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◇ ◇ ◇

 

 その日の昼食がドーナツ五個になったことは、夏弥の予想していなかった展開だった。


 ただ、恋愛相談を終えた結果、芽衣は自分の取るべき行動を知ることができたようで、満足気だった。


 明日は休日で、彼女は早速試してみると言っていたけれど、それが吉と出るか凶と出るかは夏弥にもわからない。


 午後の授業中、窓の外に映る空模様は、いよいよ具合を悪くしたように暗く沈んでいった。


 下校のチャイムが鳴り響く頃には、すっかり雨音をあちこちに立て始めていて。

 傘の有無で、クラスメイト達のテンションが二極化するようなことになっていた。



 夏弥は朝の自分が冴えていたことを嬉しく思いつつ、昇降口の傘立てに突っ込んでいた自分の傘を抜く。

 雨だろうと心配ご無用。台風というわけでもないし、ぴちぴちチャプチャプ、音でも鳴らして帰ってやろうと思っていた。


「ん?」


 冴えた自分に酔いがちだった夏弥の前方。昇降口の玄関を出てすぐのはね出し屋根の下、見覚えのある女子が一人で立ち尽くしている。


 首元のすっきりしている茶髪のショートボブカット。

 両サイドをふんわり内巻きにしているそのヘアスタイルは、朝にも見た姿だ。

 華奢な後ろ姿も夏弥には確かに見覚えがある。


 夏弥がその女子を鈴川美咲だと気が付くまで、そう長い時間は必要としなかった。


「傘、持ってってなかったんだな」


「え」


 彼女のすぐ真横に立ち、夏弥は雨降りの空を見上げて話し掛けた。

 夏弥の言葉に反応した美咲は、一瞬だけ顔を確認して、すぐにまた空の雨雲に目を向ける。


「まぁ……降るって思ってなかったから」


「友達は――


「……」


 ――先に帰ったんだよな」


「!」


 曖昧な会話の切り出し方をした夏弥は、すぐにそのセリフを文字通り間延びしていただけのように言い替えた。


 美咲にはあまりたくさん友達がいないのかもしれない。

 そんな悲しい事実を、美咲のわずかなその沈黙から夏弥は察していた。


「違うのか?」


「ううん。そう。友達は先に帰っちゃった」


「そっか」


 やっぱり今日は冴えている。

 夏弥はそんな風に自分を評価をしつつ、手に持っていた透明なビニール傘を広げた。


「入る?」


「うん」


 雨はまだ降り止みそうになくて、美咲の他にもはね出し屋根の下で恨めしそうに雨雲を眺めている生徒達がいた。


 そんな彼らを尻目に、二人は一つ傘のしたでゆっくりと帰り道を歩き始めた。



 校門を出て雨に濡れた街を五分ほど歩いていると、美咲のほうから話を持ち出してきた。


「今日、芽衣と会ってた? お昼に」


「え? ああ。会ってたけど。なんで知ってんの……?」


「別にそれはいいじゃん。ねぇ、もしかして夏弥さん、芽衣とライン交換した?」


「あ、それは……した」


 嘘をつく必要もないと判断して、夏弥は素直に答えた。


「ふぅん。じゃあさ、あたしとも交換してくれない? ライン」


「ああ、別にそれはいいけど。どうして急に……?」


「だって、家でのこととか、あれこれ芽衣に話されたらイヤだし。何か確認したい時だってあるでしょ」


(うっ。俺って信用されてないんだなぁ……)


 美咲の顔をちらっと一瞥する。


 一つの傘の中は想像以上に狭い。


 傘の周りを雨のカーテンが囲んでいて、優しい密室みたいなものがそこに生まれていた。

 そんな優しい密室のなかで、二人はラインを交換した。美咲のアイコンには何も画像が設定されていなかった。


 二人の相合傘の周りを、細い針のような雨がたくさん降り続けている。

 雨の日のあの森のような匂いが、二人の鼻先をずっとかすっていた。


「夏弥さん、芽衣に手、貸してるの?」


「手って?」


「洋平のこと。恋愛相談とか受けてるんじゃないかって思って」


(美咲、鋭いなぁ……)


 美咲は雨に打たれている前方のアスファルトをぼんやりと眺めていた。

 それとなく見ている、といった様子で、どこかアンニュイな表情だった。


 美咲の綺麗な顔立ちには、どうしてかそんな表情がとてもよく似合う。とても絵になるから、夏弥は歩きながら少しのあいだだけ見惚れてしまっていた。


「まあ……な。相談、受けたよ。少しアドバイスもしてあげたし」


「そうなんだ」


 二人の会話に、ちょこちょこと静けさが挟まっていく。

 まるで二人は、会話の途中でわざと雨音を聞くために、合意の上でしゃべる事をやめているかのようだった。


「何か報酬があった?」


「いや、特にないけど?」と夏弥は答えながら(当初はあったんだけどな)と頭のなかでひっそりと思い出していた。


「ふぅん。じゃあそれって、手を貸す必要なかったんじゃない?」


「いや? そうでもないだろ。あの子はあの子で一生懸命だし、真面目にあいつと付き合いたいって思ってるんだから」


「そんな女子たくさんいるでしょ」


 美咲はとても冷静に、客観的に物事を言い切る。


 自分の兄だからという私情を抜きにして、洋平が女子からモテるという事実をただ真っ直ぐ、ありのまま受け止めているのだ。


「たくさんいるうちの、たった一人でしかないよ。戸島芽衣なんて女の子は」


「……」


「勝ち目のない勝負だ。って。そう言ってあげるほうが良くない? 叶うはずない願いだって。夏弥さんだってその方が楽じゃん。折れてもらった方が後々ウザ絡みされる可能性もないし」


