どういう。俺も宿題くらいやるんですけど。フツーに」
「まだ八月入ったばっかだよ? 早くない?」
「早いっていうか……そもそも一年と二年じゃ宿題の量も違うだろ。一年の時に比べて、二年のほうが課題盛りだくさんなんだぞ。覚悟しておけ」
「そういえば向こうの家に行ったのも、勉強道具取りに行ってたからなんだっけ?」
「そうそう」
そこまで会話を終えると、美咲は夏弥の背中をしばらく見つめた。
洗い物を続ける彼の背中をまだ少しだけ見ていたいような、けどそれは気恥しいような、そんな気持ちになる。
「……じゃ、あたしも宿題しようかな……」
ぽつりと一言、そうこぼして、彼女は自分の部屋へ戻っていったのだった。
◇ ◇ ◇
『最近、なんか秋乃が冷たいんだけど……夏弥、何か聞いてない?』
午前十時。
リビングで粛々と夏休みの宿題に取りかかっていた夏弥のスマホに、そんなラインメッセージが送られてきた。
八月の第一週。
この週、三條市では例年二日間にかけて夏祭りが行なわれる。
夏弥と違い、女の子と日々遊びまくっている稀代のイケメン君・洋平は、この頃になると忙しさに拍車がかかって仕方ないはずだった。
「夏祭りは誰と一緒に出掛けようか迷う☆」などというおよそ爆発すべき悩みに喘ぐ姿はもはや風物詩で、付き合いの長い夏弥はいつも適当にその言葉をあしらったりしていた。
それがふむふむ、どうやら今年は何か違う困りごとを抱えているようだった。
『いや、別に秋乃からは何も聞いてないけど? ていうか洋平君は、この時期大変大変忙しいもんだと存じ上げてましたが。……うちの干物妹あきのちゃんなんかにかまけてる暇あるんですか?』
『そう邪険にするなって……。確かに毎年忙しいけど、今年はどうかな』
どうかな、なんて言葉を使う洋平。
そのラインを見て、夏弥は少しだけ不可解な気持ちになった。
(どうした洋平……? いつもなら『ああ。忙しすぎて俺がもう四人くらいほしいよw』とかなんとか、とりあえずやかましいラインで返してくるのに。キレがないな……?)
洋平の微妙な変化は、自分が一番よくわかってあげられる。
女子のことはからっきしでも、親友の変化には目ざとく反応できる。
それは夏弥自身、自負している部分でもあった。
『秋乃の件だけど、ゲームとか漫画とか、そういう作業途中じゃなかった? それなら俺が話し掛けたって冷たいし。たぶん誰が相手でもそこそこ冷たくなると思うんだけど』
『いやー、そういうのとはちょっと違うっていうか……。ご飯食べてる時に冷たいんだぜ? 俺、何か怒らせるようなことしたかな……』
夏弥の言う「秋乃が冷たいシチュエーション」については、洋平も十分理解しているつもりだった。
洋平と秋乃。この二人も、夏弥と美咲のように小学校時代からの幼馴染みだ。
加えて、洋平と秋乃もすでに数か月、一つ屋根の下で暮らしてきた。
秋乃が、一つのものに熱中すると周りを煩わしく感じる性格であることは、ある程度洋平も心得ているわけで。
『うーん……。悪いけどわからないな。俺が二人の暮らしぶりをモニタリングしてるわけじゃないし』
『それもそうだよな~……。悪い! 今の話は聞かなかったことにしてくれ』
『いいけど。ていうか、洋平が秋乃のことで悩むとか珍しいなw』
『そうか? 割と悩み事自体はポロポロ出てきてんだよw まぁ細かいことだったりするから、いちいち誰かに相談はしないってだけで』
『へぇ』
夏弥がそう返して数分後、洋平から改めてこんなラインが送られてくる。
『俺達四人の不滅神話もやっぱり終わりなのかもなw』
不滅神話。
洋平がふざけて打ってきたその単語を見て、夏弥はふと、最近見た夢のことを思い出した。
いや正確には、その夢というよりも、夢に登場してきた小さい頃の記憶である。
――俺達四人の仲は永久に不滅だあああああ!
夢のなかでそんなアホみたいな言葉を叫び回っていたのは、小さい頃の洋平だった。
夏。河原のそばで、四人で走り回ったりなんかして。
あの頃は全員アホだった。
そういう古い記憶も、夢のなかで見ればどこかみずみずしさを取り戻していた。
さわやかだった。
幼かった洋平が叫んだあと、夏弥は自分も一緒になって「何か」を叫んでいたような気がする。
しかし、それは夢の曖昧さと脆さに揺れてかき消えてしまっていた。
(あの頃……何叫んだんだっけなぁ。なんか俺の母親が絡んだ言葉だったような……。いやダメだな。……覚えてない)
さて、その懐かしい記憶はともかくとして。
洋平のラインに対し、夏弥は次のようなことを尋ねてみることにした。
『秋乃と話してて、俺の名前とか出たりした?』
ここ最近、秋乃から洋平について何か言われた覚えはない。
けれど、つい先日「なつ兄、エッ〇したことある?」なんて、秋乃らしくないセクシャルな発言が飛び出たこと。それだけはやたら強く覚えている。お年頃なので。
(さすがに、そんなこと秋乃から訊かれたなんて洋平に言えないし……。このくらい間接的な探り方のほうがいいよな……?)
