4-28
「……」
「なつ兄?」
保健室のベッドの上で、夏弥は洋平のことを考え続けていた。
秋乃からショッキングなその内容を伝えられた夏弥は、反射的に「気持ち悪い」と思ってしまって。
でも、これは正常な反応。
誰だって、自分の寝具の上で人様が身体を重ねていたと聞けば良い気はしない。するわけがない。
いくら洋平が幼馴染みで美少年だったとしても。過去、ドーナツ屋だなんてからかってくる同級生から自分を助けてくれたことがあったとしても。
夏弥は洋平への不快感、嫌悪感に気持ちを揺さぶられていた。
越えちゃいけない一線を越えられてしまった。そんな気がして言葉が出ない。
「……」
鈴川洋平というイケメン像にひとすくいの泥が塗られてしまって、イメージの崩壊が起きていた。
「なつ兄、大丈夫……?」
「……あっ。いや……。ごめん、秋乃……。どうしたらいいかって話だったっけ……?」
「うん……」
妹の顔を見ながら、無理やりにでも言葉をひねり出す。
しかし、秋乃に返す言葉を探そうとしても、脳内は洋平に向けられた感情でもうたくさんだった。
(なんで人のベッドでそんなことしてるんだよ……。……。気持ち悪い……。気持ち悪くなってきた……。洋平、お前のしたことは…………)
夏弥は怒りや呆れを覚えるよりも、不快感が先に立って仕方なかった。
気持ち悪いリアルなんて受け止めたくない。
洋平のことをカッコイイ奴だと思いたいのに。
幼馴染で、いつまでも分かり合える存在だと思いたいのに。
(どうしてそんなこと……。女子に気を遣ってそういう行為をしていたにしても、俺の気持ちは考えなかったのか……?)
夏弥は、この話が嘘だったと思いたくなる。
「ごめん、なつ兄……。こんな話、やっぱりするべきじゃなかったよね。まだ具合だって悪いのに……」
「……いや…………その」
夏弥は口ごもる。
気持ちの整理が追い付いていなかったからだ。
と、ここで突然、気まずさをさらに悪化させてしまうような声が廊下から聞こえてくる。
「――――鈴川君、どうしたの? 保健室に何かご用?」
それは保健の田辺先生の声だった。
保健室の壁一枚隔てた向こう側。廊下で、先生が誰かに向けて発した声だ。
直後、誰かの走り去っていく足音が壁の向こうで響く。
「鈴川君って……よ、洋平……⁉」
「え⁉」
動揺して洋平の名前を口に出す秋乃と、たまらずガバッと上体を起こす夏弥。
二人は保健室のドアの方に目を向けたまま、固まるしかなかった。
まさか洋平が保健室の前に居ただなんて。
いや、それだけで済むならまだいいほうだ。
もっと嫌な展開が一つある。
夏弥と秋乃は数秒だけ顔を見合わせる。
二人が考えていたことは一つだけだ。
――今の会話、洋平に聞かれてた?
