3-14
◇ ◇ ◇
翌日の午前七時半頃、夏弥は朝からお風呂に入っていた。
昨日の夕食後、ベッドで横になっていたらいつの間にか眠りこけてしまったのだ。
ベッドで考え事をしたり、スマホをいじったりしていて。
ほんのちょっと瞼を下ろしてみて。
次に瞼を上げた時にはカーテンのすき間から朝日なんぞが差してきていて。
そこでようやく、自分がお風呂に入らず寝落ちしていたことに気が付いた。というわけである。
さて、朝から浴室で髪を洗いながら、夏弥は延々次のようなことを考えていた。
『恋愛は不治の病である』
西暦ほにゃらら年頃に生きていたであろうナントカ博士は、恋愛をそのように評した。
まぁわからなくもない。
『恋は影法師だ。くっついて離れないくせに、追えば逃げて、逃げれば追ってくる』
イギリス出身のご高名な戯曲家は、そのように表現した。
うんうん。こちらも言い得て妙だ。恋は気まぐれロンリネスな厄介者だわ。
『恋がやってくれば、知恵が出ていく』
ドイツの吟遊詩人はそう謳った。
ああその通りかもしれない。最高に皮肉が効いてる。
『あたしも夏弥さんから「あーん」されたいって言ってるの!』
おや?
これは一体誰の言葉だ……。
ずいぶん恥ずかしいこと言ってる。
物心もつかない幼児が言いそうな、なりふり構わない言葉みたいだ。
こういう、偉人達の名言列挙タイムに挟み込んでいい代物じゃない。
あまり経験はないが、共感性羞恥ってやつで死にそうだ。
考えれば考えるほど恥ずかしい。
――――などと思いながら、夏弥は浴室で自分の髪をわしゃわしゃと洗う。
シャンプー液のボトルはピンクと黒のツートーンでデザインされていて、明らかに女性向けのような印象だ。
(……そういえば、もう完全に違和感がなくなったな。俺もついにこの桃っぽい香りに洗脳されたのかもしれない)
夏弥はいつの間にか、美咲が使っているシャンプーと同じものを躊躇なく使うようになっていた。
別に小悪魔ボトルのシャンプーを使う必要はない。
新しく、自分が使いたいものを買って備えておけばいいはずなのに。
(それにしても、あのセリフってやっぱ本心だったのかな)
シャワーで泡を流しながらひたすら考える。
湯気の立つなかで思うのは、美咲の「『あーん』してほしい」が本心なのかどうかということだった。
確証はない。
けれど、言い方からしてきっと美咲の本心だろうなと夏弥は思っていた。
(たぶん、あれは余計な建て前とかなかったよな)
その通り。あれは本心だ。
あれは、余計な衣服や装飾を身に付けていない、裸の美咲だった。
入浴してる今の夏弥と同じ姿。
まさに一糸まとわぬ本当の気持ちだった。
◇ ◇ ◇
「おはよ」
「あ、起きてたんだ美咲。……おはよう」
夏弥がお風呂から上がると、美咲がすでにキッチンに立っていた。
八月の午前八時。しゃんとしだした朝の空気感に現れた美咲は、その片手にミネラルウォーターのペットボトルを持っていて。
寝起きのぴょんとハネている髪の乱れ具合も、どことなく夏弥に親しみを与えるものだった。
「俺、朝ごはん作るわ。ちょっとリビングに居てくれる?」
夏弥が話し掛けると同時に、美咲はそのペットボトルを冷蔵庫に仕舞う。
どうやらひと口、飲んだあとらしかった。
「……そう。わかった」
「豚肉余ってるから、生姜焼きにでもする」
「うん」
豚肉をフライパンで炒めているあいだ、夏弥はやっぱり昨日の発言を思い出してしまっていた。
はっきりと甘えたいのだと宣言された。
その事実から紐をたぐり寄せるようにして、過去、自分が美咲からそんな宣言をされたのはいつだったのか。なんてことを考えてしまう。
それは幼い頃の記憶から探せば、何かしらあるはずで。
(でも中学に上がってから遊ばなくなったからなぁ……)
夏弥が覚えている美咲との記憶は、小学校時代までのものである。
いくら振り返っても、あの頃と今とじゃ、美咲もずいぶん様変わりしているのが現状だった。
染めてなかったはずの髪色も。
ぺったんこだったおっぱいも。
すっきり垢抜けているナチュラルメイクの顔も。
(いや。……ていうか大事なのは今だよな、今。昔を振り返るのも悪くないけどさ)
さて、そうこうしているうちに料理ができあがった。
夏弥は出来上がった朝食をリビングのローテーブルへと運ぶ。
美咲はソファに深く腰をかけ、スマホをいじっているようだった。
「朝から生姜焼きって、重かった?」
「うーん……? いや、別にそんなことないでしょ」
美咲の視線はずっとスマホに落ちたまま。
本当のことを言うと、美咲は夏弥以上に気まずい思いだった。
何しろ、勢いとはいえ思わず「あーんされたい!」なんて言ってしまったのだ。
できることなら、思い出さないようにしたいのかもしれない。