「ウザ絡み」


「ウザ絡みだよ。夏弥さんに後押しされて、(まき)をくべられて、燃え上がって告白して。まぁそれで芽衣が失敗するとするじゃん? そしたら失敗を夏弥さんのせいにされて、色々変な仕返しされるリスクだってあるんだよ? こういう展開、ずっと洋平のそばに居たらわかることでしょ」


「……まぁそうだな」


 美咲の言っていることは確かに当たっている。


 そういう性格の悪い女子が、世の中にいる事も夏弥は知っている。

 夏弥と美咲は、その意味でいえば同じ立場だと言えるかもしれない。


 例えば、洋平に対するA子ちゃんの片想いがあったとする。

 それをサポートしやすいのは、洋平と付き合いの長い夏弥や美咲だ。


 そして、サポートしやすいという事は、同時にこの二人はそのA子ちゃんから逆恨みされやすい立場でもある。


 さてここで、夏弥と美咲の条件をさらに比べてみよう。


 女子が恋愛のサポート役に選ぶとしたらどちらなのか。


 異性である夏弥。同性である美咲。


 答えは非常に簡単である。

 A子ちゃんが、恋愛のサポート役に異性の夏弥を選ぶことはほとんどない。

 なぜなら、様々なリスクがあるとわかっているからだ。

 そんな事は女子なら誰でもうっすらとわかっていることだ。

 余計な恋愛沙汰を生むことは、本来の目的の邪魔にしかならない。


 芽衣でさえ、おそらくはわかっている。


 そう考えてみれば、美咲は夏弥よりもずっと片想いのサポートを頼まれやすくて、一部女子から逆恨みを買う機会が多いのだという事になる。


 夏弥は、以上を踏まえた上でなお、セリフを続けた。


「――けど、だからって協力してやらないのは違うなって俺は思うよ」


「え?」


 夏弥の言葉に、美咲はすぐに反応して顔を向けた。


「美咲が、人の気持ちより自分の気持ちを影で優先してることは知ってる。でも、思い悩んでる人間をあれこれ言わなくたっていいだろ。


 戸島は、美咲が協力してくれないから、多少リスクに感じても俺に協力を求めてきたんだろうし。一年生の後輩女子が、上級生の男子に恋愛相談って。……それって普通に勇気がいることなんじゃねぇの?」


「……」


 美咲はしばらくのあいだ無言だった。

 夏弥の言葉を噛みしめていたのか、まったく違うことを考えていたのかはわからない。


 二人は、あと少しで鈴川家のアパートに到着しそうだった。


 雨は依然として、二人の周りに降り続けていた。



 二人のすぐそばを、後ろからやってきた一台の車が通り過ぎそうになる。


 夏弥は、このままだと道路側を歩いていた美咲が車に当たってしまうことを予見して、傘を持ったまま道路の端に寄ろうとした。


 その時だった。


「おい! 美咲、車っ!」


「え?」


 車の存在に気付いていなかった美咲の腕を、夏弥は慌ててつかみ、自分のもとへと引き寄せた。


 引き寄せられた美咲は、驚く間もなくそのまま夏弥の胸に飛び込む。


 一拍おいて、車の飛ばした水しぶきが、雨の線を宙で切る。

 かろうじて二人にその水しぶきはかからなかった。


 夏弥が傘を一度動かしたせいで、彼女の茶髪は雨に濡れてしまっていた。

 そのしっとりと濡れた髪が、夏弥の肩口に当たっている。


「何してんだよ。車の音、聞こえてなかったのか?」


「ごめんなさい。……なつ、夏弥さん」


「いや、いいんだけどさ」


 美咲は、夏弥に寄り添っていても、顔色ひとつ変えていないようだった。


 夏弥のほうは内心ドキドキしていたけれど、小さい頃にもこんな事があったような気がしていて。


 はっきりとした記憶じゃない。

 けれど、洋平は小さい頃から自由奔放なところがあって、いつも妹の美咲をほったらかしにしていた。

 だから夏弥がその場その場でお兄ちゃん役を代わることがあった。


 自分を「なつ兄」と呼んでいたのは、こんな風にめんどうを見てあげていた時だったかもしれない。

 夏弥は、今自分にくっついている友達の妹を見て、そんなことを思い出していた。


 二人の周りで、雨は延々音を鳴らし続けている。


 美咲は思わずぎゅっとつかんでいた夏弥の制服を、そのまま少しだけ離さずにいた。

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