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5-04

「……ねぇ夏弥さん、あたしそろそろお風呂に入ってもいい?」


「ん? ああ、いいよ。片付けは俺がやっとく」


「ありがと」


 食事も済んだ午後七時半。

 おずおずとそんな一言二言を夏弥に投げ掛けて、美咲は脱衣室のほうへと向かう。


 そしてリビングを抜ける間際、彼女は一言だけ残していった。


「百合さん、ゆっくりしてってくださいね」


「ありがとね、美咲ちゃん」


 一つの形式みたいに、二人は軽く頭を下げ合った。


「……」


 さて美咲がお風呂へ向かったことで、リビングには夏弥と百合の二人しかいない状況となった。


「今日はごちそうさま。夏弥って、料理ウマくなったよね。見違えるくらいだわ」


 百合は満たされたお腹の辺りを手でさすり、テーブルの上の鍋を見つめる。


「そう? そんなに褒められるほどの料理でもないと思うんだが。……第一、鍋のダシは市販のもので、そこに細かく調理法とかも記載されてんじゃん」


「あはは。言ってしまうとその通りなんだけど、一緒に暮らしてた時は私がごはん作ってあげてたからさ~。夏弥はまだ料理できないんだっていう思い出補正? そういう記憶が残ってんの」


「ふぅーん……」


「でももう、夏弥も一人暮らしし始めて二年か。なんか、あっという間だね~」


「……うん」


 夏弥は百合の横顔を視界の端に捉えたまま、これまで一緒に過ごしてきた時間を思い出していた。



(母さんが亡くなった時、百合さんは率先して俺達のことを引き取るって申し出てくれたんだよな。あれから数年、女手一つで俺や秋乃を支えてくれて……)


 百合は働きながら、夏弥と秋乃の中学時代を見守ってきた。

 いわば第二の育ての親だ。


 炊事も洗濯も、掃除も、百合は一通り見事にこなす。


 授業参観にも三者面談にも出てくれた。

 地域の育成会が開く納涼祭やイベントにも欠かさず参加したし、中学の卒業式の日には、桜の舞う校門前で涙ぐんでくれたこともあった。


 しかしそれでも……。


 彼女はやはり、叔母だった。

 どこまでいっても夏弥の中では叔母という存在で、叔母という距離感のままだった。


 母親の代役を務めてくれていることにはとても感謝している。

 けれど、母親そのものじゃない。


 前述のとおり、夏弥は飄々としているこのアラサー未婚女性・宮野百合がなんとなく苦手だ。


 その理由はおそらく、「母親の代役」というどこまで甘えていいのかわからない曖昧な彼女の役どころのせいだろう。


「――――夏弥は、高校卒業したらどうしたい?」


 夕食後のゆるんだ空気のなか、ふと百合が質問をしてくる。


「……進路? 急に真面目なトピックだな」


「そう、進路の話。……高校を出たら進学するんだよね? 大学? 専門学校?」


 明るい口調で話しながら小首をかしげるその仕草は、やはり母親感が薄いように思われた。


「それはまだ決めてない。ていうか、自分が社会人になるとか、そういう実感もないうちに就職の方向性決めるのって難しくない?」


「あー。イメージできないと確かに難しいかもね。あるある。あははっ。……でもイメージより、まず自分がやってみたいことを素直に選べばいいと思うけど?」


「……」


「世の中いろんな仕事があるから。その仕事ごとに大変な部分とか、やっててよかったなぁって思う部分があるから。選んで後悔することはあっても、確実に経験にはなるよ」


「後悔はしたくないんですが」


「あははは。後悔は悪いことじゃない。何かを悔いる気持ちはマイナスなものだって思い込みがちだけど、それは間違ってるよ」


「間違ってんの……? ネガティブな感情に変わりはないよね?」


「間違ってるよ。後悔は悪くないんだ。悪いのは、その後悔のせいで後ろばかり振り返ってることだよ」


「……!」


 百合の言葉はきっと真理だった。

 アルバイトのひとつすら経験したことのない夏弥であっても、その発言に不思議な説得力があることはわかる。


 そして、この百合の言葉のせいかもしれない。


 夏弥は、百合にこれまでのことを打ち明けてみようかなと感じていた。


 鈴川兄妹のこじれた関係について。


(当たり前だけど、百合さんは俺よりもずっと人生経験あるんだよな。人間関係の良いところも、悪いところも、たくさん知ってるんだろうし)