「でも普段はパンとか、そういう軽いの食べてるじゃん? まぁ、俺から生姜焼き提案しといてアレなんだけど」
「パンが多いけど、それはそれで良いし。こっちはこっちで良いでしょ。てかさ、指、大丈夫……?」
「ああ。……それは大丈夫」
夏弥は手を広げて、自分の顔付近まで持ち上げる。
スマホから顔をあげた美咲は、そんな夏弥の手に目を向けた。
「そっか。よかったじゃん」
夏弥の手を見ていた美咲は、そのままなんとなく夏弥の顔にも目を向けてしまった。
「……!」
「……ん? どうした?」
「や……何も」
たまらず夏弥から目をそらす。
目が合っただけだけれど、自分の感情を全部見透かされるかもしれない。
美咲はそんな気がして、胸が焼けるように熱かった。
そんな美咲の一挙手一投足に、夏弥が何も感じないわけもなく。
(なんだよ。そんな露骨に恥ずかしがるなよ。……俺まではずいんだけど)
「た、食べよう食べよう」
「……」
じれったい空気がその場を支配していた。
夏弥がその空気をかき消すために「食べよう」と言ってみたところで、やっぱりまだその甘くて酸っぱい成り立てのくだものみたいな空気は消えてくれなくて。
「あ。ていうか朝ごはん、あたしも手伝えばよかったね」
「いや、いいよそんな」
「いやダメでしょ。……だってあたしも料理上手くなりたいし」
美咲は、テーブルに出されたご飯と豚肉の生姜焼き。それとお味噌汁、浅漬けの類いに箸をつけていく。
「そんなに上手くなっても、ここじゃ一緒に食べるやつ、俺しか居ないだろ?」
「……まぁ、そうだけど。で、でもほら昨日言ったじゃん? あたし……」
「ああ……」
美咲の言う「昨日言ったじゃん」とは、「夏弥から甘えられたい」という部分のことである。
夏弥から甘えられるために、頼られるために、少しでも料理が上手くなりたい。
そのような意味で言っていた。
しかし一方の夏弥は、「昨日言ったじゃん」を「あーんされたいって言ってるの!」のことだと受け取っていた。
あーんされたい。
つまり、あーんされた時の料理がマズいのは嫌だから、上手になっておきたい。
そのような意味だと思っていた。いやはや完全に誤解である。
「じゃあその……もう料理は作っちゃったけど、する?」
「え? するって、今から?」
夏弥の問いに、美咲も疑問形で返す。
無論、夏弥の「する?」とはあのことであり、一方の美咲はてっきり「料理をする」ものだと思っていた。
もうすでに朝ごはんは出来上がっている。
なので美咲は、夏弥の提案がちょっと変だなと感じつつ。
彼女は「いいけど……」と答えてしまったのだった。
「わかった。……そそ、そ、それじゃ、いくぞ……」
かみっかみに嚙みながら、夏弥は決死の覚悟で豚の生姜焼きをつまむ。
豚肉を箸にステンバイ。ステンバーイ……ステンバーイ……。
「?」
「……はい。美咲……『あーん』して」
「っ⁉ ちょ、ちょっと……」
夏弥はやや身を乗り出し、美咲に豚の生姜焼きを差し出した。
昨日の美咲同様、タレが垂れないようそっと左手を添えながら。
顔面真っ赤であるけれど、彼はもうなるようになれと思っていた。
「あーん……」と夏弥が美咲をうながす。
「かっ…………あ……!」
美咲は豚肉を前にして固まっていた。
口を半開きにしたまま、わなわなと震えている。
こちらもお顔が大変赤く仕上がっておりまして。
「ん? ほら。……何してんだよ?」
「っ…………」
美咲の声は声になっていなかった。
「ほら。は、早く食べ――「バカじゃん⁉ なんで朝からこんなことしなきゃいけないの⁉」
夏弥のセリフに、美咲の一喝が重ねられた。
美咲は身を引きながら、目をそらす。
「え?」
「じ、自分で食べるし……! 第一そういうのは怪我とかした時でしょ⁉」
「え、じゃあさっきのはなんだったんだよ?」
「さっきの……?」
ポカンと呆気にとられる美咲。
そんな美咲に対し、夏弥は丁寧に説明する。
「今の『昨日言ったこと』って、「あーん」されたいってことだろ?」
「……!」
「あ。え? ……違ったの⁉」
「……チガウ」
夏弥の質問に、美咲はコクンと首を縦に振ってみせた。
(じゃあこれ完全に勘違いだったってこと? うわ。はずっ。顔熱くなってきやがった。俺、誤解してたの? なんで誤解してた? おバカ……?)
夏弥の顔は真っ赤を通り越して充血の域にまで達しようとしている。
もはや危険である。
「もっかいお風呂入るわ……。水風呂で頭冷やしてくる」
「ね、ねぇ。……待って」
「なんですか」
もう意気消沈で顔面蒼白だった夏弥に対し、美咲は何か思う所があるらしかった。
「前から一つお願いしたいことがあったんだけど……。むしろそっちを聞いてほしいっていうか……」




