2-15
◇ ◇ ◇
県立三條高校二年一組の教室。その最後列の廊下側から二番目の席。
遅刻ギリギリだった夏弥は、その自分の席にとんでもない勢いで座る。
逃げ出す人を脱兎のごとくという表現があるけれど、これはいわばその逆再生。言うなれば着兎のごとくだ。
「と、藤堂くん――⁉」
右隣で、それこそ兎のように大人しく本を読んでいたまど子は、思わず口に手を当てて驚いた。
「っはぁ……、ま、まだ先生来てないな。あ、おはよう月浦さん」
「お、おはよう! 先生ならまだ来てないけど、大丈夫? すごい汗……」
「ああ……ちょっと早歩きで来たから」
夏弥は一度、早歩きの意味を調べ直したほうが良い。
明らかに早歩きで登校した様子じゃない夏弥。その彼に対して、まど子は心のなかで理由が気になったものの、そこまでの追及はしなかった。
「時間ギリギリだったね。あ、でも今日先生ちょっと遅くなるんだって」
「え……そうなん?」
「うん。さっき、夏休みの宿題を忘れてきたって言って、職員室のほうにまた戻っていったから。もう五分くらいは戻ってこないんじゃない?」
「ほんと……?」
「うん。あ、それでね? 藤堂くん……。藤堂くんに手伝ってもらえること。……何かお願いできそうなことあるかなって昨日考えてたの、ずっと」
まど子は読みかけの本に栞を挟み、ぱたんっと閉じる。
そのあと、両手の指を膝の上でもじもじとさせ始めた。
伏し目がちにまど子が言ったその「ずっと」という最後の言葉に、夏弥はちょっとだけドキッとしてしまう。
(ずっとって……。それって、もしかして俺のこと昨日ずっと考えてたってこと? ……。いや? 違うだろ誤解するな。月浦さんはそういう意味で言ったんじゃない。自惚れるな)
夏弥は、目の前で恥ずかしそうにするこの三つ編み女子の態度から、ついつい妄想を広げてしまいそうになった。モテない男子の悲しいさがかもしれない。
「何か……俺が手伝えそうなことあった?」
「うん。藤堂くん、今日のお昼休み、ちょっと一緒に教室から出ない……?」
「昼休み? ……別にいいけど」
まど子のお誘いを夏弥が受けたタイミングで、ガラッと教室の戸が開けられる。
「――っふぅー。わーるい悪い! 宿題忘れてたわ!」
宿題をどっさり抱えた先生がやってきたのだ。
いつの間にか、もうクラスメイト達は全員お行儀よく席に着いていた。
「あ、ごめん月浦さん。またあとでね」
「……うん」
二人の会話は半強制的にそこで一度途切れる。
今日は一限目から数学の授業。
クタクタシャツを着た数学担任の山田先生は、体調までクタクタなご様子。
職員室までの無駄な一往復は、この普段運動もしなさそうな小太りの山田先生にとって少々厳しかったのかもしれない。
「山田せんせー。俺も宿題忘れていいですか? もちろん夏休み明けに~」
そんな山田先生に、夏弥から少し離れた席に座っていた洋平がかるーいジャブをかます。
「おっ、鈴川~。朝から先生を煽るなんてイイ度胸だ。その度胸に免じて、お前だけ宿題を倍にしてやろう」
「は⁉ それのどこが「免じて」なんすか! 勘弁してください、俺とか超忙しいんですけど!」
「せんせー。ぼくも、鈴川くんは宿題、倍で良いと思いまーす!」
「俺も俺も~」
他の男子たちも会話に悪ノリしていく。無論、夏弥ではなく。
「お前らふざけんなっ! なら夏休みも倍の期間もらうわ!」
「それ普通に二学期の授業も溜まってって大変なパターンだろ。あはははっ!」
「まぁ、鈴川だけってのもなぁ。よし、わかった。お前ら三人まとめて宿題増やすかっ! 数学だけ倍増しだ!」
「「「ええ~⁉」」」
洋平と他二名の男子、それと山田先生のコミカルなやり取りに、クラス中がドッと笑いの渦に包まれた。
イケメンで誰とでも仲の良い洋平は、今日も青春の鐘を打ち鳴らしている。
