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◇ ◇ ◇
芽衣を見送ったあと、夏弥はアパートへ戻る道中で、ペットボトルの飲み物を数本買った。
美咲に頼まれていたものだ。
「なんでもいいんだけど」と美咲は言っていたけれど、夏弥は一応の配慮として、前に彼女が飲んでいたミネラルウォーターと、その他にお茶を買うことにした。
自分用に炭酸飲料も買って、鈴川家の201号室へと足を向ける。
空を見上げると、厚そうな雲の隙間からイイ感じに月が出ていた。
一人で歩く夜の道が、意外と好きかもしれないと彼は感じていた。
ふと、ついさっきまでしゃべっていた事を思い出す。
芽衣から女の子の紹介をしてもらえる。先輩として、後輩の女子に尽力してもらうだなんて、ちょっと情けない話のような気もするけれど。
それでも嬉しい気持ちは確かにあった。
その視界に映る明るい月みたいに、自分のこの先もちょっとは明るくなっているのかもしれない。
そんなクサいことを、詩人肌でもないのに思ってしまう夏弥だった。
201号室へ戻り、玄関を開けてすぐ。
短い廊下を進み、キッチンの方へ顔を出してみる。
流し台のところに、美咲が立っていた。
制服姿から部屋着に着替えたようで、ミントグリーンのTシャツに、下はまたしてもジャージを履いていた。
「ただいま」
「あっ――」
夏弥が美咲に声をかけたその瞬間、美咲は手に持っていたソレを、今まさに流し台に捨てるところだった。
「えっ」
びちゃびちゃと音を立てて美咲が捨てていたのは、なんと芽衣に奢ってもらったはずの抹茶ラテだった。
うぐいす色の液体と白いホイップクリームとが、容赦なくカップからシンクへ投げ出されていく。
「な、何してんの……?」
夏弥が驚いてしまうのも無理はなかった。
彼女は、八割強残っていたソレを迷いなく捨てていたのだ。
夏弥は、どういうつもりで美咲がそんな事をしているのかわからなかった。
(な、何? もしかして、時間がたって氷でも溶けたのか? 薄くなったから捨てたとか、そういう事……?)
「見られちゃったね」
「……」
美咲のその言葉に夏弥が黙り込んでいると、彼女はさらに言葉を続けた。
「あたし、抹茶ラテ好きじゃないんだよね」
(好きじゃない? さっき芽衣と一緒にいた時、そんな事一言も言ってなかったよな……?)
「好きじゃないんだよ」と美咲は繰り返す。
「……好きじゃない」
未だに、夏弥は美咲の考えていることがわからなかった。
ただ、彼女のセリフを繰り返し自分でも言ってみるしかない。
美咲は淡々としていて、機械みたいに冷たく次の言葉を吐く。
「そうだよ。あ、ちゃんと飲み物買ってきてくれたんだね。はぁ、よかった。口直ししないと」
「口直し」
「……」
美咲は、夏弥からミネラルウォーターを無言で受け取ると、戸惑うことなくキャップを開けて飲み始めた。
「っはぁ。……なに? 別におかしな事じゃないでしょ。友達なんて上辺だけの付き合いでしかないんだから」
「……そっか」
夏弥には、美咲の行なっていたことが、一線を越えているように思えて仕方なかった。
人の好意を無下にしてしまうのは見ていて心が痛む。
美咲が今飲み物を捨てた行為は、どうやら夏弥の思っていた理由とは違う理由で捨てられたもののようで。
「氷が溶けて薄くなったから捨てたわけじゃないんだな」
「……そうだよ?」
「じゃあ今日、美咲が戸島さんと帰ってきた時、玄関口でそのままバイバイしてたら、迷わずソレを流し台に捨ててたってこと?」
「そうだけど、それがどうしたの?」
「いや……」
美咲は夏弥の目をじっと見つめて、少しの間だけ次の言葉を待っていたようだった。
その顔は恐ろしいくらい綺麗だ。
悪い女だからとか、小悪魔だからとか、そんな表現は適しそうになかった。
「なんでそんなひどいことを。とか思った?」
「え」
沈黙し続ける夏弥にしびれを切らしたのか、美咲のほうからしゃべりだしていた。
「あたしも、こういう行為が一般的にはひどいことだって、それくらいわかってるよ? わかっててやってるし」
「な、なんで……わかっててやってんだよ……?」
「いや、だから人前ではしてないじゃん? それくらい配慮できるよ」
「人前じゃなくてもさー……なんていうか、その」
言葉に言い表せないもどかしい気持ちが、夏弥の胸のうちに溜まっていた。
(どう説明したらいいんだろう。伝えられる言葉が見つからない……)
「裏でもするなって言いたいの? それって難しいでしょ。ていうか、そろそろご飯食べない?」
「……ああ、とりあえず食べるか」
結局、美咲に促されて夕食をとることにした。
夏弥がちゃんと時間を取って作っただけあり、定食屋のメニューのような品々を並べることができた。
