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2-22

◇ ◇ ◇


 エアコンをしっかりめに効かせた1LDKの201号室。

 キッチンスペースも例外じゃなく涼しい。むしろ寒いくらいだ。

 夏弥はその涼しい空間でまど子にオムレツの調理を披露していた。その途中だった。


「秋乃ちゃん、どうしたの?」


「……わからないけど、とりあえず料理は仕上げよう」


「…………うん」


 二人とも美咲の様子が気掛かりだったけれど、もうスタートした料理は止められない。

 夏弥はフライパンの上のオムレツの仕上げにかかる。


「――え、箸じゃないの?」


「うん。のばした卵の端っこを箸で剥がそうとするのは、やめたほうがいい」


「そうだったの? でも剥がすなら端のほうだよね……?」


「ああ。でも箸は上級者向け。だからそこで、またゴムベラを使うんだ。ゴムベラで卵の端っこを包み焼きみたいに巻き込んでいって、そのあと手前にひっくり返せば……ほら、良い感じ」


 クレープみたいな形状。オムレツに進化する前の塊。

 夏弥はフライパンの上でそれをくるんとひっくり返した。

 裏返された黄色い塊は、電気の明かりすらつややかに白く跳ね返していた。


「わぁ! つるんってキレイに仕上がってる……!」


「久しぶりでこんなキレイに出来ると思ってなかったから、余計に照れるな……」


 皿に盛り付けられたオムレツを見て、まど子は目をきらきらと光らせている。

 夏弥はそんなまど子の反応や言葉が素直に嬉しかった。


 まど子は、思ったことをそのまま口にしてくれる。

 美咲のように冷たく当たったりはしてこないし、むしろ褒めてくれたり尊重してくれることのほうが多いくらいだ。


 そうした気立ての良さが魅力的なまど子は、見た目がいくら地味であっても夏弥の中ではすこぶる印象が良くて。


 部屋に引っ込んでしまった美咲が、まさか自分に恋愛感情を寄せ始めていることなんて。夏弥には到底気付けるわけがなかった。


「藤堂くん、次は私にやらせて?」


「うん。…………あ、でも残念ながらそれは難しいみたい」


「え? どうして?」


 夏弥は次のオムレツを作るために冷蔵庫の扉を開け、中に目を向けている。

 その姿勢のまま、まど子の提案がのめないわけを説明した。


「卵がもう無いから……。ちょっと俺買ってくるよ。二十分くらいかかると思う。月浦さんは先に出来てるオムレツ食べちゃって?」


「え、でも……」


 まど子は申し訳なさそうに両手の指をいじっていた。

 合わせた人差し指と親指で、ひし形っぽいものをそこに作っている。


「いいよ、気にしないで。他の料理でも使うだろうから、卵はどの道買わないといけないと思うしさ」


「そ、そうだけど……」


「じゃあ行ってくるから」


「うん。わかった。気を付けてね!」


 そう言い置いて、夏弥はアパートを出ていってしまった。


 朝食のフレンチトースト。そこで卵を使ったことに加え、まど子のリクエストがよりによってオムレツだった事。

 卵を使う料理が重なるというこの偶然は、完全に彼の想定外だった。


 結果、夏弥が出ていったことで、まど子は一人でキッチンに取り残されることになったのだった。


 まど子は他人の家でいきなり一人にされたことに戸惑いながらも、差し当たってすることもない今の状況を理解する。


「きっと藤堂くんが戻ってきたら、また道具も使うよね……」


 キッチンの調理台やコンロに置かれたままの器具を見て、ぽつりとつぶやく。


 もしであればこのヒマを利用して洗い物でも……と、彼女のなかに一つ選択肢が浮かんでいたのだけれど、それもすぐに打ち消される。


「……」


 キッチンでぼーっと立ち尽くすのもどうかなと感じ始めたまど子は、皿に盛られたオムレツを手に、ふらふらとリビングの方へ足を進めた。


 当然だけれど、リビングには誰もいない。


 リビングには夏弥や美咲にとってお馴染みの、ソファやローテーブルが備えられていた。

 ローテーブルの上に、オムレツの乗った皿を置く。

 モスグリーンの優しい色合いをしたそのソファに、まど子は浅く腰をかけてみる。


(このソファに、いつも藤堂くんが座ったりしてるんだよねきっと……なんだか変なカンジ……)


 思わずそんなことを考えてしまうのだった。



 一方、部屋にこもっていた美咲は、ベッドの上で横たわり、頭のなかのモヤモヤを解消できずにいた。


(……なんであたし、こんなにモヤモヤしてるんだろ…………。別に夏弥さんは、あの人に料理を教えてただけじゃん)


