2-05
翌朝、夏弥はいつもよりも少しだけ早く目が覚めた。
朝からすでに憂鬱だった。
昨日、美咲の悩みを解消してあげるためとはいえ、危ない不審者になりきってみることを約束した。そのことに、どうしようもない嫌悪感があった。
「あ、おはよう美咲」
「……おはよう」
夏弥が食事を終えてキッチンで自分の皿を洗っていると、美咲が部屋から現れた。
美咲は、目をこすりながらキッチンスペースのほうまでやってくる。
後頭部のあたりの髪は、相変わらず寝ぐせでぴょこんとハネている。
ピンクのTシャツとダボついたジャージはいつも通り。
すっぴんの顔もいつも通り。なのだけれど、今日は美咲も一段と気だるげだった。
「美咲も」というのは他でもなく。
夏弥も、目が覚めたという割にはまだ疲れが残っているような、しっくりこない気だるさが身体のなかにあった。
「あ、美咲、時間大丈夫か?」
「え?」
夏弥の問いかけにハッとした美咲は、ジャージのポケットからスマホを取り出し時刻を確認する。
時刻はもう七時半を過ぎていて、美咲の身支度にかかる時間を逆算していくと、朝食をゆっくりと食べるゆとりもないようだった。
「急ぐ」
「あ、朝ごはんは? 俺はもう済ませたんだけど」
「はぁ。……ねぇ、夏弥さん。あたしが寝過ごしてるってわかってたなら、起こしてくれてもよくない?」
美咲は、寝坊した自分のミスにイラつきながら、夏弥に思わずそんな事を言ってしまった。
「え? 起こしにいっていいのか?」
「あ……」
言ってから美咲は気が付いた。
夏弥が美咲を起こすということは、自分の部屋に夏弥が入ってくることになる。しかも、自分の寝ているところをバッチリ見られるということでもあるのだと。
「や……ごめん。だ、大丈夫。……それと、今日は朝ごはん食べないから」
美咲は夏弥に背を向けて、そのまま脱衣室のほうへ行ってしまった。
ドアが閉められたその脱衣室から、すぐに歯を磨く音や、ドライヤーの音が聞こえだした。
「俺、今日はもう行くからね」
「……」
身支度を済ませていた夏弥は、脱衣室のドアに向かって大きめの声をあげる。
ドライヤーの音で聞こえていない可能性もあったし、聞こえていても無視をしている可能性もあった。
とにかく、美咲から「わかった」「いってらっしゃい」の返事はなかった。
ごくごく当たり前の塩対応といったところだ。
登校の用意をすべて終えていた夏弥は、そのままスクールバッグを手に201号室をあとにしたのだった。
◇ ◇ ◇
アパートを出てすぐ。はす向かいにある古びたタバコ屋を目にすると、夏弥は以前のことを思い出した。
美咲が電子タバコを吸っていた、というあの衝撃的な事実だ。
夏弥はその件について、感情的な対応をとってしまったことを後悔していたのだけれど、結局はそれが美咲のためにもなっていたらしい。
それは、あの発覚の数日後、美咲のほうからわざわざこんなことを言ってきていたからだった。
「もう吸ってないし、最初に電子タバコくれた子とも、もうカラミ無いから」
その真偽を夏弥が確かめる方法はない。けれど、もう美咲にすべて任せてしまおうと決めていた夏弥からすれば、そのセリフで一安心できたことは事実だった。
ただ、もしあの時の自分の注意のせいで、美咲が一人の女友達と疎遠になってしまったのだとしたら、申し訳なかったという気持ちも夏弥にはあった。
無論、タバコを勧めてくるような友達とは、早晩縁を切ってほしいという身勝手な気持ちもあったのだけれど。
(まぁ、あの件は、俺が踏み込んでいいラインを見誤っていたような気もするしな。家族とか、恋人とか、そういう特別な関係でもないんだから、全部余計なお世話っちゃ余計なお世話なんだ)
そんなことを思いつつ、学校までの道なりを進んでいく。
もうすっかり見慣れた通学路。
鈴川家のアパート201号室から学校までは、最短距離でも信号付きの大きな十字路が一か所あり、それ以外にも誰かと出くわす可能性のありそうな十字路が数か所ある。
七月の太陽は、そんな道のどこを歩いていても夏弥に汗をかかせようとしてくる。
だから歩いて五分もしないうち、夏弥の額に汗の粒が噴き出していたことはほとんど仕方のないことだった。
それを手の甲でぬぐっていると、
「っはよー、夏弥」
「ああ、洋平か。おはよう。……っていうか、朝からテンションン高いな」
「そうか? 俺はいつもの俺だけどなぁ」
夏弥の幼馴染、洋平が後ろから声をかけてきた。
「……その、いつもの俺っていうのも、昨日学校で言ってた「尽くすこと」か?」
「え? ぷっはっはっ! まぁその延長みたいなもんかなー。けどさ、夏弥相手に尽くすだなんて、おかしな話じゃね?」
「あ、確かにな」
「そうなんだよ。でも、こういう風に男子しかいない場面でも、ちゃんと自分っていう役に尽くすことは大事だと思うよ」
「ふぅん。洋平は……なんていうか、役者だな」
「それは褒め言葉か? あ、褒めてないなその顔。あはは。……そういえば、夏弥に一つ言いたかったんだ」
「ん?」
(改まって何を言うつもりだ?)
