2-11
「あ、夏弥さん……おかえり」
「あ、ああ。……ただいま」
お風呂上がりの美咲は、グレーの半袖Tシャツに短パンのジャージを履いていた。
相変わらずショートヘアはすっきり乾かされていて、すっぴんの顔もすっぴんかわからないくらい綺麗だった。
しかし、夏弥はすぐにキッチンのこの状況の説明を求める。
「美咲、これはどういうことなんだよ? さすがにあんまりだと思うんだけど」
「ど、どういうことって……」
「何があってこうなったんだよ? ……まさか、悪ふざけでこんな事したわけじゃないだろ?」
「わ、悪ふざけとかじゃないから!」
夏弥の言葉にカチンときた様子の美咲だったが、夏弥の方ももちろん嫌悪感を剥き出しにしていた。
せっかく買ってきた食材達がこんな扱いを受けて、夏弥も気を悪くしないはずがなかった。
(なんで美咲のやつ、ちょっとイラついてんだよ……。こっちがイラつきたいわ。サバの塩焼き食べたかったのにどうしてくれんだ。マジで意味がわからない。……いや、待て。冷静になろう。落ち着いて考えないと、また電子タバコの一件みたいに衝突してしまうだろうし)
「……で、なんだったんだよこれ?」
夏弥は務めて冷静にそう言って、調理台やコンロのほうを指差した。
「きょ、今日は、夏弥さんが遅くなるって言ってたから……」
「……だから?」
「……」
セリフの先を求める夏弥の声に、美咲は口をしばらく閉ざしたままだった。
そんな沈黙に、夏弥のほうがしびれを切らす。
「だから、どうしたんだよ」
「さ、先回りしたかったのよ」
「先回り……?」
「ぁ、だから! あたしがりょ、料理して……晩ごはん先に作っておきたかったんだってば。……いつも、夏弥さんにばっかり料理作らせてるじゃん。たまにはあたしが晩ごはんの用意した方が良いって、ずっと感じてるんだからね……?」
いつになく美咲は感情的な様子だった。
上手く料理できなかったことが、美咲のなかでいくつもの感情を生んでいるのかもしれない。
恥ずかしさや悔しさ、歯がゆさ。そんな、いろいろな感情だ。
だから美咲の顔は赤らんでいたし、うっすら涙ぐんでいたのだ。
「……いや、せめてそれなら相談してくれればよかったのに。前にたまごの件があって、それですっかり料理する気はなくなったんじゃなかった?」
「そ、それは、たまごを割る話に限ってでしょ。別に、他の料理が失敗するとか思ってなかったし……。あたし、小学校の頃は家庭科の成績良かったから」
「小学校の家庭科……」
それはあまりにも信用に値しない話だな、と夏弥は思った。
眉間にしわを寄せ、手で眉根を抑える。
(小学校の家庭科。好成績。……イコールサバが通り魔の被害に? かり〇とうの新発売? ……うーんカオスカオス)
横のカオスが何よりの証拠だと夏弥は思った。
当時の家庭科の先生は疲れていた。絶対そう。
「そ、そしたら、思ってるより全然アレで……」
珍しく美咲は肩を落とす。口角もやや下がりげで、今にもポロっと涙をこぼしそうである。
本当はこんなはずじゃなかった。
本当は、もっと夏弥を驚かせるような、ウマいじゃん美咲! やるなぁ~! と唸らせるような物を作っておきたかったのかもしれない。
そんな夢物語と比べてみると、現実はあまりにも残酷で。
「はぁ……」
夏弥のため息に、美咲は静かな声でボソッと言う。
「……なに?」
「作ってくれようとした気持ちはすごく嬉しい。でもさ、マジで食材もったいないから」
「……」
「サバは、まだいいけど(※全然良くない)こっちの豚肉なんてもう食べられないだろ? どうするんだ。こんなカリカリんなっちゃってもう」
「ソ、ソレは! 確かに焼き過ぎちゃったけど……」
それから夏弥は、とりあえず一つ一つ事情聴取してみることにした。
「――このサバ、包丁が途中で止まってたんだけど?」
「それは、思ったより包丁が進まなくて、途中で諦めた。あとで夏弥さんにやってもらえばいいかなって思って……」
「そ、そっか……で、こっちの味噌の山はそもそも何……? 刺さってる野菜の角度がエグイんだけど」
「今日……サバの味噌煮にしたかったの」
「あ、それでサバと味噌ね……。いや、いくらなんでもこんなに味噌いらないけどな⁉」
「サバ味噌――だと思ってたんだけど、途中で気が変わって、野菜スティックに使おうと思って盛り付けた」
「盛り付けたんだ。へぇ……」
(味噌の山に野菜スティックを突き刺して、果たしてコレを盛り付けたと呼んでいいのだろうか?)
