5-07
◇
水を打ったように静かな夜のこと。
鈴川家201号室の一室。
美咲の部屋で、夏弥と美咲は見つめ合っていた。
お互いの心拍数は、この穏やかな夜の空気に反してやや高め。わがままに打たれるその心拍が、夏弥も美咲も耳の内側から響いてきてやまなかった。
「……そういう恥ずかしいこと、こんな時に言うのズルくない? ……あざといんだけど」
美咲はたまらず目をそらす。
頬は赤く染まっていた。夜の闇の中で目も泳いでいた。
「っ……けど本当にそう思ってるからな。本心なんだからどうしようもない」
夏弥のその言葉が区切りのようになって、以降また二人は黙り込む。
学習机に置いてあった卓上時計は、そのチープな秒針を確実に進めていて。
無機質に、カチカチと音を立てていて。
このシチュエーションなら、きっとまたキスの一つから始まって、恋人のふわふわとした甘い行為に及ぶことも可能だったのだろう。
でもそれは、夏弥が今ここで一番に優先したいものじゃない。
四人がこれからどう過ごしていくのか。それは恋人とナニガシかを致すのと同じくらい、夏弥にとっては大切なことだった。
「美咲自身、どうすればいいと思ってる? ……元通りフツーの兄妹に戻るために」
夏弥に問われ、美咲は静かに、そしてためらいがちに答えだす。
「それは……。……。とりあえず、四人でまた遊ぶようにすればいいんじゃない? うまくいくかわかんないけど」
「そうだよな。シンプルだけど、結論はやっぱりそれしかないって俺も思ってた」
「思ってたんじゃん。誘導尋問っていうか……夏弥さん、あたしのこと試してる?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「ふぅーん。ていうかさ……てっきりキスしたいのかと思ってた」
「っ!」
唐突な誘い文句に夏弥は顔を赤らめるしかなかった。
ああなんということ。
寝巻き姿の美咲は少しだけ首回りがはだけていて、キスなんてワードのせいで余計に夏弥の視線を呼び寄せてしまう。
壊れそうな白い肌と鎖骨の起伏。
つやっぽいというより、とても儚く淡い様子でそこに見えていた。
「彼女の寝込みにやってきて。布団までちょっと剥いだりして。……キス、したい?」
「っ……真面目な話してる時に何言ってんだよ……」
「これだって真面目な話だし。……ほら、夏弥さんだって……ドキドキしてるでしょ」
「~~っ!」
二人とも、向けあっている顔が熱くてたまらない。
それまで「仲良しどうのこうの」話していたはずの空気が、地続きで甘いものへと変化する。
継ぎ目が見えないくらい自然な移り変わり。
その甘さを今一度確認するためなのか、美咲は夏弥の胸にそっと手をあてていた。
「心臓、すごく速まってるけど大丈夫?」
「かっ……。わざわざ、口に出して言うんじゃありません」
「……誰かさんがあたしの口、塞がないからでしょ?」
「……」
「…………塞げば?」
「この……」
夏弥はもうだめだった。
美咲のそのぷるんっとしたかわいいお口を塞ぐしかなかった。
身を乗り出して、美咲の頬に手を添える。
「あっ……」
美咲は消え入りそうな小声をあげたけれど、それでも夏弥は止まらず、小生意気な彼女の口にそっと自分の口をあてがった。
「んんっ……」
「……」
しっとりとした唇同士が、相手を求め合っていた。
すると、さっき話にも出ていたあのシャンプーの香りが、夏弥の鼻先をかすめる。
一緒に暮らすようになってから、何度もかすめていた桃色の香り。
嗅げば、ふんわりぽわぽわとした優しい気持ちになってしまう。
そして、どことなく切ない。切なくて、脳から下された電気信号に身体の先まで絡めとられてしまいそう。
美咲の匂いが人の形を得て、両手を伸ばして、夏弥の頭をそっと抱きしめているかのよう。
溶けてしまいそうになるIQを、理性でなんとか保つ。
保てていた夏弥の理性は称えられるべき強度かもしれない。
「っんは…………美咲。真面目な話さ、仲良くしなさい」
「ふふっ。……もう欲望に溺れそうって顔してない? してるよね」
「……うるせー」
メロメロにぼやけていく意識をかき分け、どうにか夏弥は主張する。
キスとキスの合い間。
唇が離れた隙を狙って「仲良くしなさい」とそう告げたのだけれど。
この隙間を縫わなければ、あとは甘くて切ない空気に理性がもみ消されてしまう気がした。
幼馴染の四人が、心から仲良くできたらどんなに楽しいか。
小学校の頃遊んでいた時のように、仲良くできたら。それはどんなに明るい未来か。
想ってみるだけで、夏弥の目頭が熱くなる。
「……」
夏弥の気持ちを悟ったのか、美咲は色めき立つ感情をちょっぴり抑えてこう応える。
「真面目な話ね……。……そっか。わかった」
「……! あ、案外素直だな」
「夏弥さんが言うように、できることならあたしだって普通の兄妹くらいに戻りたいって気持ちは……あるから。それを、助けてくれるんでしょ?」
