5-13
◇
「わりぃ遅くなった!」
陽気に謝辞を述べながら201号室へやってきたのは、美咲の兄・鈴川洋平だった。
シンプルなシャツに気取らないミニアクセ。
いつものナチュラルパーマは彼のアイデンティティ然としていて、勝手知ったる1LDKをずんずん進んでくる。
「遅いよ洋平。……って、なに買ってきたんだ?」
夏弥はやれやれといった様子で迎える。
「これだよ、これ。途中で食べたらいいかなと思って」
「!」
リビングへやってきた洋平の手には、テイクアウトした「ミスド」のケーキ箱。
おしゃれな筆記体のロゴマークに、美咲もおもわず瞠目する。
「ドーナツ買ってきたのか。確かに、ちょっとひと休みするタイミングでお菓子とか食べたいかもなぁ」
「あはは。だろ? でも休日のせいか、朝からすでに混んでてさー……って、秋乃どうした⁉」
洋平は、夏弥の腕の中で真っ白になっていた秋乃に声をかける。
抜け殻も同然の秋乃だったけれど、洋平の持ってきたミスドに気が付くと、
「あ、洋平……。ミスド……いいね……。いや、今コスメティックブルーでテンションが落ち込んでたんだよ……」
「……は? コスメティックブルー?」
洋平も夏弥と同じく、その不思議なワードに疑問符を浮かべる。
「ぐ……ま、まぁ気にしない気にしない! 美咲ちゃん、道具ありがとね。これなら充実したメイクテストができる気がする!」
「うん」
秋乃は感じていたコンプレックスを払いのけ、夏弥の腕も振りほどく。
空元気も元気のうちとばかりに。
それから続けざま、夏弥と洋平に声をかけ、
「じゃ、なつ兄と洋平。そっちに座って!」
「ん? 到着早々、俺もメイクされるの?」
「うん。ていうか洋平、ミスド以外にも何か買ったの? その手に持ってるビニール袋……」
「ああ、実はさ、文化祭で顔に装飾するってなったら、まぁこういうのもいるだろうなぁと思って――
洋平が他にも持っていたもの。
それは、図画工作や美術でお馴染みのアレだった。
「……ポスコ! わざわざ買ってきてくれたんだ⁉」
「ふっふっふ。これでもちょくちょくアルバイトしてたからな。お金はそこそこ持ってるんだ。色塗りといえばポスコは定番だろ? 中学校の行事でも、おでことかほっぺにマーク描いたりしてたしな~。同じ要領で使うのも選択肢のひとつだ」
ポスコとは、顔料インクを使った水性ペンである。
鮮やかなその発色の良さと使いやすい色のパターンは折り紙付き。
学校側がよく美術室に用意していることも手伝って、学生である彼らにはかなり馴染み深い商品だ。
洋平の買ってきたポスコ(※十色セット)を、夏弥と秋乃は早速手に取ってみることにした。
「懐かしいな、なんだか」
キュポッ。とどこか耳ざわりの良い音がして、新しいインクの匂いがリビングに広がりだす。
「うん。小学校の頃とかめっちゃ使った記憶あるよ私」
「……」
夏弥と秋乃は、ローテーブルの上でポスコをあれこれいじっている。
対して、ソファの反対側でクッションに腰を落ち着けていた美咲は、二人のその様をただじっと眺めているだけだった。
「ちょっと試しに、落書きしてみる?」と言い出す秋乃。
「お、いいなそれ。何か落書きに使える紙は……」
「うん? それなら夏弥、このミスドのチラシ使うか? さっき買った時もらったんだけど」
洋平がポケットから四つ折りにしてあったチラシを取り出す。
「ちょうど良さそうだな。それに試し書きしてみるか」
ミスッタ☆ドーナツのチラシの裏に、夏弥達は簡単な線や円形を描きだしていった。
赤や青、緑と、多種多様な色彩がチラシの裏をにぎやかにしていく。
「いいな。おばけって言えば、こういう緑とか青は必ずいるもんなぁ」と夏弥。
「これなら顔色悪いのとか、流血表現とか、簡単に幅も出せそうだからいいね!」
「だろ? まぁ学校の文化祭なんだし、リアリティ持たせすぎるのも違うだろうしなー」
