2-20
「ほんとに、あの人……?」
「うん」
夏弥と美咲が日暮れの街を歩く。その二人の数メートル先。
美咲の見間違えでなければ、「彼」が美咲のストーカーだということだった。
(あいつって……)
変人のナニガシ君。
その彼の身長、白いワイシャツと後頭部に、夏弥は見覚えがある。
今日の朝、鈴川洋平with愉快な仲間達による茶番劇が起きた。
あの一幕でのことだ。
「おっ、鈴川~。朝から先生を煽るなんて――」
「は⁉ それのどこが「免じて」なんすか! ――」
「せんせー。ぼくも、鈴川くんは宿題、倍で良いと思いまーす!」
「俺も俺も~」
あの時、一人称を「ぼく」と呼び、洋平の宿題倍増を提案した張本人の彼である。
男子にしては低い身長とあどけない顔付き、加えてキューティクルの素晴らしいマッシュヘアが特徴的で、夏弥や洋平とは中学二年から今までずっと同じクラスだった。
そんな彼の名前は、小森貞丸。
タイムスリップしてきた武士か忍者か、あるいは小型の漁船か宇宙船にでも付けられてそうな名前である。
人の名前を覚えることに関しては不得手であると自覚していた夏弥でさえ、「小森貞丸」は早めに覚えることができた。
だから大して夏弥自身が話したことはなくても、その後ろ姿から夏弥の脳裏に名前が浮かんだのは自然なことだった。
「彼、俺のクラスメイトなんだけど」
「え。…………え⁉」
夏弥のセリフに、美咲はつい身を引いて驚いた。
身を引いたのに夏弥の肩に置かれた手だけは残っていて、ググっとそこに力が込められている。
「肩痛い、肩。それと声大きい」
「あ。ごめん」
「き、気付かれてない……か……?」
二人は一度ヒヤリとしたものの、前方を歩き進む貞丸の姿をもう一度見て、ほっと一息ついた。
それから、つかず離れずの一定距離を保ちつつ、二人は彼の後方を歩く。
彼の尾行が目的ではない。けれど、偶然彼の進む道のりにミスドがある。
二人はやむなくついていく形を取るしかなかったのだった。
「まぁこのまま行けば、たぶんアイツはミスドの前をスルーすると思うから」
「……うん」
夏弥と美咲が監視を続けるなか、貞丸はいよいよミスッタドーナツの店舗の前に差し掛かっていた。
ミスドの壁面看板は、暗くなりつつあった現在の時刻でも仕込まれた電気で明るく輝いていた。
貞丸は一度その看板を見上げると、数秒間だけ固まる。
チラ見と呼ぶには長い、物思いと呼ぶには短い、そんな数秒だった。
「ん? どうして立ち止まるんだ小森」
聞こえるはずもないのだけれど、夏弥はボソッとそんなことを言った。
「ねぇ、夏弥さん。もしかしてあの人……」
「え? あははっ。いやいや、まさかな? そんなうまい偶然あるわけ……が……な」
二人の悪い予感は、見事に的中した。
立ち止まっていた貞丸は、なんと一人でそのままミスドの中へ入っていってしまったのである。
「あ……これはこれは……」
「いい。もう帰るし」
「え、いいんだ?」
貞丸がミスドに入っていったことで、美咲の幸福はぶちゃっと踏みにじられたらしい。
だからだろう美咲は夏弥の前に出て、俄然するすると歩き出していってしまった。
「ドーナツはもういい。別に買わなくても死なないし」
ドーナツを食べなくても人は生きていける。そうだ。死ぬわけではない。そんな人が居たらぜひ精神科へ通うことをおすすめする。人間はそんな特殊な生命体じゃない。至極当たり前の話である。
「わかった。じゃあこのままスーパーに寄ってから帰るよ? って、おーい!」
先を歩く美咲はミスドを素通りしていた。
夏弥の言葉は届いていたのだろうけれど、彼女は返事をしなかった。
夏弥は無駄遣いをしなかったことにその場で少しほっとしたものだけれど、しかしそれは彼の気持ちのおよそ五十パーセント。
もう半分の五十パーセントは、美咲を憐れんだり同情する気持ちだった。
(いくら三つ編みやメガネで見た目を変えたといっても、そのまま入店してたら小森に気付かれないとは限らないし。付きまとってきた男子と同じ店になんて入りたくないんだろうな……。それはわかる)
夏弥は美咲を足早に追いかけながら、その華奢な後ろ姿にそんなことを思うのだった。
さてお馴染みのスーパーマーケット。
そのスーパーの野菜コーナーを、夏弥は買い物カゴ片手に一人で歩いていた。
美咲はそんな夏弥から数メートル先の離れたところで、商品を物色している。
