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◇ ◇ ◇
「ん……あ、朝か」
美咲との同居をはじめて四日目になる朝。
今日は土曜日で学校も休みだからと、夏弥はだらだら惰眠を貪っていた。
ベッドで横になりながら、枕元に置いていたスマホを確認してみると、時刻はすでに午前十時を回っていた。
相変わらず、窓際にさがる白いカーテンは朝日で眩しい。
何気なく身体を起こすと、すぐに声をかけられる。
「おはよう、夏弥さん」
「ん? あ。おはよう」
窓やカーテンのほうに気を取られていた夏弥に向けて、朝一番に声をかけてきたのは、もちろん現在同居中の女子、鈴川美咲だった。
夏弥の寝ていたベッドのすぐそば、リビングのソファに深く腰をかけていて。
綺麗に整っている顔立ちのすっぴんはいつも通りで、Tシャツとジャージのラフな格好は昨日寝る前に見た時のままだった。
彼女は、焼きたてのトーストにいちごジャムを塗って食べていたらしい。
ザクッザクッという気持ちの良い咀嚼音が、美咲の口元から響いてきている。
夏弥はひとまず脱衣室へ向かい、そこで寝巻きのスウェットから部屋着に着替えることにした。
(今日はトーストだけか。たぶん本当はソーセージエッグもまた食べたいんだろうなぁ……。でも作ってあげるか悩みどころだな。美咲はもうすでに食べ始めていて今更感があるし)
今日は一日中快晴らしい。
夏弥は、この天気を利用して、スウェットも洗って干してしまおうと思っていた。
洗濯機に脱いだスウェットを放り込んで洗剤をいれ、電源とスタートボタンを押す。
それから寝ぼけた顔を洗って歯を磨くと、すぐにキッチンへと向かった。
(そういえば今日って、戸島と洋平が会ってるんだっけ……?)
夏弥は、頭の片隅で芽衣のことをぼんやり思い浮かべた。
けれど、その思いは、昨夜の美咲の言葉によってすぐにかき消されていった。
「ちっちゃい頃みたいに、親しくできないのが、なんかその……気持ち悪いっていうか」
「さっき、あたしのこと、親戚よりも近い存在って言ったでしょ?」
「――でも、あたしはすごく距離を感じる」
あの時の美咲の言葉は、夏弥の脳裏に深く刻まれていた。
意識しなくても思い浮かぶくらい、それは印象が強くて。
それは、美咲の言っていたことが、夏弥にも深く共感できる部分があったからだ。
時間が過ぎていけば、仲が良かった思い出なんてものは、それぞれの心のなかからどんどんと消え去っていってしまう。
それがいくら輝くようなものでも、笑えるようなものでも、残酷なその時間の流れには逆らえない。
それらは平等に過去や昔なんて呼ばれ方をする、二度と手に入りはしないものだ。
「今日は料理しないんだな」
脱衣室から出てすぐ、夏弥はリビングにいた美咲に声をかけた。
「料理……しない。どうせ卵とかもまた割っちゃうし」
「言えてる」
「ひど。言えてる、って」
「ふっ。ドンマイ」
「は? それって失敗したときに使う言葉でしょ? 失敗してないんだけど、まだ」
「まだ、な。じゃあ、今からやる?」
「いや、それは……いい。やんない」
「あ、敵前逃亡ですか」
「逃げるが勝ちって言うじゃん。ソレだし。あたし賢いから。……知りたくて試すことはあっても、失敗がわかってて試すことなんてしないから」
夏弥はまたひとつ、クスっと微笑んだ。
あの時、美咲は距離を感じると言っていたけれど、夏弥にはそれが少し違うような気もしていた。
確かに、久しぶりに会ったことでそこに距離は出来ていたのだろう。
高校生になって、顔かたちもお互いに大人びてきて、身体も子供じゃなくなって。性格も考えも変化してきていて。
だから無理に近付けると反発したり、合わないことが起きるのだ。
(距離が空いたからって、それを詰めるべきじゃないんだよな。新しい距離感を、また別に作り出していけばいいってことだ)
夏弥がそんな事を考えてると、美咲はばつの悪そうな顔で言う。
「ねぇ、ずっとそこに立ってられると気になるんだけど?」
夏弥はキッチンスペースとリビングの間の間仕切り付近にそれとなく立っていた。
「ああ、ごめ――
美咲の指摘に夏弥が謝ろうとした、その瞬間。
201号室のインターホンが鳴らされた。
どこの家でも聞きそうな、何のひねりもない平凡なインターホンだ。
「なんだ? 何かの勧誘か?」
独り言のように夏弥はそう声をもらし、玄関へと向かう。
「えっ」
玄関ドアの覗き穴から外を確認すると、そこに立っていたのはなんと戸島芽衣だった。
反射的に夏弥はドアを開ける。
午前十時すぎの、穏やかな外の空気が室内に流れ込んできた。
「戸島じゃん。どうしたんだ?」
「あ、おはようございます、藤堂先輩。やっぱりまだお家にいたんですね」
「ああ。今日は別に外出の予定とかなかったし」