その最悪な展開一つだけだった。
「……っ」
気味の悪い冷や汗が夏弥の頬を伝う。
秋乃もあわわっと慌てふためいて、挙動不審気味になっていた。
「マジで洋平……? あ、あのドアの向こうにいたの……⁉ まっ、まままさかね! そんなことないよね⁉」
秋乃は夏弥の方に振り返り、続けて尋ねる。
「……聞かれてないよね……?」
「いや……」
秋乃に質問されたところで、夏弥だってその答えはわからない。むしろ、洋平に立ち聞きされていたかどうか知りたいのは夏弥の方だった。
それから、何も事情を知らない保健の田辺先生がドアを開けて入ってくる。
「もうー。なんだったのかしら。……あ、藤堂君。もう目が覚めたのね。……体調はどう?」
田辺先生は保健室に勤務する先生である。
わかりやすくも白衣に身を包んでいて、夏弥や秋乃から見てとても賢そうな印象を受ける先生だった。
「体調は……ちょっとダルいですけど」
「せ、先生……今、廊下に洋平が居たんですか?」
秋乃はあえて思い切って、先生にそんな質問をした。
その真実を早く確かめたい。
気持ちが先行してなのか、先生と夏弥の会話を断ち切ってでも訊いておきたいようだった。
「ええ。居たわよ? ドアのそばに立って、中に入りづらそうにしてたんだけど……。私が声をかけたら一目散に走っていっちゃって。よっぽど急ぐ用事があったのかしらね?」
先生は不思議そうな顔をしていたけれど、藤堂兄妹の二人には洋平の事情が読めていた。
無論、これはただの予想。確実なものじゃない。
おそらく洋平は、二人の会話を聞いてしまったのだ。
「はぁ……」
夏弥はそんな予想のせいで、一旦は投げやりな気持ちにさえなりそうだった。
起こしていた上体をまたベッドに投げ倒して、深いため息を吐く。
「なつ兄……」
「……」
秋乃はまだ心配そうな声を漏らしていた。
その心配は、夏弥にとってみればありがたくもあり、申し訳なくもあった。
「ごめん。私がここで話しちゃったせいで……」と秋乃は続けて言う。
彼女の今の気持ちがまるっと乗せられているような、尻すぼみな言い方だった。
夏弥は仰向けに寝たまま、チラリと秋乃を一瞥する。
一瞥したあと、今度はその視線を遮るように腕で自分の顔を隠して。
優しく一言だけ、こうつぶやいた。
「……いや、秋乃。むしろ教えてくれてありがとう」
嫌味のない本心からのありがとうだった。
◇ ◇ ◇
間もなく昼休みが終わり、秋乃は保健室を出ていった。
保健室には、田辺先生と夏弥の二人だけが残されていた。
夏弥は未だにやや体調が優れなかったけれど、激しい熱に襲われたりだとか、苦しいほど咳き込むといった症状は現れていない。
「藤堂君、どうしたい? 授業に出るのが厳しいなら帰ってもいいわよ?」
田辺先生は優しくそんな声を掛けてくれた。
「……すみません。ちょっと……、もう少しだけ寝てていいですか?」
秋乃から打ち明けられた洋平の一件。
その一件のせいで、夏弥は現実逃避したくなっていたのかもしれない。
眠りに就いて夢のなかへ逃げ込んでしまいたい。
そう感じてしまう夏弥のことを、誰が責められるだろう。
「……そう。じゃあ、今日はそのまま寝てなさい。本当は、熱がある生徒は速やかに早退してもらってるんだけどね。ここだけの秘密よ?」
「……ありがとうございます」
田辺先生は基本、保健室に常駐してデスクワークなどをこなしているようだったけれど、職員室に用事があるのか、度々抜け出していた。
なのでその会話以降、ベッドで寝付いていた夏弥は、先生が抜け出したことに気付けたり気付けなかったりといった具合で。
(……ん? もうそろそろ五限が半分終わったくらいか)
夏弥が次に目を覚ましたのは、午後三時過ぎだった。
保健室はしーんとしていて、先生もたまたま出払ってしまっていた。
そんな折に。
「失礼します。……って、先生いないのか」
「……!」
保健室の戸ががらりと開けられ、生徒が一人入ってきた。
聞き覚えのあるその声で、夏弥は保健室に入ってきた生徒が洋平なのだと悟る。
どうして洋平が? アイツも体調が悪くなったのか?