白いご飯。わかめの味噌汁。野菜炒め。
豚肉の生姜焼き。青菜のおひたし。などなど。
豪華というわけではないけれど、昨日のカレーライスオンリーに比べたら充実はしている。
「いただきまーす」
「いただきます」
先ほどまでよく話していたためか、今日は美咲も「いただきます」と声に出して食べ始めていた。
またしても美咲がソファ。夏弥は床のクッションの上。
一人一人、違うエリアで食べているようだった。それでも、囲んでいるテーブルは一つだ。
おかずのために箸を伸ばせば、共有の皿をつつく形にはなっている。
しばらく、二人とも無言で食べ続けていた。
お互い一言もしゃべらないせいか、モノクロウサギの壁掛け時計から、カチカチと針の進む音が響いてくる。
その後「さっきの話だけど」と会話の口火を切ったのは、意外にも美咲のほうだった。
「人前でしてないんだから、良いでしょ」
「俺は……しようと思わないけどな。少なくとも、そうなるなら抹茶ラテは奢ってもらわない」
「ふぅーん」
それからまた、数分の沈黙と、食べ物を口にする時間が挟まる。
「じゃあ芽衣が奢りたくて仕方ないって言ってきても、その気持ちは汲んであげないんだ」
「……ああ。捨てるのがわかってるならな」
抹茶ラテを捨てていた現場。
その現場を夏弥に見られてしまったことが、よほど美咲の中に変化をもたらしていたのかもしれない。
だから珍しく彼女は、そこから夏弥に別の話題をふり始めた。
「――ねぇ、例えば、自分が信号待ちしてる横断歩道があるとするでしょ? それをさ、後ろから歩いてきた人が、自分みたいに立ち止まらずに、平気な顔で横断歩道を歩いていったとしたら。そしたら、夏弥さんってどうする?」
「えっ…………。そういう時は、待つ。俺は待つタイプかな?」
「じゃあもしこれが自分だけじゃなくて、複数人で待ってたとして、洋平とか他の仲の良い人が赤信号でも渡り始めたら?」
「……」
美咲は興味深そうな顔で、もしくはいじわるな自分に酔っているような顔で、夏弥の目を見つめていた。
夏弥は、こんな時でも美咲の顔が確かに美少女であることを恨んだ。
ちょっとだけ鼓動を速まらせつつも、夏弥は律儀に問いに答える。
「俺なら……肩とか腕をつかんで止める気がする。生憎、洋平はちゃんと赤で止まる真のイケメン君だけどな」
「……へぇ」
「美咲は……人が見てなかったら平気で渡りそうだね」
夏弥はさっき捨てられた抹茶ラテのことを思い出して、そう言った。
「うん」
「でも悪いってわかっててやってるんだよな?」
「そうだよ? あれ、いや……ちょっと違うかも」
「違う……?」
言ったばかりの言葉を、美咲は引っかかりでも見つけたように否定する。
そんな彼女の様子を、夏弥はご飯を食べながら見つめていた。
「そう。……誰も見てない時なら、良いも悪いも無いって感じ。でも人付き合いには、良いとか悪いとか、そういうのがある事はわかってるよ?
本当の自分なんて出しちゃったら、みんなぶつかり合って平和に過ごせなくなるでしょ。だから一般的に小学校は喧嘩が多いし、高校は喧嘩が少ないんじゃない? 口喧嘩も含めてさ」
「確かに……。妙に説得力あるな、それ。人付き合いか」
美咲の意見を聞きつつも、夏弥はこの美咲の自然な対応に、違和感を覚えていた。
それは、昨日と今日とで、美咲の態度があまりにも異なるような気がしていたからだ。
今の軽い口ぶりなら、少しだけ昨日の美咲の態度について、訊いてみてもいいのかもしれない。
夏弥の中でほんの少しだけ、そんな魔が差してしまったのだ。
「じゃあ美咲が昨日、俺に冷たい態度を取っていたのは、悪いってわかっててやってたのか?」
「え」
夏弥は、その問いに美咲がどう答えるのか、興味津々だった。
また冷たく跳ねのけられてしまう可能性も十分にあった。しかし、
「――いや、夏弥さんの前だったら、良いも悪いも無いって感じ……?」
「⁉」
夏弥は耳を疑った。
美咲のその言葉は、「誰も見てない時の美咲」の態度と同じだったからだ。
美咲の言葉に夏弥が戸惑っていると、彼女はミネラルウォーターを一口飲んだ。
やはりそれはコマーシャルに使われても納得してしまいそうなくらい、絵になっている。
その後、彼女は少しだけ言葉を付け加えた。
「もしかしたら、あたしは夏弥さんの前でだけ、本当のあたしで居られるのかもしれないね」
「やめろ? 意味深なことを言うの」
「え。そういう意味じゃないけど」
夏弥は少しだけ、美咲の気持ちを理解できたかもしれない。
いや、一日目に比べれば、確実に理解できたほうだ。
たった二日目にして、彼女の冷たさの裏側を、少しだけ覗き見たような気がしていた。
彼女は冷たいわけではなく、傍若無人に過ごしているだけなのかもしれない。
なぜか夏弥の前でだけ。