「ウチは、ありましたけどねー」
「……まぁ。そうだろうな」
夏弥は、美咲のその気合の入った可愛らしい服装を見て、彼女が洋平とのデートを終えたあとなんだろうな、と察していた。
(きっと、洋平なりに時間を合わせてあげたんだろうな)
一日デートじゃないことは、夏弥もある程度予想していたことだった。
「あ。あのー、先輩。ちょこっと玄関の外に出てもらえます……?」
「え……ああ。わかった」
芽衣が玄関から室内へ目配せしていたことから、夏弥は芽衣の気持ちを汲んであげることにした。
(たぶん、美咲にはあまり聞かれたくないんだろうな……)
アパートの玄関前、長く伸びるその廊下の手すりに寄り掛かりながら、夏弥と芽衣は話すことにした。
二人の背にしていた外の景色は、朝と昼の中間に生まれる柔らかい陽の光のなかにあった。
そうした景色を眼下に控えた中、芽衣がぽつりと話を切り出す。
「鈴川先輩に渡そうと思ったんですよ、これっ」
「あ、ドーナツね……」
芽衣は、夏弥の前でカバンからタッパーを取り出してみせた。
一度は洋平に手渡した、ピンクで可愛らしい入れ物だ。
「はい。でも藤堂先輩の話と違いましたよ? 鈴川先輩、別にドーナツ好きじゃないって言ってました」
「え⁉ マジで……?」
夏弥は、自分が何か記憶違いでもしているのかと不安になった。
けれど、そんなはずはない。
あの、初めて洋平と出会った小学一年生の春。確かに洋平は「ドーナツうまいじゃん!」と、アホっぽい声をあげていた。
あの一声があったから、夏弥と洋平は遊ぶようになった。つるむようになった。
あの一声があったから、小学校で「ドーナツ珍事件」なんていう奇妙な事件が囁かれるようになった。
「マジですよ~! ちゃーんとウチがこの耳で聞きましたっ!」
この耳、と言いながら芽衣はなぜか片方の手のひらを上に向け、親指と人差し指で輪を作っていた。
「いやお前それ、……お金を意味するジェスチャーだろ?」
「え? なんかこれ、耳っぽくないですか? よく耳をイラストにすると「6」って描くじゃないですか~」
「捉え方新しいなっ。……いやまぁ、とにかくごめん。俺のアドバイス、無意味だったんだな」
「そんなに肩落とさないでくださいよ~。むしろ先輩にとっておきの情報を持ってきたんですからっ」
へにゃっとした笑みを浮かべながら、芽衣は夏弥に朗報を告げた。
それは、今日会った時に洋平から教えてもらったことだった。
◇
「ごめん。俺、そこまでドーナツが好きってわけじゃないんだ」
「え……。えええーーっ⁉」
芽衣が驚きの声をあげたあと、洋平はひと笑いしてからまたさらに話し始めた。
「俺じゃなくて、美咲がすごく好きだったんだよね。ドーナツ。小さい頃、夏弥がからかわれるたびに俺がうまいじゃんうまいじゃん言ってたから、それでアイツに誤解させてたかもしれないけどー」
「えっ、そうだったんですか⁉ みちゃんが……!」
「そうそうー。それで、なんとなく俺も一緒に食べること多くて、夏弥がいろいろ言われるたびに反応しちゃって――
◇
「――っていうことみたいですよ?」
「そ、そうだったのか……」
夏弥は完全に誤解していた。
小さい頃の記憶は曖昧なものが多いけれど、その中でも洋平と初めて会った時のことは、一番はっきりと覚えているつもりだった。
いや、その記憶は正しいのだ。ただ、受け止めたときの印象があまりにも強くて、そのまま刷り込まれるように、「このイケメン君はドーナツが好きなんだな」と思い込んでいたわけで。
「でも、先輩に想いを伝えることはできましたし、ウチが鈴川先輩とああやって二人きりで話せたことも、藤堂先輩のおかげだと思ってます。ほんとにありがとございましたっ!」
「いや……。そんなに俺、大したことしてないだろ? 結果的に、戸島の力にはなれてなかったわけだし」
「そんな事ないですよ! だからこれ、お詫びといったらアレですが、差し上げようと思って!」
「え? いいのか?」
芽衣はそう言って、ドーナツの詰まったそのタッパーを夏弥に手渡した。
「はい! ちゃーんと食べてくださいねっ」
ふふっと笑う芽衣の黒髪が、優しい風にそよそよとなびいている。
悔いも何も残ってなさそうな芽衣のその表情に、夏弥は少しほっこりとした気持ちになった。
洋平に想いを伝えた結果、それがどうなったのか。
冴えない夏弥でも、その芽衣の様子からある程度予想できていた。
きっと恋人として付き合うことにはなっていない。
けれど、仲の良い友達として付き合おうよ。くらいのことは言われたのかもしれない。
ドーナツを受け取った夏弥は、ハッと気が付いたようにこう言った。
「あ、これって結局、俺にドーナツを処理させたいだけじゃね?」
「え? んもう、なんのことですか~?」
「おいコラ戸島」