 人が出会って別れるまでの関係を一枚のスライド写真に例えたら、きっと百合のスライドショーは夏弥のスライドショーよりもいくらか枚数が多いはずだ。


 出会いの数。別れの数。付き合いの浅さ・深さも千差万別で、それこそ生きてきた年月の差が如実に現れることだろう。


 十年以上の年の差だ。見てきたものや、それを積み重ねて醸成されてきた価値観はまったく違う。


 三十代の会社員で、それも途中参戦とはいえ二人の子どもを育てた経験がある。

 夏弥からすれば、宮野百合は立派な人生の先輩だった。


「あの……百合さん……。美咲がお風呂から上がる前に、話しておきたいんだけど」


「?」


 夏弥は、洋平と美咲のあいだに起きた出来事を順番に説明していった。


 洋平が女子とシテいたことで、美咲と言い合いになったこと。


 裂けてしまった関係に夏弥が思わず口出ししてしまったこと。

 そして結果的に洋平が心を入れ替えたこと。


 話している最中、百合は一切口を挟まなかった。


「へぇ」や「そうなんだね」と一言返すことはあっても、流れを止めるようなセリフは吐かなかった。


「――――って感じ。これが現状のアイツらなんだ。もう昔みたいに、アイツらは仲良くないんだよ」


「……」


 少しだけ201号室のリビングに沈黙が訪れる。

 そこから百合は、夏弥を一瞥してゆっくりとしゃべりはじめた。


「兄妹の仲が悪くなるなんて日常茶飯事だろうけど。……そういう日常レベルの話じゃないんだ?」


「……ああ。てか、そもそも住む場所を入れ替えるって話も、その不仲がきっかけだったりするから」


「ふぅーん。でもそれって、原因はこの一件だけとも限らないんじゃない?」


「?」


「兄妹の仲にヒビが入った原因は、そういう『性』にまつわるいざこざに限らないんじゃないかって話ね。


 誰かと一緒に暮らしていれば、些細なところからストレスを感じたりするもんだよ。本人にはその自覚がなくてもさ。


 そういう小さいストレスが積もっていって、ある『きっかけ』を起点にして爆発した。そう考えてみると、その不仲は長期的なスケールで育てられてきたものかもしれないよね」


「……」


 また黙り込む夏弥を、百合はじっと見つめる。

 久しぶりに顔を合わせて知った、甥っ子の悩みだ。


 いや、もう役所的には息子という扱いなのだから、百合は夏弥を我が子と呼んでいいのだろう。


 であれば、二代目の母という立場から、子を導くのは道理。使命みたいなものだ。人生の先を行く先輩として、あるいは母親として、手を引いてあげてもいいはずだと百合は感じだして。 


「まぁ夏弥が美咲ちゃんに……」


 と、そこまで言い掛けて、百合は口を閉ざす。

 それは裏表のない百合にしては珍しいブレーキだった。


「百合さん?」


「……」


 数秒、つぐんでいたその口に百合は手を当てていたが、すぐまた二の句を継ぎ始める。


「……いや。ここは、紅葉の言葉を借りるね。その方が正しい気がするから」


「母さんの言葉……?」


「夏弥も聞き覚えがあるんじゃない? よく何度も聞かされたはずだよ。『四人とも、明日は今日よりも仲良くしなさい』って」


「!」


 夏弥は幼少期の自分と、あの頃の母をはたと思い出した。

 生前の母は、鈴川雛子に次いでよく自分達四人を叱ってくれたのだと。


 ふざけまくった挙句、ご近所さんの家に迷惑をかけてしまった時も、行き過ぎたいじわるから妹達のどちらかが泣いてしまった時も。


 信条というか、念仏のように、紅葉はこのセリフを四人に言い聞かせていたものである。


 そのせいか、夏弥はたびたび夢のなかでこのセリフを登場させそうになっていた。


(そうか……。夢のなかで出てきてたのはこれか)


 夏弥が母親のことを思い出していると、百合はさらにこんな言葉を続ける。


「別にこれは、幼い頃に限定した言葉じゃないと思う。……あと、やっぱり私からも、二番目の母親として言わせてほしい」


「……百合さん?」


 百合は一つ呼吸を挟んで、夏弥の目をまっすぐ見つめる。


 今から話すことは、とても大事なことだよ。と訴えかけてくるような、そんな意志の込められた目をしていた。


「仲良くすることだけが、仲良しじゃないんだよ夏弥。友達のためにしてあげたいことがあるなら、その「してあげたい」って自分の気持ちと、しっかり向き合うこと。


 言葉にするでも行動に移すでもいいけど、ちゃんと表に出すんだ。じゃないと――――今日よりも仲良しにはなれないよ」


「……」


 百合の発した最後の言葉に、夏弥は心を決められてしまったような気がしたのだった。


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