 何度も何度も、美咲の頭のなかにそんな感情が湧いて出てくる。


 それにまど子をこの家に呼ぼうと言い出したのは、他の誰でもない美咲自身のはずだった。


 夏弥の恋を応援する。その一心で積極的に働きかけたつもりだ。


 だけれど、いざ家に呼んでみると二人は想像以上に仲が良さそうで、料理を教えながらイチャイチャと距離を近付けていくものだから。


「はぁ……」


 美咲の部屋とリビングを分ける引き戸。

 その一枚の引き戸を、美咲はジロッと軽くにらんだ。


「……切り替えよ」


 美咲は独りごちてベッドから起き上がり、隣のリビングへと出る。


「え。……あれ?」


「あっ」


 リビングのソファに座るまど子を見て、美咲は一瞬驚いた。


 見慣れたリビングが視界に飛び込んでくるはずだったのに。

 そこには異分子のまど子が座っていた。

 ただそれだけでいつものリビングじゃない、どこか違う部屋かと思うほどだ。


「月浦さん……だけですか? あれ、なつ兄は?」


「藤堂くんなら今お買い物に行ってるよ。たまごが切れちゃったって――」


「そうだったんですね」


「うん」


「……」

「……」


 空気が重い。

 二人ともこれだけ重い空気は初めての体験だろうという重さである。


 お互いに何を話していいのかわからない状況だった。


 まど子は美咲の具合を多少なりとも思いやっていたからか、彼女を目にした途端不安そうな表情を浮かべていた。


「大丈夫?」


「……大丈夫って、何が、ですか?」


「体調が良くなさそうだったから……」


「だ、大丈夫です」


 美咲はそのまま、まど子のいるリビングをスルーしてキッチンへ向かった。


 冷蔵庫からいつものミネラルウォーターを取り出す。

 指先にひんやりとした温度を感じる。


 そんな美咲を遠目に見てから、まど子はソファから立ち上がり、少し移動した。

 キッチンスペースとリビングとの間仕切り付近に立つと、まど子は美咲に声をかける。


「あの、秋乃ちゃん、教えてほしいんだけど……」


「なんですか?」


「今日、私、来ないほうがよかったんじゃ……」


「え」


「……だって、藤堂くんはわからないけど、秋乃ちゃんには私、歓迎されてないみたいだから」


 まど子は美咲の目を見ずに言葉を続ける。

 目は見ていなくても、突き放すことのない優しさにあふれた言葉だった。


「嫌だったんだよね……? 私にもお兄さんがいるからわかるの」


「……」


「お兄さんが家に女の子の友達を連れてくるのって、少し複雑な気持ちだよね」


「いや…………あの、違いますよ。それは」


「そう? 私は複雑だったから、秋乃ちゃんもそうかもしれないって思ったんだけど」


 まど子は美咲の顔をちらっと見てから、また視線を外す。

 あなたの気持ちはとてもよくわかる。と、そんな裏の声が聞こえてきそうだった。


 月浦まど子こそ、生粋の博愛主義者かもしれない。


 ズレた言葉は一周回って、美咲と洋平の本来の兄妹関係の方にまで突き刺さっているような気がする。


「月浦さんがそう思うのは、きっと月浦さんのお兄さんを月浦さんが好きだからですよ」


「……秋乃ちゃんは、自分のお兄さんのこと好きじゃないの?」


「なっ…………す、好きじゃありません」


「でも、さっき藤堂くんを見てるときの秋乃ちゃん、すごく寂しそうだったよ?」


「っ……!」


 まど子の言葉は美咲の心に深く突き刺さった。

 紛れもない事実だからだ。

 どれだけ余計な理由で飾り立てても、中心を占める気持ちはきっとそれしかない。


「本当は離れていってほしくないから、だから寂しく感じるんだよきっと。……私も、そういう気持ちになった時あったから」


「そうなんですか……?」


「うん」


 まど子の様子を見て、美咲はまた違う話を持ち掛けてみることにした。


 簡単に人に心を開いたりはしない美咲だけれど、兄妹間の機微に親近感を覚えたからか、まど子には尋ねてもいいような気がしたのである。


「あの、月浦さんには、異性の幼馴染みとかいますか?」


「え? 異性って、男の子の幼馴染みってことだよね?」


 美咲はコクン、と軽くうなずいてみせる。


「ううん。いないけど……それがどうしたの?」


「…………」


 二人の境遇はそこまで重ならなかった。

 ぴったり重なっていれば、これから自分が話すことにもシンパシーを覚えてもらえるような、そんな気が美咲はしていたのかもしれない。


 しかし言い出した話題をそこで切り捨ててしまうのも違うような気がして、美咲は話を続けることにしたのだった。


「ちょっと、そっちのソファに座りませんか?」


「うん」

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