美咲以外の三人は、それぞれポスコの色味にどことなく安心感を覚えているようである。
「……」
和気藹々とするその光景を見ていた美咲は、そこから視線をチラリと洋平へ移す。
途中からやってきた洋平に、思うところがあるのだろう。
気を利かせて買ってきてくれた水性ペン。
その水性ペンを見ていると、自分の持ってきた化粧用品よりもずっと有用だと思えてしまう。
事実、文化祭でポスコのような水性ペンは欠かせないものだ。
高校の文化祭で、本格的な特殊メイクなんて本来誰も求めていないのかもしれない。
それを、洋平が気付かせてくれた気がして。
「洋平、その……」
「……?」
美咲は、洋平に話し掛けそうになっていた。
おばけ屋敷なんて、本当にお遊びといえばお遊びだ。
特殊メイクといっても、そのメイクが不完全だったり、素人っぽさ満載であったりしても、むしろそれが味になる。
だから洋平に、そうだよね。楽しむことが大切だよね。と素直に言いたかったのだけれど。
「どうした?」
「……別に、わざわざ買わなくてもよかったでしょ」
つぶやくように否定してしまった。
失敗した。
美咲はまた少し、素直になれなかったのだ。
「……。ま、まぁ、あって損はないだろ」
洋平には、まだ美咲の気持ちがわからない。
いくら夏弥が四人で遊ぶと言ってくれて、それに美咲が賛同したのだとしても。それは、夏弥と美咲が恋人という特別な糸で結ばれているからであって。
決して、兄妹で仲直りしたいという美咲の気持ちの証明ではない。
洋平にはそんな気がしていた。
「美咲。それに秋乃。メイクはお手柔らかに頼むわ」と、ここで夏弥が横から彼女らに声をかける。
「任せてくださいよ旦那ぁ~」
声をかけられた秋乃は、すっかり調子を取り戻していた。
女子としてのコンプレックスよりも、今からお兄ちゃんズの顔をいじくり倒せることへの好奇心にかき立てられているようである。
夏弥と洋平は、秋乃と美咲の手によって順次特殊メイクを施されていくことになった。
◇
かくして二十分後。
特殊メイクの練習台一号・二号が誕生した。
リビングのローテーブルを脇に寄せ、数枚敷かれた引っ越し用ダンボールの上にお兄ちゃんズは鎮座している。
美咲は白粉がないと嘆いていたけれど、近頃のファンデーションを侮ってはならない。
塗ってみればあら不思議。
白粉ほど極端ではないにしても、割といい仕上がりで。
「うわ、なつ兄の顔やっば……。悲しいことでもあった? て感じだね。……あははは!」
「秋乃、そんなに笑う? …ぷふ」
「……あのな、お前ら早いところ次のステップにいけ? 何も、俺は笑わせるために顔を献上してるわけじゃないんだわ」
「だよな、夏弥。……あ、待って。俺ちょっと鼻かゆくなってきたんだけど……」
土気色のメイクを施されていた洋平は、顔に力を入れてみる。
うんしょ。うんしょと。
顔をしかめたり鼻の下を伸ばしたりすることでかゆみの軽減を図っているのだけれど、端から見れば変顔体操でしかなかった。
「洋平……ぷはは! イケメンの面影なくなってるぞ?」と夏弥は思わず噴き出した。
「オバケのメイクじゃ仕方ないだろーよ⁉ ……うわ。それより、またヤバイことになってきた」
「今度はどうしたんだよ?」
「……眉間のトコもかゆくなってきたわ。いよいよ引っかきたい」
夏弥が洋平の顔をチラチラ見ているあいだも、目の前には美咲と秋乃が座り込んでいる。
そうして、二人の顔に化粧用具を走らせたりして。
下地はおおむね完了している。建築で言うところの基礎工事、完了である。
「洋平! 絶対かいちゃダメだからね⁉ さっきようやく下地が終わったんだから!」
「そう言われてもな……ぐぬ……」
秋乃はここぞとばかりに忠告する。
積み上げてきた努力を、些細なかゆみ如きで台無しにされてたまるか。そんな心理なのだろう。
「うーん……というか、思ったより生々しくならないかも……。美咲ちゃん、ちょっと見てくれない?」