このくらいは日常茶飯事。陽気で快活な洋平は、いつも誰かを巻き込んでその場の空気をぐんっと持ち上げたりすることができる。
そんなクラスの空気を貫いて、夏弥は窓のむこうに目を向けていた。
遠い景色。
窓の外には七月の広い青空とでっかい入道雲。
セミの声は絶えず響いてきている。
窓からたまに吹く風に、掲示板横の日めくりカレンダーがペラッとめくれあがる。
一学期も、もう残すところあとわずかだ。
夏弥は、そこにほんの少しセンチメンタルなものを感じる。
しかしそれでも、平和な二年一組の授業は滞りなく始まるのだった。
◇ ◇ ◇
午前の授業も無事終わり、昼休み。
授業中のちょっぴり張り詰めた空気が、紐をほどいたようにだらんとゆるみだす。
「と、藤堂くん。屋上にいかない?」
「え? ああ、屋上かー。うん、いいよ? いいんだけど月浦さん、俺ちょっと飲み物買ってから行くから、先に行っててくれる?」
夏弥がそう答えるなか、まど子は弁当箱をバッグから取り出しているところだった。
「あ、うん」
「じゃあ、またあとで」
夏弥も、今朝危うく忘れそうになってしまった弁当箱を手に、教室を出ていった。
直後、スマホにラインのメッセージが二通も届く。
「ん? 二通……?」
その二通のうち、まず一通目は洋平からだった。
登校からお昼休みに入るその時間まで、今日はまだ一言もしゃべっていなかったのだけれど、一体何の用事なのか。夏弥は不思議に思いラインのトーク画面を開いてみた。
『夏弥、ひょっとして月浦さんとイイ感じ? 意外なところ攻めるねぇ旦那』
(意外なところって……。俺にも月浦さんにもまあまあ失礼。世の中には言っていいことと悪いことがあるってのにコイツは……)
そう感じる夏弥だけれど、洋平の意見は至極当然なものなのかもしれない。
月浦まど子は、客観的に見ればパッとしない女の子だ。
三つ編みという髪型は、どう贔屓目に見てもゆるふわウェーブや外ハネ系の派手さには見劣りするし、ポニーテールやショートボブみたいなスッキリ感もない。
重たくて、少女趣味で、ツインテールと同じくらい似合う人が限られているヘアスタイルだ。しかも黒縁メガネもそばかすも、ベタベタな根暗感に一役買っているだろうという塩梅で……。
洋平のラインにバツの悪い思いを感じつつ、夏弥はもう一件のメッセージにも目を通す。
もう一件の方は、意外にも美咲からだった。
『手伝う方法思いついたんだけど、ちょっと詳細は待って。ていうか昼休み、どこで過ごす予定なの? 月浦さん一緒?』
どうやら今朝の会話の「夏弥の恋愛を手伝う件」についての内容らしい。
(ダブル鈴川のライン急襲……。まあ一つずつ返していこ)
『洋平は勘違いをしている。月浦さんはとてもいい人。ヤマトナデシコさん』
洋平にその返事を送り、続いて美咲にも。
『それ、訊いてどうすんの? 月浦さんと屋上でお昼ごはん食べる予定だけど……』
と、やや訝しみを覚えつつの返信。
美咲の考えている事が今一つ読めなかった夏弥だけれど、美咲の手伝いたいという気持ちが本当であることは確かなはずだ。
いつも冷ややかでドライな受け取り方しかしない美咲が、料理の恩についてだけは真面目にどうにかしたいと感じていたらしい。
それは、きのう夏弥のベッドに忍び込んできたことからも明らかで。
『ヤマトナデシコさんか~……。まぁ外見はともかく、成績優秀なのはわかる。しかし、なんで山手さんのほう選ばんかったしw』と、洋平から遠慮のない返信が送られてくる。
その数秒後、美咲からも返信が送られてきた。
『月浦さんと屋上ね。わかった。……いや、ちょっと二人の現状をちゃんと見てから決めようと思って。二年生の教室なら厳しいと思ってたけど、屋上なら余裕だね。こっそり見ることにする』
(洋平の方はともかく。美咲も昼休み屋上に来るのか? ……だ、大丈夫かなこれ)
夏弥は不安を覚えつつ、飲み物を買ったあとで屋上へと向かった。




