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◇ ◇ ◇


 夏弥と美咲が201号室に着いても、外は未だに雨降り模様だった。

 どうやら今日は、夜までじっくり降り続けそうな勢いである。

 もう今日は引きこもろう。夏弥がそう思い靴を脱いだタイミングで、美咲が声をかけてきた。


「ちょっと買い物いってくるから」


「え? ああ、いいけど。……雨強いから気をつけて。さっきみたいボーっとしてたら――


 夏弥が言葉を言い終える前に、玄関のドアは閉まってしまった。


 何を急いでいたのか、夏弥にはまるではわからなかった。

 美咲は傘を手にして、すぐにアパートを飛び出していってしまったのだった。


 一人残された夏弥は、今日学校で洋平から受け取っていた自分の服に着替えることにした。


「おおっ」


 袖に腕を通すまで夏弥は少し疑問だったけれど、この組み合わせはありだなと素直に関心した。

 普段大して出番のなかった服達が、洋平のチョイスによって生き生きとしているように見える。


 馴染みのイケメン君にはひょっとするとコーディネーターの才能があるんじゃないか、と夏弥が思ってしまうほどだった。


 それから、誰に言われるでもなく晩ごはんの支度を始める。


 夏弥はもうすっかり主婦業が板についている。

 今日も今日とて冷蔵庫から野菜を取り出し、彼は料理に取りかかり始める。


 三日もたつので、もうほとんど自分の住んでいたアパートと同じくらい彼は勝手を理解していた。


 そうして夏弥が謎の嫁力を遺憾なく発揮して十分がたつ頃。

 一体どこへ行ってきたのか美咲がアパートに帰ってきた。


「ただいま」と、その一言だけが小さく玄関のほうから聞こえてくる。


「おかえり」


「あ、また晩ごはん……」


 廊下を歩いてキッチンにやってきた美咲が、晩ごはんの支度中だった夏弥の背中にそう声をかける。


「いや、もうこれからは俺が作るよ。これからはっていうか、これからもっていうか」


「そう?」


「ああ。卵以外ももったいない事になるんだろ? 知ってる」


「ひど。まぁ、そうなんだけど」


「フッ」


 たまらず夏弥は笑みをこぼした。

 ひど。と言いながら、美咲の表情が大して悲しみや怒りにゆがんでいなかったからだ。

 このやり取りのおかしさは、夏弥と美咲の関係ならではなのかもしれない。


「何?」


「いや。ちゃんと料理の腕がないこと、認めるんだなって」


「まぁ事実でしょ」


 二人は、二人のことを客観視できていた。

 夏弥と美咲。どちらが料理をすればいいかなんて、火を通すより、もとい火を見るより明らかなことだった。


 意固地になっていたのは朝の「だまって!」くらいなもので、彼女は基本的には合理的な性格だ。冷たくて、合理的で現実主義。


 温情や人情とは無縁な美少女。

 いや、美咲のなかでは、表面に出さないだけそれが手厚い情や気遣いなのだという考えなのかもしれない。


 小さい頃は、もっと心優しい女の子だったような気がする。夏弥は今更そのように思う。

 小さい頃から変わらないのは、性別と名前と料理の腕くらいかもしれない。


 それから数十分ほど、夏弥はそのまま料理をしていて、美咲は自分の部屋にこもっていた。


 時刻が五時半を迎える頃、美咲は部屋を出て迷うことなくキッチンの方まで足を運ぶ。

 そして料理をしている夏弥の横顔に向けて、つぶやくようにこう言った。


「先にお風呂に入る」


「え、ああ」


 今日はいつにも増して入浴の時間帯が早い。

 雨天とはいえまだ外も明るい午後五時半。

 ただ今日に限っていえば、この早さは雨のせいなのかもしれない。


 美咲の髪も制服も、そのままじゃ風邪をひいてしまいそうなくらいには濡れている。

 むしろ今まで部屋で一体何をしていたんだと親御さんに叱られそうなくらいだ。

 夏弥がその心配をひとつ感じたように、美咲も自分で風邪を引くリスクを感じたのだろう。


(先に入る宣言って、そういえば初日は無かったんだよな。そう考えると、最近はちょっとした一言もしっかり言うようになってきたし、距離感が変わってきてるのかな)


