些細なはちみつカルボナーラ
※まえがき
これは、風邪で学校をお休みしていた美咲サイドの挿話です。
「……ん、ぬん……」
美咲が目覚めた時、時刻はもう午前十時を回っていた。
美咲の身体は不思議なくらい軽かった。
昨日の熱も、咳も、のどの痛みも嘘のよう。
一晩しか経っていないのに、昨日の風邪はすっかり癒えているようだった。
(……あ、そっか。夏弥さん、学校に行ったんだ)
美咲は自分の部屋の時計を見て、同居人が不在であることに気が付く。
そしてベッドから身体を起こす。
そこでふと、昨夜のことが鮮明に思い出されて――
――あたし、夏弥さんの子どもがほしい…………。
――風邪が治ったら、夏弥さんに……めちゃくちゃにされてみたい。
「~~っ‼」
一人思い出して、両手で顔を隠す。
ああなんということ。
もう恥ずかしい恥ずかしい。
もし可能なら、時間をさかのぼってあの時の自分の口を縫い合わせてやろうかとすら思った。
さらに美咲は思い出す。
風邪で弱気になっていたところ、聞いてしまった夏弥の本音。
――美咲のせいで、いつもドキドキして。こっちは大変なんだよ。
――裸で抱き着いてこられたら、美咲のことめちゃくちゃにしたくなるだろ。
だめすぎる。
自分にドキドキしてくれるなんて。
自分のことを、めちゃくちゃにしたくなっていただなんて。そんなこと言われたら、こっちだって――。
美咲は思い出しながらそう感じていた。
それは昨夜と同じ感想である。だから昨夜、あんなに甘くてとろとろに蕩けてしまうようなセリフを口走ってしまったのだ。
(あたしの風邪、もうかなり良くなってそうだけど……じゃあ今日辺り、夏弥さんにめちゃくちゃにされちゃうってこと? ……~~っ)
一旦冷静に状況を考えてみても、一気に恥ずかしさがこみ上げてくる。
あのような会話をしていれば、風邪が治り次第めちゃくちゃにされてしまう未来は約束されたようなもの。
(夏弥さん……本気にしちゃってるのかな……)
当然、本気にしているだろう。
夏弥とて男子高校生。美咲に遠慮して、近頃じゃピンク色な自家発電も控え気味だったっていうのに。これでは加速してしまうこと請け合いだ。
美咲は、枕元に置いていた自分のスマホを手に取ってみる。
無論それは充電がすっかり切れたままだった。
充電し忘れていたことに気が付いて、スマホの充電ケーブルをゆっくりと刺す。
(充電……。そういえば昨日、夏弥さんにすごいことしちゃったような気がするけど……)
美咲は一人、昨日の浴室でのやり取りを思い出していた。
裸で浴室に乱入し、夏弥の背中に自分の胸を押し当てる形で抱き着いて――――。
ああなんということ。
やはり、そちらも思い出すだけで顔から火が噴き出そう。
後ろから手を回して夏弥の胸板に触れたこと。夏弥の皮膚に触れていたこと。あの熱さが、ドキドキしてしまう気持ちが、脳裏に焼き付いて離れない。
昨日の自分はどうかしていた。
いや、決してふざけたわけでも、嘘をついたわけでもない。
夏弥の子どもがほしいと感じるくらい、彼のことを好きになっているのは事実だし、めちゃくちゃにだって、まぁどちらかといえばされてみたい願望や興味はあって。
芽衣や同級生の前では口が裂けても言えないセリフだけれど、夏弥の前でなら。彼の前でなら構わない。もう裸だって数回は見られているし、あんなことやこんなことまでしたのだから、本音を言うことに抵抗がなくなってきているのかもしれない。
それは紛れもない美咲の本心だった。
「はぁ。…………おなか空いた」
美咲は一人でつぶやき、ベッドから起き上がる。
グレーのダボついたパーカー姿のままリビングへと出る。
「……?」
すると、ローテーブルの上に料理が一皿出されていた。
その皿にはラップがぴちっと張られていて。
皿のすぐ脇にはメモが一枚置いてあった。
『おはよう美咲。起きて、もし食べられそうだったらコレ食べて。あと、しっかり医者にも行きなさいね』
