2-24
『夏休みだけど、直接会って話せる日ない?』
まる一日考えた末に、夏弥は結局最初に送ろうと思っていた内容をそのまま送ることにした。
そのラインを送ったあと、カンカン照りの太陽から逃げるようにしていつもの201号室へ向かったのだった。
◇
夏弥がまだアパートに到着する前。
201号室で、美咲とまど子は少しだけ親しくなっていた。
まど子はスキニーパンツに落ちたオムレツのかけらをふき取ったあと、一呼吸置いてから美咲にこう切り出した。
「――――もし私が小説の子だったら、たぶんもう少し素直にならなきゃって思っちゃうかも」
「え。……素直に、ですか?」
「うん」
美咲は少し意外そうな顔をした。
さっきまで話していた内容にまど子がもう一度触れてくるとは思っていなかったからだ。
「幼馴染だったとか、昨日まで知らなかった人だとか。そういう事情って、これからその人と仲良くなろうとすることに関係ないと思うの。……だって、私も最近まで、藤堂くんや秋乃ちゃんとは話したこともなかったから……」
「そ、そうですよね」
「うん。……私には私のハードルがあるみたいに、その子にもハードルがあるんだよね。でも、きっと大丈夫だよ。きっとまた、二人は仲良くなれる……と思う。そのために、ちょっとだけ素直になれれば」
「……」
まど子の言葉が美咲の頭のなかで反芻されていく。
どんな風に素直になればいいのか、美咲はリアルな自分の姿をイメージしていた。そんなタイミングで、間が良いのか悪いのか玄関のドアが開けられる。
「ただいまー」
無論、ドアを開けて入ってきたのは、買い物を終えた夏弥だった。
「あ、藤堂くん帰ってきた」
「あの……月浦さん、今の話はその……」
「うん。大丈夫。…………藤堂くんには内緒ってことだよね?」
「え? はい。あ、ありがとうございます」
美咲はまたしても意外そうな顔をする。
まど子がそこまで気を遣ってくれるとは思っていなかったからだ。
女子二人の会話はそこで終了した。
帰ってきた夏弥は、卵やギョーザの皮など、必要な食材の入ったビニール袋をキッチンに置いてから、リビングへ足を運ぶ。
「あれっ。秋乃、体調良くなったんだ?」
「え? ……別にもとから体調悪くなんてないよ?」
「そ、そうか」
ソファに座る女子二人を見てから、夏弥は自分の取り越し苦労だったのかと安心した。
ほっと一安心。
ただ一方のまど子と美咲は、そんな夏弥の様子がちょっぴりおかしかったのか、お互い示し合わせたようにほくそ笑むのだった。
「え、何? 二人ともなんでクスクス笑ってんの?」
「いいでしょ別になんでも!」
「そうだよ、藤堂くん。あ、それより、オムレツすごくおいしかったよ!」
「あ~、ほんと? よかった。正直不安だったんだよな。最近めっきり作ってなかったからさ」
夏弥はそう言って、リビングからキッチンの方へ移動する。
そうして夏弥が二人の元から離れたすきに、まど子は美咲にこっそりと耳打ちをした。
「秋乃ちゃんも、料理教えてもらったらいいんじゃない? 私もだけど、一緒に教わろ?」
「そ、それ……いいですね」
囁かれたその優しいお誘いに、美咲はちゃんと乗ることにした。
素直になる。
まど子が架空の小説に向けて言った言葉だったとしても、それはもちろん美咲にだって十分応用できる言葉だ。
「よし! 二人で頑張ろ!」
「次は、何の料理ですか?」
「え? またオムレツじゃないかな? 秋乃ちゃんもオムレツ作れるようになろうよ」
まど子は、心機一転やるよ~といった様子でソファから立ち上がり、キッチンへ向かった。
美咲も遅れを取ったけれど、後に続いてキッチンへ向かう。
そこには夏弥がすでに立っていて、絶賛卵を割っているところだった。
「ねぇ、藤堂くん。秋乃ちゃんが、話したいことあるんだって!」
「え……?」
夏弥はまど子にそう話しかけられ、彼女の後ろからやってきた美咲に目を向ける。
明るく茶色に染め上げられた三つ編みの毛先を指でいじりながら、美咲はほっぺを少し赤らめていた。
(なんだろう? 言い出しにくそうだけど……?)
「な、なつ兄……」
「な、なんでしょう」
「あたしにも、ちゃんと料理教えてほしいんだけど」
「え……ああ。そ、そうだな! 別にさっきのも、月浦さんにばっかり教えてるつもりはなかったんだけど。一つ目のオムレツを作ってる時の俺って、そんな感じだった……?」
「うん……」
美咲は夏弥の目を見れずにいた。
「素直」とは無縁な生活を送ってきた、不慣れな美咲らしい様子だった。
夏弥は夏弥で、美咲がこんな風に健気でいじらしい姿を見せることに、意表を突かれていた。
自分が買い物に出掛けているあいだ、二人に何かがあったらしいのは確かなのだけれど、それはまだ理解できていない。
無論、美咲から素直に「教えてほしい」と頼まれれば、それを断る理由はなかった。
(美咲が料理してくれるようになるなら、日常的にもちょっと手を借りたりできるしな。……まぁ、その道のりは果てしなく長い道のりになりそうだけど……。ていうか、もしかして美咲のやつ、仲間外れにされてるとかそういう事を感じてたのか……? いやいや。だとしたら、俺の恋愛を手伝うって話と矛盾してこない……?)
