3-12
◇ ◇ ◇
モノクロウサギの壁掛け時計が、午後六時半を指し示す。
鈴川家201号室のリビング。
モスグリーンのソファに身を横たえて、夏弥はコマーシャルの一つを「ふむふむ」と頷きながら視聴していた。
「『巨峰たっぷり生クリームブルーラテ』は夏限定! 今年の夏は巨峰襲来⁉ 紫色の――」
――例のコマーシャルはやたらとハイテンションだった。
ほっそりとしたプラカップに、紫色の液体と白いホイップクリームが盛り付けられている。
オウム貝みたいにぐるぐると巻かれた白い塔。その塔に、チョコチップやアーモンドチップが天から雪のように降り注いでトッピングされていく。そんな映像だった。
(すごいカロリー高そうだな……今日の夕飯、冷しゃぶはミスだったかも)
夏弥は目の前のローテーブルに置いた飲み物をじっと睨みつける。
「……色味は可愛い感じなんだけど、きっとカロリーは可愛くないな」
パープル&ホワイトの取り合わせ。
スマホの画面に映るものと同じ『巨峰なんちゃら』がそこには鎮座していた。
美咲が夏弥のために買ってくれたものだ。
その美咲はといえば、帰宅早々お風呂に入るといって現在入浴中。
ドアを数枚隔てた向こうのほうで、生まれたままの姿になっている。
(……ブドウとか巨峰、嫌いじゃないけど、どうして俺の分まで買ってくれたんだ?)
疑心暗鬼になる。
帰り道の途中でも感じたけれど、最近の美咲は少しおかしい。
やけに素直そうな、裏も何も無さそうな言動を見せる時がある。
どういうつもりなのか、読めない。
この奢ってくれた巨峰ドリンクもその例だ。
(……いや、色々考えすぎか。俺が小森の一件を解決した事で、お礼の一つでもしたくなったのかもしれないし)
夏弥は自分の頬をポリポリかいてから、テンションがだだ上がりすると噂のドリンク『巨峰なんちゃら』に口をつけたのだった。
飲み干すと、口の中が巨峰の香りでいっぱいになる。
空のプラカップを捨ててから、よしこれから冷しゃぶ作りますかー、と気合もそこそこにキッチンへと立つ。
鍋に水を張り、火にかける。
そこへ被せたクリアな鍋ぶたから、ちょっとだけ中の水をぼんやり覗き込んでいた。
そんなところで、思いがけず後ろから声をかけられた。
「あ、もう始めちゃったんだ?」
「え?」
夏弥が振り返ると、そこには美咲が立っていた。白い半袖Tシャツにラベンターっぽい薄紫色の短パン。狙ってはいないのだろうけれど、偶然にも『巨峰なんちゃら』と似たカラーリングの寝巻きだった。
いつの間にか、美咲がお風呂から上がっていたらしい。
上がったばかりの彼女は、その綺麗な頬を紅潮させていた。
汗も流し、本来ならサッパリして気持ちが良いはずなのに、この時の美咲は若干不服そうな顔付きだった。無論、夏弥のせいだろう。
「あ、ごめん。そういえば料理……だよな?」
「うん。教えてくれるって約束したじゃん」
ぼーっとしていた夏弥は、うっかり晩ごはんの支度を始めてしまっていた。
習慣として染み付いてしまっていたせいだ。
「いや……ごめんごめん。なんか、ついいつもの流れで――」
美咲に言い訳を述べつつ、含み笑い。
そのままなんとなく、火にかけていた鍋のふたへと手を伸ばす。
その時だった。
「あっ――――つ!」
「夏弥さんっ⁉」
ヨソ見をしていたせいで、思いきり鍋の淵に手を当ててしまう。
夏弥の右手の皮膚が、熱に晒されてしまったのだ。
「うっ……わ」
「すぐ水で冷やさなきゃ!」
「……あ、ああ」
美咲はすぐさま夏弥のもとへと駆け寄り、調理台横のシンクで水を出す。
痛みでガクガク震える彼の右手をぐいっと掴み、流水に当てがいながら呟くようにしてこう言った。
「一人で始めちゃうから」
だから火傷をした。と、言いたいのだろうか。
美咲は、茶化すような、それでいて半分は真面目であるような、曖昧なニュアンスのセリフを吐く。
「……それは関係ないよ」
「関係あるでしょ。きっと。……ねぇ。手、大丈夫?」
「まだわからないけど、……痛いのは痛い」
「……バカじゃん」
「……。……バカかもね」
「……」
美咲は水に当て続けている夏弥の右手を見つめていた。
