5-14
――ねぇ、次は左側のほっぺにも描いていい? 洋平。
ほんの少しだけ。
そのセリフを口にした時の美咲は、今までで一番素に近かった。
夏弥にはそう思えていた。
だからだろう、彼は次のようなことを言いたくなってしまう。
「秋乃。俺の顔は、お前が担当してくれないか?」
「っ⁉」
夏弥が優しく口にしたそのセリフに、それぞれ三人とも反応する。
洋平と美咲だけじゃない。
秋乃にも、夏弥の意図はちゃんと伝わっていた。
「……」
――洋平の顔は、美咲がみる。
夏弥が暗に示したその意見を、強く否定する者はいなかった。
美咲は夏弥の顔を、今一度じっと見つめている。
それでも夏弥は、美咲に声をかけなかった。むしろそのまま、秋乃に対してしゃべり続ける。
「ずっと放置されてて困ってたんだ。ここら辺で、秋乃のお手並み拝見といきたいんだけど……いいよな?」
「い、いいよ!」
上ずった声で秋乃が即答する。
夏弥は変な気を回してるわけじゃない。
四人で遊んでいた。そのうち、二組のペアで何かしていて、それがたまたまペアを入れ替えることになっただけ。
これは、本当にただそれだけのこと。
一緒に遊んでいれば、そういうことだって起きるものだ。
小学校のころ、そこには何もハードルが無かったはずで。
誰と誰が二人組になっても、等しく良好と呼べる関係性だったはずなんだ。
――と、この時、そのように思っていたのは、夏弥だけじゃなかったのかもしれない。
「それじゃ、なつ兄の顔もデコっていくからね!」
洋平を差し置いて、秋乃は夏弥の前へと移動する。
そのまま、ファンデーションの塗られた夏弥の顔に手を伸ばしていき。
「デコるっていうか特殊メイクな。……て、また俺にも血管を這わせるのか?」
「うーん、そうだねぇ。それはそれでワンパターンだし……。あ! なつ兄の顔、ボコボコにしていい?」
「え?」
さすがに一瞬、夏弥は困惑する。ボコボコとは、つまりタコ殴りという意味に違いないが果たして。
「青タンメイクもアリでしょ♪」
「あ、ああ……そういう意味ね。びっくりするから普通に」
なんという残酷な誤解を生ませるのだろう。
字面だけ見ると、お兄ちゃん相手になかなかグロテスクなことを言っていた。
「ほらほら、始めるからまたじっとして!」
「はいはい」
(……けど待てよ? そもそも青タンって、オバケに必要なメイクか?)
夏弥は正直腑に落ちなかった。
けれど高校の文化祭だし、細かいことを気にしたら負けの精神でこの場は目を瞑ることにしたのだった。
夏弥と秋乃は、このように楽しげな空気をキープしつつ、特殊メイクに興じていた。
メイクを行なう側と、行われる側。
一対一の関係。
そんな二人のすぐそばには、当然残されたもう二人がいて。
「……」
「……」
夏弥達とはまるで雰囲気が違う。
洋平は口をやや堅く食い締めて、美咲から目をそらしている。
黙り込んでいるあいだ、二人は夏弥達の存在が遠いように感じられていた。
見えない空気の壁があって、その壁が、二人と藤堂兄妹とを仕切っているような。
すぐ隣にいるのに、届かない。
目的を果たすまでこの壁は消えてくれない気がした。
「? ……わ、ポスコが乾いてパリパリになってきたな」
「!」
洋平の頬に塗ったインクが、薄い部分から乾き始めてきていた。
右側の笑窪ポイントに、小さなヒビが見える。
美咲はこの状況に背中を押される形で、ぽつぽつと彼に話しかけていく。
「……あたしが続き、塗るから。じっとしててよ」
「お、おう」
乾いた箇所を触りそうになっていた洋平。
ただその手をすっと膝の上に引いて戻し、メイクの続きを美咲に施される。
洋平の頬に、美咲が色をつけていく。
左の頬にも血管を作る。
ポスコの筆先は角ばっていて、角度さえ付ければ細く塗ることもできる。
ややテクニカルだけれど、まったく出来ないわけでもなかった。
「……」
「……血管フェチ」
唐突に洋平がそんなことをつぶやく。
「は?」
「さっき思った。美咲、血管好きだったんだなって」
「……」
洋平の言葉に、美咲は肯定も否定も示さなかった。
「だから何?」とも「違うんだけど」とも言わない。
黙々と、そして着々と特殊メイクを進めていく。
この空気感、凛としたものと呼ぶのか、冷酷なものと呼ぶのか。
名付けようもなく、ただビジュアルに優れた兄と妹の、冷たい「ごっこ遊び」みたいなものになっていた。
「……」
兄の肌をこれだけ間近で見るなんてこと、数日前まであり得なかった。
十数センチというその距離に、美咲は今更ながらそう感じていて。
思春期を迎えたことも、数年前から不仲だったことも、いろんな事情が二人の関係を引き裂く理由になっていた気がする。
性格も、身体も、価値観も。
ガタガタとして不揃いなまま、兄妹という狭い型に無理やり押し詰められている気がしていて。
「早く終わらせて、ドーナツ食べようぜ」
「……それは…………食べるけど」
美咲は手に少し力を入れたのだった。
そこからまた二十分後。
四人は休憩を取ることにした。
夏弥と洋平は、塗られた顔を妹達にパシャパシャ撮られ、二次元に永久封印されるという恥辱の憂き目に遭ったわけだけれど、それにしてもここらで一度すべて洗い落とせることに安堵したものだった。
「はぁ、それにしても疲れたな」
「なつ兄、ドーナツどれ食べる~?」
洗面所で顔を洗い終えた夏弥は、リビングに戻るなり選択を迫られる。
得意満面な藤堂秋乃。
その手には、洋平の差し入れ。ミスドのケーキ箱が備えられていて。
パカリと開けていて。
「俺は一番最後でいいよ? 選ぶの」
「そう? じゃあ私と美咲ちゃんが先に選ぶね♪」
秋乃はタタタ……と足音を立て、クッションの上に座っていた美咲にも声をかける。
「ねぇ美咲ちゃーん――
美咲はすでに目を光らせていて、待ち遠しそうにしていた。
すると、夏弥のすぐ後ろ、脱衣室から洋平も続けて出てくる。
「夏弥……俺、ちゃんとポスコのインク落ちてるかな?」
「ん?」
「水性ペンとは言っても、鏡じゃ確認しきれない所もあるからなぁー」
「大丈夫だと思うよ。それより洋平。……ドーナツ、ありがとな」
夏弥はさりげなく、洋平に感謝した。
「気にすんなって。俺も食べるつもりなんだしさ」
メイク中に感じていたかゆみのせいか、それとも感謝されたことへの恥ずかしさからなのか。洋平は夏弥の隣で鼻の頭をポリポリとかいてた。
彼の視線の先には、ローテーブルでケーキ箱を開ける妹達がいる。
箱の中のドーナツに目を奪われているらしく、美咲も秋乃も、口をやや半開きにしている。
「ちゃんとオリジナルドーナツ入ってるね、美咲ちゃん。……ゴクリ」と秋乃。
「そうだね。てか、オリジナル一つしか買ってきてないとか……宣戦布告?」と美咲も続けて不満をもらす。
しかし、
「でも…………ミスド買ってきたのは良いじゃん。洋平のくせに」
洋平の目こそ見れなかったけれど、美咲はボソッと小声でその嬉しさを認めたのだった。