「と、とにかく、ちゃんと二人に料理教えるよ」
「うん。お願い。あたしの事も…………ちゃんと見て」
「……⁉」
俯き加減だった美咲は、そのまま上目遣いで夏弥の目をじっと見つめていた。
端正な顔立ち。明るい髪色のウィッグやネイビーカラーのメガネ。
それらだってもちろん美咲を可愛らしく見せている要素なのだけれど、ただそればかりじゃないようだった。
美咲がこんなに甘えてくるなんて。
これを前にしてしまったら、全人類ため息が出ちゃうだろうというご様子だった。そこには冷たさなんてカケラもなくて。
(なんなんだよ、急にしおらしくなったりして! どうしたんだ美咲のやつ)
美咲のセリフと、まっすぐに見てくるその瞳。
夏弥の鼓動が速まってしまうのも無理はなかった。
そんな夏弥と美咲のやり取りを、まど子は聖母マリア様みたいな表情で横から眺めていた。
聞こえない程度に「ふふん」なんて鼻を鳴らすのは、生まれついての優しい性格が由来しているのだろう。
「と、とりあえず、二つ目のオムレツ。ゆくぞ」
「「うん」」
三人は料理に取りかかり始めた。
夏弥の「ゆくぞ」には誰もツッコまなかった。
洋平がいないため、まぁそんなものである。
夏弥は地味に精神的ダメージを受け、二つ目のオムレツをフライパンで作り始める。
一方で、まど子は美咲に卵の割り方を教えていた。
これがまた絶妙にしっくり来る陣形だった。
夏弥はフライパンに広がる卵液を管理。高級なシルク生地でも撫でるみたいにしてゴムベラを駆使していく。
同時に、横に並ぶ女子二人の会話にも耳を大きくしていて。
「――秋乃ちゃん、卵割るの苦手なの?」
「そうなんです。力加減がいつもわからなくて……。それに、何度も練習できないじゃないですか。卵、もったいないから」
「確かにねぇ……。一回失敗しちゃったらそれでおしまいだもんね。でもほら、こうやって――」
まど子は美咲の前で、卵をたたいてみせる。
卵を当てたのは、調理台の平らなところだ。
ほどよい力加減で、しなやかに当てられる。
当てたその卵を、まど子は美咲に見せてあげた。
その卵は、平面にぶつけられたことで部分的にヒビが入っていた。
「え? こういう、シンクの淵とか角ばったところに当てるんじゃないんですか?」
「それ、本当は間違いみたいだよ? 私も前までずっとそうだと思ってたんだけど、平らなところに当てたほうがヒビを入れやすいの」
「へぇー。そうだったんですね!」
美咲が「ふむふむ」とまど子の手元に目を注ぎ、関心していると、
「それ、諸説あるみたいだけどね。人によるってことじゃない?」
横から夏弥が助言のような小言のような何事かを言ってくる。
「なつ兄は黙っててください」
「……え。さっき自分のこと見てって言ったよね? はて。あれは一体……?」
「今は月浦センセーに見てもらってるんだから邪魔しないで? ていうかフライパンの方に集中してよ。焦がしたらそれ、なつ兄の分なんだから」
「……わかった。わかったけど、「焦がしたら」なのか? このオムレツは「焦がすことで」俺の分になるのか?」
「――フフッ」
にやける美咲につられ、夏弥も少しだけにやけてしまった。
(いつもの美咲だ。うん。戻ってる)
夏弥も美咲も、気が付いていた。
攻撃力のない憎まれ口は、美咲が会話する時の常套手段であることを夏弥は理解している。
気の毒に感じない自虐は、夏弥が会話する時の常套手段であることを美咲は理解している。
こんな風にじゃれ合えるようになったこと。
それは一緒に暮らし始めた時に比べて、お互いの心の距離が近づいたような、そんな錯覚を二人に覚えさせる。
いや。
これは錯覚じゃないのかもしれない。
夏弥と美咲の二人は、お互いにそう感じていたのだった。
(……けど、さっきのストレートに甘えてくるような態度にはびっくりしたな。やっぱり俺が出掛けてるあいだに、何かあったんだよな……?)
夏弥の抱えていたその疑問だけが、解消されないまま時間が過ぎていった。
平和を取り戻したお料理教室。
夏休みはまだ一日目だ。
この長期休暇中に何回行なうのかは未定だけれど、三人ともこの一回きりで終わりにしようだなんて思うはずもなくて。
「こんなにオムレツとか作ってたら、お昼ごはん食べられなくなっちゃうね」
「え。月浦さん? 俺はもうこれがお昼ごはんになると思ってたんだけど……」
「ぷははっ。あたしもそう思ってたんだけど。……やっぱり月浦さんて、ちょっとおもしろい所あるよね」
「確かに。……あははは!」
「い、今のは言い間違え! 言い間違いなの! 二人とも信じて⁉」
さすがに苦しかった。言い間違えというには無理がある。
まど子のおっちょこちょいな所に二人はクスクスと笑うのだけれど、鈴川家のアパートを勝手に藤堂家だと偽るこちらの偽物兄妹も、十分おかしかった。
つまるところ、三人ともおかしい。
この御三方には、ぜひ普通とはなんぞやという部分から学んでいただきたいものである。
アパートの外に広がる街並みは、もうすっかり夏景色だった。
アスファルトの路面からは陽炎が立ちのぼっているし、蝉もうるさい。
エアコンの効いた部屋で料理にチャレンジする三人は、まだ夏休みをどのように過ごすのか未定のままだった。