(ふっ。やっぱお母さんじゃん……)
夏弥の作り置きに、少しだけ美咲の胸はときめく。
作り置きされていた料理は、美咲が以前ハマっていたカルボナーラだった。
半熟のたまごがぬかりなく乗せられていて、夏弥が十分彼女の好みを把握していることがうかがえる。
(夏弥さん、あたしの好みわかってるなぁ……なんか悔しいけど。でも……ありがと)
彼女はそれから洗面台で顔を洗い、髪の毛を梳かしたあと、再びその皿の前に向かう。
その皿を電子レンジで軽く温める。
温めているあいだに冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。
温め終わった皿をまたリビングのテーブルへと運び、そちらでラップをご開封。
夏弥の作ってくれた素敵な一皿が、美咲の目の前に現れた。
横にミネラルウォーターのボトルを置いて、両手を合わせる。
「いただきます。……すごく美味しそうな匂い」
ラップを剥いだ時からたまらなかった、優しい甘い香り。
皿と一緒に持ってきていたスプーンとフォークを手に持って、いざ夏弥お手製のカルボナーラに手をつける。
「ふぅ、ふぅ」
フォークで巻き取ったカルボナーラを吹いて、少々冷ます。
それから、ぱくっとひと口食べてみると、
「…………」
言葉にならない美味しさだった。
麺のゆで具合も柔らかめで、とても優しい口当たり。
時間が経過して一度は冷めてしまっても、夏弥のまごころがそこに込められているのだとわかる。
「……はちみつ?」
舌の上に残るその後味から、美咲はなんとなくそんな予想を立ててみる。
その通り。結論から言うと、美咲のこの予想は当たっていた。
今回のカルボナーラに、夏弥はハチミツを少量投入していて。
(ハチミツ、すごくいいかも……。カルボナーラにハチミツ入れるとか、夏弥さん天才なんじゃないの?)
いや、カルボナーラにハチミツを入れるという手は、格別お料理の業界的には新しい一手というわけでもないのだけれど。美咲にはそれが感動体験よろしく心を揺さぶってくるものに感じられたらしい。
(美味しすぎるんだけどこれ)
二口目、三口目。
どんどん箸が、いやフォークが進んでいく。
気が付けばもう最後の一口で、名残惜しくも美咲はすべて食べきったのだった。
それから食べ終えた皿をシンクで洗いながら、ふと、美咲はこんなことを考えてしまう。
(あたしの風邪に一番効いてたのって……もしかして夏弥さんの愛情なんじゃ……)
昨晩から今朝にかけて、自分の風邪が治った一番の理由。
それは確かに受け取っていた夏弥の愛情そのもの。
看病も、料理も、きっと医学的には最善な対処ではない。
それでも、お腹が膨れ、しあわせな気持ちでいっぱいだったからかもしれない。
美咲はすっかり、夏弥の愛に絆されていたのだった。
胃袋どころか心までも、夏弥にぎゅっと掴まれていたらしい。
その後の彼女は、病み上がりの自覚を持って、大人しく過ごしていった。
夏弥から受けていたラインの通り、まずは学校にお休みの連絡を入れ、医者へ行き、薬をもらい――。
家に帰ってくれば、水分を取りつつ適度にベッドで休むようにしていた。
ただこの一日の中で、自分のすぐそばに夏弥本人が居なくても、夏弥を感じる瞬間が度々あった。
医者に行った時、内服薬の袋に書かれた「食前・食後」の文字を見れば、夏弥の料理している姿がチラつくし、帰りがけのコンビニでたばこを吸う中年男性を見かければ、そういえば夏弥さんに前注意されたっけ、とあの時の彼の言葉が蘇ってくる。
ベッドで横になりながら、美咲はこれらの現象についてまとめてこう思った。
(夏弥さん、どこにでも潜んでるじゃん)
物は言いようである。
せめて、潜んでるという表現は撤回してあげよう。
※あとがき
今回の挿話はこれにておしまいです。
お読みいただきありがとうございました。
次の投稿までお待ちください。