5-17
◇
夜。
見慣れたリビングの壁掛け時計は、モノクロウサギの描かれた文字盤上で二十三時を指し示していた。
今夜は水を打ったように静かだった。
この201号室の住人、藤堂夏弥は、今日幼馴染四人で遊んだ時のことを思い出していた。
(美咲が泣きながら言うなんてな)
それは少し、いや、かなり彼の想定を飛び越えた振る舞いだった。
鈴川美咲はクールな美少女だ。
さっぱりとしたショートボブも、けだるげな持ち前の雰囲気も、言葉少なにやり過ごす日ごろの態度も。
すべてが「クール」を象るために用意された美咲の外見的特徴だったはずだ。
(……あそこまで感情を表に出すなんて)
それだけ想いが募りに募っていた。
そう理由付けが出来てしまうくらい、あの時の美咲は余裕なんてなくて、必死だった。
――――俺も見習う部分があったな。
夏弥はリビングの窓際ベッドで仰向けになりながら、しみじみとそんなことを感じていた。
電気を消していたため、目の前には暗くて捕らえどころのない天井だけが映っている。
そして、今夜はそのまま眠ってしまうものだとばかり思っていたのだが……。
「夏弥さん……もう寝たの?」
「っ!」
突然暗闇の中から、美咲の声が聞こえてくる。
「どうしたんだ?」
夏弥はベッドの上で上体を起こし、美咲がいるであろう場所に目を向ける。
美咲の部屋と通じている引き戸の方だ。
「……ねぇ、飲み物買いにいかない?」
「……もう時間、遅いけど」
「……。いいじゃん。一緒に来てよ」
「……そうだな」
◇
着替えてアパートを出ると、街は嘘みたいに静まり返っていた。
どこか寂しいのは、二人の履くスニーカーが小さく足音を響かせているから。
今日は星が出ていない。
ずしんとした雲に覆われているのかもしれない。
空には、微妙に色の異なる雲が折り重なっているようで。
「雨……降らないよね?」
「わからん。でも天気予報だと、今夜は朝までずっと曇りだって話だぞ」
「ふぅーん……」
夏弥の数歩先を歩く美咲は、紺色のチノパンに楽そうなシャツを着ていた。
ラフ過ぎない良い格好だと夏弥が関心していると、彼女は振り返りながらしゃべりだす。
「近くにミネラルウォーター買える自販機、あったっけ?」
「さあ、どうだろ。俺は記憶にないけど。……コンビニは?」
「……今は、あんまり他の人に会いたくない」
「……」
含みのある言い方に、夏弥は返す言葉が見つからなかった。
夏弥はなんとなく、この外出が、飲み物を買うためだけのものじゃないと察していた。
今日の夕方、美咲が泣いた後も、四人は特別変わった様子を見せなかった。
しかしそれでも、彼らの心に美咲の言葉が突き刺さったことは確かだった。
事前に美咲の気持ちを知っていたはずの夏弥でさえも、それは例外ではなくて。
「あのな、美咲……。その……今日のことだけどな……」
「えっと……夏弥さん、確認していい?」
「?」
夏弥の言い掛けた言葉の先を読んでなのか、そこへ蓋をするかのように美咲は質問する。
「夏弥さん、あたしの彼氏だよね?」
「あ、ああ。そうだけど……?」
「そうだよね。じゃあ……」
その、じゃあ、の後に続く要求が、夏弥はてっきりとんでもないレベルの要求かと勘繰ってしまったのだけれど。
「あたしと手、繋いで?」
「……?」
「ちょっと。なんで固まってんの?」
「あ、いや。なんかもっとすげぇ事言われるのかなって」
「ふふっ、なにそれ。……『もっとすげぇ事』、期待してたの?」
「……」
それから夏弥は無言で美咲に近付き、彼女の左手を握る。
自分の手の中に、美咲のひんやりとした手が収まる。