その通り。夏弥のこの探り方は適切だった。
ファインプレーもファインプレー。
ここで下手に、秋乃の言葉をそのまま洋平に伝えてしまうと、洋平は察してしまうだろう。
「え、もしかして、アレ見られてた……?」ぐらいの洞察は、洋平なら数秒で行なってしまいそうである。
『夏弥の名前……。あ、そういえば出たな』
『マジ? それどんな話の時だった?』
『あれは確か、秋乃に誘われた時だな』
(誘われた? ……え。誘われた⁉ 待って。もしかして俺の妹、いよいよ洋平のアオハル☆ストーリーに参加を申し込もうとしたのか⁉ ……そ、そうか。それでなんとな~く年上男子の生態系に探りを入れる意味で、俺にあんな質問を……)
秋乃が抱える裏事情など知るわけもない夏弥は、一人でそんな妄想&勘違いを起こしていた。なんだかとっても憐れである。
(うーん……。ていうかこの話題、既読スルーしたいな……)
既読スルー。
そして気を紛らわす意味でも、目の前の宿題を進めたい。
夏弥はそんな衝動に駆られるも、一方でこの話の続きも気になっていた。
気になってたまらなかった。
そんな相反する思いで、夏弥はラインを続行させる。
『……誘われたって、何を?』
『ああ。――――一緒にアニメ観ようよって誘われたんだ』
とんだ杞憂で夏弥はコケそうになった。
夏弥の思うようなことは一切なくて、秋乃はただただ、お兄ちゃんズのどちらかとアニメを観てのほほんと楽しみたいだけだった。
平和オブ平和。
ある意味、一番ピュアなのは秋乃かもしれない。
『なんだ。アニメか』
『なんだとはナニヨ!』
『いや。問題ない』
(……そうかそうか。それなら……まぁ、うん。ちょっと安心した。いや別にアイツが誰と何をしようが関係ないんだけど。俺シスコンじゃないし)
――シスコンじゃない。
これはそこそこ眉唾物である。
秋乃が誰と何をするか。確かに普段のお遊び程度なら気にならないけれど、ことセクシャルな方面においては夏弥も色々と考えてしまう。
あの踏み込んだ質問をしてきた時も、実はこっそり秋乃を心配していたのだ。
――誰かに乱暴なことをされたんじゃないか。
――実の兄にすら言い出しづらい、大変な事実を犯しているんじゃないか。
――俺がしてやれることならなんでもしてやるから、ひとまず正直に話せ。
そんな想いはあっても、実の兄妹間じゃなかなか口には出せないもので。
『まぁそれで、秋乃と一緒にアニメ観たんだろ?』と夏弥。
『いや。それがさー、ちょうどその時他の予定が入ってて……俺、断ったんだ』
『あ、女の子か』
『ああ。……そしたら秋乃、「なつ兄はなんだかんだで一緒にアニメ観てくれるよ? たぶん今も、誘ったら嫌な顔なんてしないと思う」なんて言ってきてさ』
(……!)
洋平伝いではあるけれど、夏弥はその秋乃のセリフになぜかじーんときてしまっていた。
『まぁ、俺は洋平と違ってスケジュールスッカスカもいいところだからな』
そんな風に腐る素振りをメッセージに乗せてみる。
しかしそれでも、妹の秋乃がそんな風に自分を見てくれていたことが意外過ぎて、兄としてはなんだかくすぐったい気持ちになっていた。
『そんで、「夏弥は年下の面倒見がすごく良いからなー」って言っておいたわ』
『面倒見、良いか……? 俺自身そんな風に感じてないんだが』
『いや良いだろ。無自覚かよw 逆に俺は、やっぱり自分を主張しちゃうんだよなぁ』
『洋平はそうかもな。妹より自分! てタイプだよな。それはわかる気がする』
『ああ。それが、単にわがままだって言われたらそれまでなんだけど……』
『別に、洋平がわがままとは思わんけども』
夏弥が送ったそのラインから数十分のあいだ、ちょっとだけ空白の時間が訪れる。
もしかしたら、スマホの向こうで洋平なりに何か考えているのかもしれなかった。
いつ返されるかわからなかったため、夏弥はスマホをスリープ状態にし、目の前の宿題に再び取りかかる。
いくつか現国の問題を解き進めたあたりで、着信音が鳴り。
『昔みたいな距離感で接するなんて、難しいよな』
洋平からそんなラインが送られてきた。
(一理ある。四人それぞれが、それぞれの環境で生きてるわけだし。……でも、洋平のこの口調って、なんだか……)
夏弥は洋平のそのラインが、どういう意味を孕んでいるのか、なんとなく察する。
そしてその気持ちを汲み取ってあげるように、夏弥はそっと次の返信したのだった。
『それぞれ事情があるからな。……あ、それじゃあ今年の夏祭りは、四人で行ってみるとか?』