そんなよくわからない疑問が夏弥の頭に浮かぶ。
(……ていうか、野菜スティックって、野菜が主役だよな。味噌が主役になってるじゃんこれ……。塩分過多で軽く死ねるぜ)
おそらくこの一皿で、身体への大ダメージは避けられない。
非常にパンチがきいてて夏弥の食後と老後が心配だ。
「こっちのかりん――黒ずんだ豚肉は?」
「かりん……? そ、そっちは、豚の生姜焼きを作ろうとして……タレを探してるあいだに焦げちゃってて……」
「お、おう……。タレは上の戸棚にあるから、わからなかったのも無理ないけど。けどせめて一回火ぃ止めてくれ……。それで、お隣の白い液体の入った鍋は?」
「そっちは、クリームシチュー作ろうと思ってたの」
「クッ、クリームシチュー?」
「そう。……めっちゃ大変だった」
鍋一杯に入ったソレは、クリーム感のほとんどない液体である。
辞書でクリームシチューを引いてみてほしい。と夏弥はそんなことを思わずにはいられない。とてもサラッとしてそうで、乳酸菌とかカルシウムとか、なんかそういう健康にイイものがたっぷり入ってそうである。
「ど、どうしてこんなにいっぱい?」
まずはそこから、と思って、夏弥は質問することにした。
しっかり順を追って説明してもらうことは大切だ。頭ごなしに怒ったって、何の解決にもならない。
「え。作ってたら固形っぽくなってきたから、薄めなきゃってなるじゃん? 薄めてたら、今度はなんだか薄すぎるかなって。そんなこと色々してたら、いつの間にかもう鍋に入りきらなくなってきてヤバイ! みたいな」
「……」
「これ絶対容量おかしいし」
「そ、そうだな。おかしいな」
「なんで鍋ってこんなにちょっとしか入らないの? 設計ミスってない?」
「えっ」
夏弥は、美咲が鍋側に不満を呈しているらしいと悟り、目の前が真っ暗になった。
(めーでー。見てるか洋平。いやさすがに見てろ洋平。これはマズイ。美咲のやつ、永遠にクリームシチューを作り続けるだけの人生を送るところだったかもしれないぞ。……まだ高校一年生。無限大の可能性があるってのに)
「わ、わかった……」
夏弥は、色々な意味で「わかった」と口にしていた。
「わかっ……?」
「とりあえず、色々やろうとしてくれたことはありがとう。でも、大丈夫だから」
「……ごめんなさい」
今一度、美咲はしゅんとする。
俯き加減で気落ちするその姿は、とても夏弥の同情を誘いそうだった。
ただ、今回は明らかに美咲が悪かった。
そんな事は、夏弥も美咲も十分理解していた。
「とりあえず、この場は俺が片付けるから。美咲はリビングに居ていいよ」
「え。でも…………」
これもまた珍しく、美咲は夏弥の言葉に食い下がる。
いつもなら、こういう場面は「……お願い」と一言こぼして、割とサクッと現場を離れるのがいつもの美咲だ。
美咲は、自分の失敗した出来事に対してもドライな反応をよく見せる。
執着しないし、こんな風に成り行きに抗ったりすることもない。
「……どうしたんだ。美咲らしくないな」
夏弥は、またしても務めて冷静にそう言ってあげた。
(正直、まだ俺の腹の虫は収まってないけど……。それでも、一応、美咲は美咲なりに料理してくれようとしていた事は確かなようだし……)
これが本当に食材を使って遊んだりしていたのなら、さすがの夏弥も美咲を怒鳴りつけていた。自分自身でそう感じている。
しかし良かれと思ってしたことならば、話は変わってくる。
「このサバ、買ったときは塩焼きにしようかなって思ってたんだけど。味噌煮がいい?」
「え……ううん。それは、夏弥さんが食べたいほうでいい……」
「そっか。じゃあ」
そう言って、夏弥はかき氷サイズの味噌のお山から、スプーンで少し味噌を取り分けた。
「味噌煮にするから、向こうで適当に待ってて」
「……ありがと」
調理台に向き直る夏弥の姿を、美咲はじっと見ていた。
夏弥の献立のチョイスに一瞬驚いたあと、言い表せない感情が美咲の胸には生まれていた。
夏弥に「ありがと」と言ったのはほとんど無意識のことである。