「うん。……じゃあ洋平には俺から連絡しておくから、明日からよろしくな」
「よろしくって言われても、具体的にどうすればいいのかわかんないんだけど……?」
「ああ。そこも、ひとまず取っ掛かりは考えてある」
「ふぅーん……取っ掛かりね。……。ろくでもないこと、考えてないよね?」
「そのへんは安心していい。これ以上ないくらい、今の俺は現実的で冴え渡ってるよ。美咲の下着が何色なのかも当てられそうなくらい、冴えてる」
「なっ……! じゃあ何色なのか言ってみて? 本当に冴えてるか確かめてあげる」
美咲はふふんっと鼻を鳴らし、得意げなご様子。
「そうだな……。あ、わかった! この前みたいなコバルトブルーだ」
「ふふ。残念ながらハズレ。絶対ぜ~~~ったい当てられないと思うんだけど?」
「じゃあ何色なんだよ? ……もしかして、シースルー……とか?」
「シースルーじゃないし! ……もう自分で……直接見れば?」
「……そうさせてもらう」
そこまで言うならと、夏弥は生唾を飲み込んでから美咲の着ている服に手をかけた。
正解は、白地にかわいいかわいいさくらんぼ柄。
完全にギャップ萌えでグハッてしまう夏弥だった。
◇
「――――で。それでこれが、現実的な取っ掛かり?」
三條高校の屋上。
その、誰もが利用できるだだっ広いスペースに、夏弥と美咲はいた。
時刻は十二時半をまわったところ。
二人は木製のベンチに腰をかけていて、お弁当を手にしている。
その日の朝、夏弥が用意しておいたお弁当だ。
「ああ、そうとも。もうすぐここに学年一のイケメン君と謳われた鈴川洋平。並びに、藤堂家の悪しき血筋を全うに受け継いでる藤堂秋乃がやって来る」
「ふっ、なにその紹介の仕方。悪しき血筋って。……まあでも、こうなることは大体予想ついてたけど、いくらなんでもストレート過ぎない……?」
四人で遊ぶと結論が出て、その翌日の昼休みにこれだ。
美咲が辟易とした表情を見せるのも無理はないのだろう。
時折そよ風が二人のもとに吹いて、美咲の履いているスカートや夏弥の首元のネクタイをはためかせる。
「時には荒療治ってのが必要だと思って」
「はぁ~。……荒療治という名のパワハラでしょ? 風も結構強いし、あのバカも来るみたいだし……あたし的には散々だけどね」
「うっ……まぁまぁ。そう言うなって」
美咲の抵抗感たっぷりな言葉が、夏弥の心に突き刺さる。
だがそんな反論を口にしておきながら、美咲はそのベンチから離れる素振りを見せなかった。
(やっぱり素直じゃないな。洋平と会うことが本当に嫌だったら、すぐにでも校舎に戻るはずなのに)
夏弥は前述のように、ラインで洋平と秋乃に声をかけていた。
洋平には
『昔の四人でお昼ごはん食べるから屋上に来てくれ。気まずいだろうが、これがまず貸し一つ返すということで頼む』
と送り、妹の秋乃にも、
『昔の四人でお昼ごはん食べるぞ、屋上に来てくれ。洋平ならもう心配ない。知ってるかもしれないけど、洋平は改心して女子と連絡を絶ったんだ』
そのように話をつけておいた。
送ったラインへの反応速度にはそれぞれバラつきがあったけれど、二人とも事情を汲み取ったのか、元々四人で遊ぶことに引き寄せられる想いがあったのか、そこまで反発することなくこの誘いを受けてくれたのだった。
「それにしても、今日が偶然晴れでよかったね。夏弥さん」
美咲は、お膝の上に乗せていた弁当の包みをあけつつ、そう口にした。
「晴れ……ね」
横に座る夏弥は一考あって空を仰ぎ、美咲の言葉を復唱する。
復唱ののち。
「ああ、思ったより晴れたよな。昨日の長雨が嘘みたいだ」
本日の天候は薄明るいくもり空。であるけれど、夏弥達の住む三條市で言えば、この程度の空は「晴れ」と認識することが多いらしい。
太平洋ではなく日本海に面する東北の地方都市には、こんな悲しい共通認識があったりなかったり。
「降ってたらココ(※屋上)は使えなかったと思うんだけど。そしたら場所はどこにしてたの?」
「屋上が使えなかったらそん時は体育館のギャラリーかな、と思ってた」
「……」
「まぁ、お尻がひんやりすることと、ホコリっぽいことを除けば、おおよそ二重丸のベストプレイスだろあそこ」
「その二点でかなり減点なんだけど⁉ ……。てか体育館のギャラリーって、ひょっとしてあの狭いギャラリー?」
「そうそう」
「あの体育館のギャラリーって、人とすれ違うのもやっとなくらい狭くない? あんな所で四人集まってご飯食べるとか……死ぬんだけど」
「じゃあ今日の晴れで命拾いしたなぁ」
「……ほんとね。やっぱり屋上でよかったのかも」
夏弥はくもり空の細い隙間に見えていた青空を仰ぎ見る。
そんな彼の隣で、美咲は満更でもなさそうにお箸を弁当箱へと向けていた。
屋上で談笑と食事を進める。
二人のそばに、予定していたイケメン君は間もなくやってくるはずである。