夏弥は洋平の横顔に目を向ける。その顔はやっぱり掛け値なしに美男子で、美咲のお兄ちゃんらしいなぁと夏弥はしみじみ感じていた。
「役者っていうかさ、自分の役どころを常に意識するようになれば、もうそれが本当の自分なんだよな。人に良い顔して「取り繕う」って、たぶん俺の言ってる「尽くすこと」と、ちょっとちげーんだわ。俺が言ってたのは……なんていうの? 「心掛け」ってやつ?」
「心掛け、か……」
夏弥は目を見開いたような気持ちになる。
すっきりとした表情で隣を歩く洋平。そんな彼は、ワイシャツの胸のあたりを軽く指でつまみ、「あっちー」と心のなかで思ってそうな仕草を見せていた。
「洋平、お前良いこと言ったかもしれない。心掛けって言われると、取り組むときの意識がまた違うわ」
「そうだろ? 俺も昨日、「尽くす」って言っちゃったけどさ。なんか上を見上げるような言い方すぎて違うかなって。ずっとあれから引っかかってたんだよなー」
「見上げるような? でもそれでいいんじゃないのか? 俺は非モテなんだし」
「ばかたれ! 夏弥は別に非モテじゃないだろ。自分から動いてないだけなんだよ」
「そ、そうか?」
「そうそうー。夏弥はまだ手を尽くしてないじゃん? 身だしなみとか雰囲気は大丈夫だと思うけど、自分から女子に話し掛けたりしてないだろ。普通は、男から動かなきゃ恋愛なんて始まらねーの。女子から動かれてる俺とかは特殊なんだって」
洋平のセリフは、受け取り方次第では嫌味たっぷりなのだけれど、夏弥にそう感じさせないのは彼の表情がいつになくとても真面目だったからだ。
「な、なるほどな……。言われてみりゃそうだわ。洋平以外、そんなキャアキャア言われてないもんな、男子」
「ああ。夏弥はそれでいうと、俺のモテ度のせいでそこら辺の感覚が麻痺してんのかもしれないな。ほとんどの恋愛は男子側から行くべきなんだって、そう思っておいたほうがいい」
「へぇー……。男子から行くのが基本なのか。で、しかも相手を見上げるべきじゃないと」
「そういうことっ」
「でもさー、ちょっと前まではそういう恋愛観があったらしいけど、今は女子だって好きな相手には自分からグイグイ行くんじゃないのか?」
「まぁそういう女子もいるけど、ほとんどは今も昔も「待ちの姿勢」なんだって。いくら時代が変わっても、男子よりも女子のほうがずっと繊細で恥ずかしがり屋なんだよ」
「そういうもんかね……」
「そう。だから対等な立場で話し掛けて、まずは仲良くなれるように心掛けるだけ。最初はそれでいいんだよ。まぁ、夏弥ならそこからトントン拍子で彼女の一人くらい作れるだろ。お前が良い奴だってことは、俺が一番よく知ってんだ。だからさ、気負わずに行っていいと思うんだよな。
……てかそもそも、こんな超イケメン君がスポンサードしてるんだから、大船に乗った気でいけるだろー?」
洋平は曇りのない青空みたいな、スカッとした笑顔でそんなことを言う。
こんなカッコイイ、それでいて砕けた会話をサラッとできてしまうのだから、やっぱり洋平はモテるのだ。
もしかしたら夏弥は、洋平がモテる理由を、もっとも身近で体感している男子なのかもしれない。
「スポンサードって、何、お金出してくれんの?」
「あ、いや。サポーター! 俺、サポートするから!」
「おいおい……大船に見せかけた泥舟じゃないだろうな……」
「あっはっはっは! 沈みかけたら一緒に船を乗り換えようぜ」
「あのな、すんごい頼もしそうに言ってくるけど、洋平自体が沈没船なんじゃないかって話であってだな――「あ! 悪い夏弥! 俺、先に行くわ!」
夏弥のセリフを遮って、洋平は前方に見える女子の後ろ姿を追いかけていった。
たぶん、見覚えのある女子だったのだろう。
そんな走り去っていく洋平の背中に、夏弥は一言言ってやりたくなった。
「あいつ……一回氷山に座礁させたろか」