「……それじゃあ今日はあたしが後のことやるから、夏弥さんは横で指示してよ。それなら不安もないでしょ?」
「そうだな。わかったよ。俺、監督になります」
「そうそう。よろしくね」
幸い、豚の冷しゃぶはそこまで複雑な料理じゃない。
夏弥が手を出さなくても、美咲一人の手で十分可能な料理だった。
美咲は初めこそ「冷しゃぶってどうやって作るの?」なんて疑問を抱いていたようだったけれど、いざ作り始めていくと「なにこれ。余裕すぎじゃん。こんな簡単な料理もあるんだね」などと言って、すっかり鼻を高くしたものだった。
料理を作り終え、二人はリビングで夕食を取ろうとした。
いつも通り、美咲はソファ。夏弥はその斜め前に置いたクッションの上。
二人でローテーブルを囲む形である。
ただ一つ、ここで夏弥に問題が出てしまっていた。
「いただきます」と美咲が手を合わせる。
「……い、いただきます」
皿に盛られた豚肉の冷しゃぶ。
それから、炊き立てのご飯と、昨日の余りものの野菜サラダなどがローテーブルに並べられているけれど、夏弥はそれらを前にして固まっていた。
右手の火傷は簡単なものなので、処置としてはあの流水に当てるだけでよかったはずだった。
しかし、それでもまだ少し痛みが引いていなくて。
「おいしっ。……青じそドレッシング、冷しゃぶにすごく合うじゃんこれ」
「……ああ、そうだよな」
「……?」
夏弥の反応が、どことなく上の空であることを美咲は察した。
「夏弥さん」
「ん? 何?」
「食べないの?」
「え。……あー……えっと」
答えを濁してしまいたくなる。
火傷を負った指先には、できることなら何も当てたくなかった。
はっきり言ってしまうと、今の夏弥は箸を持つことさえ避けたいほどだった。
そんな本心が、夏弥を口ごもらせていた。
「ひょっとして……指、かなり痛いんじゃない?」
「……まぁ……正直」
「……」
無言の間があく。
壁に掛けられたモノクロウサギの時計は、いつもと変わらず秒針を進めていた。
美咲が一人で座っていたソファ脇の観葉植物は、エアコンの風を受けてか一定のリズムで葉っぱを揺らしていた。
「ちょっと、いい?」
「え。いいって、何が――――
「となり」
一言だけ、こぼすようにそう言って、美咲は夏弥の座っているクッションの方へ歩み寄っていった。
夏弥のすぐ横へ腰を下ろすと、しばらくはただじっとしているだけだった。
(なんだよ。急に隣に来たりして)
夏弥が美咲の不可解な行動に困惑していると、まるでそれを察したかのように美咲が口を開いた。
「……手、貸してあげよっか」
「手って、お前……」
お風呂からあがってもうすっかり時間は経ってしまっているのに、美咲の顔はまた赤くなっているようだった。
恥ずかしさのせいか、夏弥に目を合わせられなくて。
彼の目の前にある晩ごはんの皿へ、逃がすようにその視線を向けている。
「手が痛いなら、しょうがないでしょ」
「それはそうだけど……、いや、待って? さすがにそれは甘えすぎな気が」
「あっ……甘えたって…………いいじゃん。こういう時は」
「…………」
夏弥のなかで気持ちが巡る。
目の前の美咲は、確かな美少女だ。
整った目鼻立ち。きめ細かい肌。スタイルだって良い。
でも小さい頃から知っていて、付き合いも長くて、ずっと兄妹みたいなものだと思っていた。それが最近、夏弥のなかで揺らぎ始めていた。
多少会わなかった期間があったせいで、初めこそギクシャクしていたけれど、それが融解しだしたことで、二人のあいだにあった溝はかなり埋まりつつある。
なおも適切な距離感を取ろうとするのなら、ここはキッパリ断るべきだ。
無理やりにでも、夏弥が自分で箸を持つべきなのだろう。
無論、それが彼の本心であれば、なのだけれど。
「あたしに甘えるのって、そんなに嫌……?」
「そんなことはない……けどさ」
「あたしは…………甘えられてみたい」
美咲の言葉に、夏弥の心臓の鼓動が速くなる。うるさいくらいだった。
(待ってくれ。ストップストップ。これはあくまで、美咲の「厚意」だよな? 「好意」じゃないんだよな?)