「うん? あ、それって血管?」
「そーそー。ポスコのおかげもあって、お肌の色はもう満足なんだけど。今度はそこに青い血管を這わせてみたいんだよね。……けど、難しくて。……コレじゃない感がすごい」
洋平の顔に化粧(※落書きに近い)を施していた秋乃だけれど、自分の理想とする特殊メイクにはほど遠いようである。
「皮膚から透けて見えてる血管、ていうと……青というより、実際はうすい緑とか白じゃない?」
お困りの秋乃に美咲が助け舟をだす。
夏弥の顔に伸ばしていた手を止めて、隣に座る洋平へと視線を向ける。
「えー、青じゃなーい? ほら、私の血管、青いよ?」
「うーん……ビミョい」
美咲は、秋乃が差し出してきた手首の筋をジロジロと眺めて。
「大体、この繊細な色をポスコで出すのは無理くない?」
「うんうん……。まぁ……いっか! さっき洋平も言ってたけど、そこまでリアリティ追い求めても仕方ないしね。文化祭だし!」
「それね。しかもこれ、リハーサルだから。……むしろ練習ってことでどんどん描けばいいんじゃん?」
「だね。描こう描こう! 美咲ちゃん、お手本プリーズ!」
こうして、秋乃を助けるという形で、美咲は洋平の頬にも水性ペンを向けだす。
「……」
急に放置されはじめた夏弥は、そのまま無言で隣の作業風景を見つめる。
「……」
夏弥と同じように黙り込む洋平。
そんな彼を相手に、美咲と秋乃は四苦八苦しているようである。
「あ、単純に色重ねるだけだとダメだねコレ」
「台無しになってるじゃん秋乃」
「くそぉ~……。第一、筆先が太いんだよポスコ‼ 血管は細くてなんぼなのに!」
「お前ら……血管にいつまでかかってんだよ」
さすがに夏弥がしびれをきらし、軽くツッコミを入れる。横にいた洋平もそれに続き、
「夏弥の言うとおりだな。あっはっ――
その瞬間。
「洋平! 動かないで!」
「ひっ‼」
洋平が笑おうとしたその瞬間、彼の顔に集中していた美咲が突然声をあげた。
しかも、さらに美咲の言葉は続いて。
「今いいところなんだから動かない!」
「は、はいっ‼」
たまらず、ピシッと背筋を正す洋平。まるで軍隊のようである。
「そうだよ洋平! 今、一番イイ血管なんだから!」
一番イイ血管が描けていることに、どうやら秋乃も興奮気味で。
あにはからんや、もしかするとこのシスターズは血管フェチなのかもしれない。いや、世の中的には、一部女子が健康的な血管フェチであるとも言うし、きっと珍しいわけではない。
「と……っと、よし! ねぇ秋乃。これイケてない?」
「おぉ~! うまい! 今までで一番イイ血管だと思う! すごく脈打ってそう!」
「でしょ? ふふ」
メイキングされた洋平の顔に対して、秋乃と美咲はどこか満足げな顔付きをしていた。
「ねぇ、次は左側のほっぺにも描いていい? 洋平」
「え?」
さて美咲は流れるようにそう尋ね、今後は反対側の頬にも手を伸ばそうとしていた。
無論、洋平に対してだ。
「あっ」
そこで不意に、美咲の伸ばしていた手が止まる。
ハッと我に返った彼女は、直後、強烈な恥ずかしさに襲われる。
つい口走ってしまった言葉に、顔が赤くなる。
じわじわと、頭のなかで状況の確認が行われていくのだけれど、美咲は恥ずかしくなっていく一方だった。
そんな美咲を前にして、
「……いいけど。どうせ右側はもうやられてるしな」と、洋平が返事をする。
「……そ、そう」
気まずくなって、美咲は洋平から目を逸らすしかなかった。
洋平も洋平で、急に距離感を詰められたことに少し動揺していた。
未熟な思いとつかめない距離感が、そばにいる夏弥の目にもしっかりと映っていた。
秋乃と楽しくしゃべっていたからなのか。
それとも、夏弥が「手助けする」と言ってくれたからなのか。
もしかしたら、そのどちらともなのかもしれない。
その理由ははっきりとしていなかった。