そういった疑問が一度は夏弥の脳裏に浮上して、霧みたいに消えていく。
「……」
違う。夏弥は洋平がここへやってきた理由を知っていたのだ。
さっき、洋平が保健室の前から速攻で逃げていってしまったことを思えば、再びこうして彼が保健室へやってくることも十分予想できる。
理由の見当としては「夏弥が心配だったから」に他ならないはずだった。
無論、秋乃との会話が洋平に聞かれていなければ、の話だけれど。
「……夏弥? 大丈夫か?」
そんな声と共に、夏弥の寝ているベッドのカーテンが開けられる。
目を閉じていた夏弥は、改めてゆっくりと目を開けてみせる。
「ん……起きてるけど」
「あ、よかった……。教室で先生が『藤堂が風邪で倒れて、今保健室で寝てる』」なんて言うから……。割とマジで心配になって……」
洋平は少し照れ臭そうに髪の毛をいじったりなんかしていた。
綺麗な顔立ちにお似合いのパーマヘア。
色気のある瞳と、スッとひかれた鼻梁。ニキビ一つない頬にしゅっとした口元。
モテる男子のオーラみたいなものが、やはりそこにはある。
「ていうか、ここの保健室。マジで先生居ないこと多いよな」
「……たぶん職員室に行ってるんだろ」
「そうなのか? じゃあタイミングよかったのかもしれないわ」
あはは、と軽く笑いつつ、洋平は脇の長椅子に腰をかける。
「……タイミングよかったって?」
「あ、いや。……あんまり先生とか、他の人に聞かれたくない話もあるだろ?」
洋平はとても落ち着いたトーンでそう話す。
夏弥は、洋平が自分と秋乃の話を立ち聞きしていたのかどうか、未だにわからずにいた。
(どっちなんだろう……。聞いていたのかな……)
夏弥が疑心暗鬼になっていると、洋平はまるでその心理を見透かしたかのように、件の話題に触れはじめたのだった。
「さっき、秋乃とお前が話してた件だけどさ」
「っ! ……やっぱり聞こえてたのか」
「あっ、ああ。……ドアが開いててな」
「……。立ち聞きとか悪趣味なんよ」
「悪い。…………聞くつもりはなかったんだ。入ろうか迷ってたら、ドアがほんの少し開いてることに気付いて……」
洋平の言葉を聞いて、夏弥はまず第一にこう思った。
(謝るのはそこだけなのか……? 俺の部屋で、女の子とシテいたことについては……)
夏弥は別にムキになって怒ったりはしなかった。
この前、直接殴り合いの喧嘩をした。そのせいで、もう感情に流されてしまうことは避けたいと思っていた。
「入ろうか迷ってた……?」と夏弥は質問する。
「ああ、迷ってたんだよ。……夏弥が心配で駆け付けたのもあるんだけど、それ以外にも確認しておきたいことがあったんだ。……でも、それを確認するのが……こ、怖くて……」
「確認しておきたいこと……」
洋平は、夏弥の目を真っ直ぐに見つめながら話を続けた。
「夏弥……。お前、美咲と付き合ってるんだろ?」
「っ!」
洋平の質問が、夏弥の胸に深く突き刺さってくる。
今までずっと洋平には言えずにいた、美咲との関係。
それが、洋平の方から確認してくるという形で情報共有されてしまった。
「なんで……それ……」
「なんでってお前……。さっき、ここで秋乃とその話してたじゃん」
「あっ……」
そう言われ、夏弥は自分の思い違いに気が付いた。
夏弥が間違っていたのは、洋平がどの話から聞いていたか、という点だった。
夏弥はてっきり「秋乃の相談事」の件から立ち聞きされていたものとばかり思っていたのだけれど、洋平は、「夏弥の打ち明け話」時点から、すでに保健室の前に立っていたようで。
「……美咲と毎日一緒に学校来たりしてるもんな。……あれはもう恋人だよ。そう言われれば、誰だって納得する。……お前らの距離感は、もうただの幼馴染みとか、同居人ってレベルを越えてる」
「……」
「それに、俺だって気付きつつあったんだ。仲が悪いって言っても、俺とアイツは兄妹だしな。…………美咲がお前のこと、恋愛的な意味で好きになってるってことくらい、アイツの顔見たら……わかるよ」