こんな風に、二人で買い物をすることは珍しかった。
これまでの期間、約二か月のうちでも片手で数えるくらいだ。
その数回とも、二人は今のように少し距離を置いて商品を見るようにしていた。
ただこの絶妙な距離の取り方は、自然の成り行きかもしれない。
(こんな場面、いかにも同棲してますって感じがして生々しいからなぁ。……俺も美咲もお互い何も言わずに距離を開けてしまうんだよな)
「――あ、長ネギが割りと安い」
夏弥はふと目に止まった長ネギの値札を見て、思わずそんな言葉をもらす。
長ネギの旬は冬なので、夏真っ盛りとも言えるこの時期に安くなったりすることは珍しい。夏弥はそんな長ネギの収穫事情を踏まえ、小さく驚いていた。
それからつい手を伸ばし、深緑と白のグラデーションに目を奪われていた。その時だった。
「夏弥さん」
「ん?」
突然、美咲が距離を詰めて近寄ってきたのである。
これまで暗黙の了解としていた買い物の時の二人の距離を、美咲は無理矢理破ってきたようだった。
「えっと、なに?」
「さっきの…………小森さんて、どういう人?」
「ああ、小森ね。……どんなって言われても俺から見た印象は普通かな。中学の時、洋平と同じサッカー部に所属してて、今でも教室で洋平と絡んでたり絡んでなかったり?」
「そうなんだ。……思ってたより普通の人なんだね」
「ああ。だからぶっちゃけ驚いてる」
「……」
「でも美咲は、あいつがどういう用件で付きまとってるのかとか、そんなのわからないんだろ?」
「え?」
「ほら、もしかしたら……その……告白じゃないかもしれないだろ? ラブレターは読まずに破棄してたって言うし」
「まぁ、そうだけど。でも不安じゃん」
「案外、大した用事じゃないかもしれないけどなぁ。それこそ肩にゴミが付いてましたよ、くらいの」
「いや、さすがにそれで放課後付きまとわないでしょ。結構付いてくる頻度高いんだよ? あたしの肩、そんなに高頻度でゴミ付いてるの?」
「……違いますね」
「あたしがウィッグ付けてみたのも、ちょっと……一時的にでもその人を騙せるかなって思ったのもあったからなんだよね」
「あ、なるほど。そういう意味もあったんだ」
「うん。……それでさ夏弥さん、あの人に…………付きまとってくる理由聞いてくれない?」
「俺が?」
「…………うん」
二人の間に沈黙が流れる。
買い物客の会話や店内放送なんかの喧騒が、ここぞとばかりに耳につく。
(理由を聞いて、それを俺が美咲に伝えるのか。……まぁそれが一番安全なんだろうけど)
「……まぁダメなら別に「わかった。洋平ならライン知ってると思うから、アイツから小森の連絡先聞いておく」
「え、いいの?」
「いいよ。俺なら聞きやすいポジションだしな。小森も美咲より俺のほうが話しやすいだろうし」
「……ほんとはイヤなんじゃない?」
「イヤっていうか、なんとも? 元々俺とは関わりなかった男子だし、これからもたぶん関わりないから、どうって事ないよ」
(むしろ俺も少し気掛かりだったからなぁ……)
「そっか……」
美咲は何かを言いたそうだったけれど、彼女の言葉はそれきりだった。
買い物を終えた帰り道、夏弥は洋平にラインを送った。
『洋平、小森のライン教えてくれない? もちろん小森本人に了承を得てからで』
送って数分後、夏弥のスマホにラインが届く。
『小森のライン? どうしたん急に。まぁ今訊いてるからちょっと待って』
『ちょっと尋ねたいことあってさ。ま、洋平には関係ないから』
『えー、なんか冷たいじゃん夏弥きゅん。あ! わかった! 小森くんと遊ぶ予定なのネ⁉ アタシとはアソビだった! そういうことネ⁉』
『あ、そうすね』
『ムキーッ!』
『わ。漫画みたいにムキーッて怒るタイプのひとだ』
『冷静にツッコミいれんなww』
洋平とのラインは、いついかなる時もオフザケトークのスイッチがオンになってしまうらしい。
もはやこの二人のやり取りはボケをかましてなんぼという世界。誰も付いてこれない高みの領域。そりゃあBだのLだのと疑われるわけで。
『あ、小森から連絡きたよー。了解だってさ。今、小森のライン夏弥に送るわー』
『早いな。ありがとう』
こうして夏弥は無事に貞丸のラインをゲットした。
これで、直接美咲に付きまとう理由を尋ねれば話は早い。
そう思っていたのだけれど、いざ小森とやり取りしてみると事態は思いのほか難航するのだった。