女の子の手はどうしてこれほどまで小さく、柔らかく、壊れそうなのか。などなど、いくつも感想が浮かんできたのだけれど、夏弥はそのどれも口にはしなかった。
手を繋いだまま歩き始めると。
「――――夏弥さんの手、おっきぃね」
「美咲に比べたらね」
「悔しい。……でもちょっと、安心する……」
「……お役に立てて光栄です」
「ふふっ。でしょうね♪」
二人はそのまま夜道を歩いた。
三條高校へ通う時の、いつもの道。その途中。
小路を入ったところで、まるで二人を待っていたかのように古い自動販売機が見えたのだけれど。
「……残念だったな。ここにはミネラルウォーターがないらしい」
「そうだね。これじゃ、まだ帰れないね」
「……?」
夏弥は隣に立っている彼女のことが、不思議で仕方なかった。
自動販売機の発する光を浴びていた美咲の横顔が、なぜかあまり残念そうには見えなかったからだ。
むしろ、ここでお散歩のピリオドを打たれなかったことに、嬉しさを感じているような表情で。
「ここ以外だと、今度はアパートの逆方向になるんじゃないか?」
「あるの?」
「確かね。ミネラルウォーターがあったかは覚えてないけど」
「……遠いならいい。ここで他の、買うことにする」
そう言って、美咲は自動販売機を眺めていた。
夏弥は財布から小銭を出し、奢ってあげることにした。
前もってどちらがお金を出すのか決めていたわけでもないのに、二人は無言でそのようなやりとりを済ませる。
そこに、奢られる側の遠慮や、奢る側の気遣いはなかった。
美咲は夏弥に買ってもらったペットボトルを手にし、すぐにキャップをひねる。
「いい香りする」
「ん?」
「ほら」
そう言って、美咲は夏弥に開栓したペットボトルの先を向けた。
「……柑橘系?」
「ピンクグレープフルーツだってさ」
ああそうだ。
この匂いはグレープフルーツの匂いだ。と夏弥は思い至る。
柑橘系のさわやかさが、どことなく今の美咲には必要なもので、処方されるべき薬かもしれないと夏弥は思っていた。
「……」
美咲がゆっくりとそれを飲む。
隣を歩きながら、夏弥はそんな彼女の横顔を見ていた。
澄ました顔で、簡単そうに飲むものだから、まるで昼間の出来事を忘れているんじゃないかとすら思った。
二人の進む道の先に、電灯付きの電柱が等間隔で並んでいる。
きっと、この電柱を何本か通り過ぎれば、いつものアパートに辿り着くのだろう。
そしたら、このちょっとした夜のお散歩デートも終わりを迎える。
また寝間着に着替えて、ベッドで眠ったら、いつものなんてことない朝がやってくるんだ。
夏弥がそんな想いに耽っていると……。
「夏弥さんも、飲む?」
「いや、今はグレープフルーツの口じゃないんだよな」
「……ふぅん」
それから一呼吸あって。
「……ねぇ、夏弥さん。……こっち向いてくれない?」
「え?」
何気なく、本当に何気なく、夏弥は美咲の方に顔を向けたはずだった。
しかし、向けたすぐ先には美咲の綺麗なお顔があって。
二人はそのまま、止めようもなくキスをしてしまうのだった。
「……っ!」
美咲は夏弥の肩に手を乗せ、少し背伸びをしていた。
いじらしい仕草に、夏弥はキスよりもドキドキしていて。
「……んっ……。んは。……これで、夏弥さんもグレープフルーツの口になったでしょ?」
「……~~っ!」
――――別にキスなんて、これまでに何度もしてること。
――――今更どうってこと。
――――美咲の柔らかい唇なんて、もう自分は慣れっこだと思っていたのに。
「……なった。……グレープフルーツの口に、なりましたから」
夏弥はなぜか、このキスが、ここ最近で一番恥ずかしいものだと感じたのだった。