「そうか……。そう、だよね……」
夏弥はカタコトのようにしか返事を述べられない気がした。
それは、こうして語る洋平が、本心では「気持ち悪い」と感じていることをわかっていたからである。
どれだけ洋平が穏やかに話そうと、落ち着きの中で言葉を紡いでいようと、すべてがその「気持ち悪い」の感想に行き着いてしまうはずだ。
やっぱりそれは揺らぐことのない洋平の思いで。
「夏弥も……美咲が好きなんだろ?」
「……」
夏弥はその事実確認に、ゆっくりと頷くしかなかった。
「悪い……。夏弥が美咲を好きなんだって考えると、やっぱり俺は気持ち悪いなって思っちゃうんだ……」
洋平はすごく申し訳なさそうにそんなことを語りだしていった。
「そ、そっか」
「俺は夏弥のこと、本当に家族くらい、親しい奴だって思ってる。俺に男の兄弟がいたら、たぶんこんな感じなのかなって思うこともあるくらいなんだ。
……だからなのかもしれないけど、お前と美咲が……なんて考えると、やっぱりどうしても……その……ごめん。嫌な気持ちになっちゃうんだ。……こんな感情、理解できないって思われるかもしれないけど」
「……大丈夫だ、洋平」
「え? ……大丈夫って?」
洋平の切なそうなその顔に、夏弥はたまらずそんなセリフを吐いていた。
洋平の切なさは、洋平の感情が洋平自身の思い通りにならないことに対するものだった。
夏弥と美咲の恋愛を認めたい、受け入れたい、とは思っていても、心のどこかでは「気持ち悪い」と思ってしまう。
洋平の内側でその二種類の気持ちが反発しあっているから。だから彼は、とてもとても切なそうな眼差しをしているのである。
「大丈夫。一応、洋平の気持ちはわかるって意味だよ。100%じゃないけどさ」
「え、わかるのか……?」
「ああ。……家族みたいに親しかったら、そういう気持ち悪さって出てくると思うんだ。例えば、兄妹のことを性的に見ることに拒否感があったりとか、さ……。なんか、そういう言葉にできない気持ち悪さってあるよな……」
「……うん」
「これが、『妹と親友』の組み合わせでも起きてるって話だろ? だから……俺自身はそう感じてなくても、そう感じる人がいるんだってことは理解できる」
「……ごめん」
「……で、もう一つの、話の方なんだけど……」
夏弥はそこまで言ってから、秋乃の相談事の件を話すことにした。
洋平が素直に話してくれている今なら、この流れのまま聞いてしまった方がいいと感じていて。
「俺は俺で……その、洋平のこと、「気持ち悪い」って思っちゃったんだ」
「あっ。ああ……その話も、さっき聞こえてたよ。俺がソフレとシテた件について、だよな……。夏弥の部屋で」
「うん……」
夏弥と洋平は、お互いに一つずつ抱えていた「気持ち悪さ」を、なんとか歩み寄ることで理解し合おうとしていた。
いや、理解はできなくても、受け止めたいと思っていたのだ。
受け止めたい。肯定するでも否定するでもなくて、ああ、コイツもそういう所があったんだな。と、事実を隠さず、あるがままを受け止めてあげたいと、そう思っていた。
洋平は、妹と親友が恋愛関係になったことへの気持ち悪さ。
夏弥は、親友が自分の部屋でシテいたことへの気持ち悪さ。
お互いの倫理観には微細なズレがあって。
二人はそれを、痛いほど肌で感じていた。
しかしそれでも、親友との関係を途絶えさせたくない。
小さい頃からの腐れ縁だ。
取るに足らない出来事も多かった。
でも、一緒に遊ぶ時も遊ばない時も、心の中ではいつも想い合っていた。
二人はもう、ずっと前から、気が付いていたのかもしれない。
――本当に大切な友達は、遊ぶ回数の多さや、趣味の傾向や、異性からモテるかどうかに左右されて決まるわけじゃない。一番大切なのは、一緒にいて心から落ち着くのかどうかという点なんだ。
――何かズレた行為を相手がしてしまった時に、コイツはしょうがないやつだな、と許してあげられる相手なのかどうかという点なんだ。