 二人の距離感には、確かに変化が起きている。それがかすかな変化だろうと、一緒に暮らす夏弥にはその違いがはっきりと肌で感じられていた。



 さて美咲がお風呂に入っているあいだに、夏弥の料理はある程度できあがっていた。

 あとはご飯が炊けるのを待ち、盛り付けるだけ。


 本日のメニューは、夏弥特製卵とじカツ丼だった。


 だし汁をしっかり吸い取った玉ねぎは、この上なく味が染みていて半端じゃない。


(また相手の胃袋を鷲掴みにする罪な美食が生まれたな……)と夏弥は自惚れた。

 しかし大目に見てあげたい。彼が人生で自惚れられるのは、本当にここくらいしかない。


 料理がひと段落したので、夏弥はリビングのソファに移動した。


「あっ」


 いつものモスグリーンのソファに何気なく座ってから、夏弥はついにやってしまったと思った。


 なんと美咲の部屋の戸が開いていたのだ。

 引き戸の可動域のうち、八割近く開いてしまっていた。


 もちろんこれは夏弥が悪いわけじゃない。

 どちらかといえば、悪いのは美咲である。


(美咲も、週末で疲れてたんだろうな。繰り返される日常に対する気の緩みっていうか)


 その通りである。

 美咲は美咲で、現代のストレス社会を生き抜く花のJK。


 その一見華やかに見えるハイスクールガールの日常は、ぴえんだのぱおんだの、わかりみの鎌足だのといった、ハイレベルな言語能力を使わなきゃやってられないほど苛烈さを極めている。


 結果、想像を絶するようなJKの気苦労から、こんな形で美咲のボロが出てしまったのかもしれない。

 夏弥の前では冷たいようでも、学校では本心を隠し続けているのだろう。


(以前、俺の前でだけ本当の姿でいられるかもとか言ってたしな……。多少のだらしなさもそのうちの一つ……? ていうか、これで部屋の中が見えてしまってるのはもうどうしよ平八郎の乱なんですけど……)


 これでもまだ積極的に見ようとは思っていないのだから、夏弥はとても紳士的な男子だ。


 移動してしまえばいい。

 クッションの上にでも、ベッドの上にでも。

 移動すれば視界には映らなくなる。

 けれど、一度ソファに座った状態から腰をあげてわざわざ移動するのもおかしくて。


 夏弥は表現しがたいジレンマに駆られていた。


 視界の一部に未開の地が映りこんでいる状況というのは本当に不思議なもので、いくら頭でわかっていても、夏弥の視線はアリ地獄のようにそこへ吸い込まれていくのである。


(……どうしたんだ。なんでこんなに俺の視線は、あの部屋に引っ張られるんだ?)


 それは、思春期の男の子ならもっともな反応だった。

 夏弥は、結果的にその引力に抗えなかった。


 ソファに浅く腰をかけたまま、彼は視界に見えていた美咲の部屋のほうへ、とうとう目を向けてしまったのである。


 美咲はまだ入浴中。


 別に誰にとがめられるわけでもないし、同じシチュエーションを他の男子が体験しても、ほとんどの男子は同じように視線だけそちらへ向かわせるだろう。


 一般論を持ち出せば、それこそ夏弥の行動は肯定されてしまうはずだ。


(……戸が開いてる分しか見えてないけど、結構綺麗にしてるんだな美咲のやつ。というか、あんまり物がない? フローリングに茶色のラグ。その上に小さめなローテーブル。ぬいぐるみとかコスメとか、もっとそういうのでごちゃついてるのかと思ってたんだけどな……。シンプルな感じだし。……あれ?)


 夏弥が注視するなか、不可解な気持ちにさせるソレが目に飛び込んできた。


(いや待て。あれはさすがに……)


 思わず、夏弥はソファから立ち上がって、美咲の部屋に近付いた。

 それまで、彼女の部屋を覗いたりすることは、プライバシーを侵害する行為だとして控えていたけれど、さすがにこれは我慢できない。そういった彼なりの考えが、身体を突き動かしていた。


 気が付くと夏弥は美咲の部屋に入っていた。


 女子高生の部屋というだけあって、リビングにはない優しい香りが夏弥の鼻をせめてくる。


 本当であれば、夏弥はここできょろきょろするはずだった。

 けれど、今は気持ちが一点に集中していて、それどころではなかった。


 それなりにしゃれっ気のあるガラス板のローテーブルの上に、ソレが乗せられている。


 改めて夏弥は思った。決して見間違いじゃなかったのだと。

※あとがき

 先ほど確認したのですが、日間ランキングに載っていて驚きました( ゜Д゜)!

 お読みいただいた方はもちろんのこと、ブクマや評価ポイントを入れてくださった方々、本当にありがとうございます!

 これからも、当小説を楽しんでいただけたら幸いです。

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