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◇
薄い消毒液のにおいで夏弥の意識は冴え出してくる。
目を開けるとそこは保健室。ベッドの上。
視界には灰色の天井がただのっぺりと広がっているだけだ。
直後、横から聞き慣れた女の子の声が飛んでくる。
「あ、なつ兄起きた!」
「……秋乃?」
その声の主は藤堂秋乃だった。
夏弥が目覚めるまでのあいだ、ベッドの脇の長椅子に腰を下ろしていたらしい。
夏弥のことが心配でたまらなかったご様子。
黒髪のパーマはいつものようにくるくるとカールしていた。
ただメガネの奥の瞳はちょっぴり潤んでいて、不安という名の毒がいつまでも癒えずにいるみたいだった。
「身体の調子、大丈夫……?」と秋乃はうかがってくる。
「だ……大丈夫……。いやごめん。ウソだ。……ちょっとダルいかも」
「そっか……。やっぱり風邪もらったんじゃない? ……まだ美咲ちゃんの風邪、治ってないんだよね?」
秋乃はメガネをずらし、目元を少しこする。
夏弥が倒れたことで、さっきまで少々涙ぐんでいたようだった。
「まぁ……今朝の時点で美咲はもうほとんど治ってたと思うんだ。ていうか……俺、どうなったんだ? 体育館のギャラリーに行こうとしたところまでは覚えてるんだけど、その先の記憶がハッキリしてないわ……」
「……はぁ」
秋乃は安堵のため息を一つついてから、ここまでの流れを話し始める。
「なつ兄が倒れそうになった所を私が支えたんだよ。その後、たまたま近くの廊下を歩いていた先生が私の声に気付いて、助けてくれて。……それにしても、階段からあのまま落ちなくてほんっとによかった! 一時はどうなるかと思ったよ~」
ベッドで横になり続けている兄に向って、秋乃は柔らかい笑顔を浮かべてみせる。
ひと安心ひと安心。
そんな心の声が聞こえてきそうな表情だった。
「そうだったんだな。……いや、心配かけて悪かったわ。……俺もまさか、いきなり意識が遠のくなんて思ってなくて……。寒い寒いとは思ってたんだけどさ」
「咳とかの症状が出てないからって、風邪ひいてないとは限らないんだよ? ……って、これさっき、保健のセンセーに言われたことだけどね」
「そうなんだな。……ていうか、その先生は? 今居ないみたいだけど」
夏弥は保健室の気配から、ここには自分と秋乃しか居ないようだと感じていた。
「今ね、職員室に行ってるんだよ。もうすぐ帰ってくるんじゃない?」
「そっか。……はぁ。この前に引き続き、また保健室に来るなんてな……。俺は保健室の神様にでも好かれてるのかもなぁ……。色々無茶するもんじゃないね。今日ので思い知りました」
「思い知ったか、なつ兄!」
「なんでお前が偉そうなんだよ……。ふざけてん、のかぁ……」
夏弥はちょっとだけ頭痛がして、声が変に伸びてしまう。
「ぷはっ。弱ってるなつ兄、おもしろいかも。今なら私が特別にお願いを聞いてしんぜようかなぁ」
夏弥の意識が戻り、一大事にならなかったこと。
そのことに秋乃は心底嬉しさを感じているようだった。
いつもの数倍はお調子に乗っていて、ずっとニコニコしている。
これはとんだブラコン妹でございます。
「お願いを聞いてしんぜようって……?」
「うん! 今ならなんでも言っていいよ? ワガママの一つや二つ、病気で弱ってる兄のためなら妹は喜んでひと肌脱ぎますよっ」
「うっ。……なんだか……嫌な予感がするから却下」
「あっ⁉ なんで⁉ こういう時はガッツリ頼っちゃっていいんだよ? それとも『妹にかいがいしくお世話なんてされたくねぇよ』とかいう強情っ張りな兄貴肌が出てきたの?」
「そういうわけじゃない、けど。……うーん……そうだな。じゃあ、一ついい? お願いっていうか、驚かないで聞いてほしい話があるんだ」
「聞いてほしい話?」
夏弥は防災訓練の時、あの場では秋乃に言えなかったことを、今ここで言ってしまおうと思っていた。
なんとなく今の秋乃になら、スッと伝えられるような気がした。
夏弥はベッドで仰向けになった体勢のまま、目線を天井に預け、ぼそぼそと話し出す。
「実は俺…………今、美咲と付き合ってるんだ」
「えっ? そうだったんだ⁉」
秋乃は彼の言葉に素直に驚いた。
黒縁メガネの奥にある瞳をぱちくりとさせ、思考が一時停止する。
「うん。……ほら、一緒に登校してたのも、付き合い始めたからで……」
「……。そ、そっか。そうだよね! なつ兄と美咲ちゃんかぁ~。……。昔からすっごく仲良いって思ってたし、全然違和感ないよ。お似合いじゃないですかぁ!」
秋乃はさっきにも増してニコニコとしていた。
長椅子に座りながらそのお話を聞いていた秋乃は、制服のスカートに乗せていた手に、なぜか少しだけ力を入れていた。
その細かい仕草に、夏弥は気付けなかった。
仰向けで寝ていたため、無理もなかった。
「お似合いって……そうでもないだろ……? むしろビジュアル的には不釣り合い感がすごいと思うよ。俺の同級生も散々陰で言ってたと思うしなぁ」
「ううん、いいと思う。私は応援するよ~? 小さい頃から知ってる二人だしね。こういうのってロマンだよね、うんうん。……幼馴染同士がくっつくなんて、胸アツ展開過ぎるでしょ! 誰も割り込めないって感じじゃん?」
秋乃は、務めていつも通りの秋乃だった。
気さくな口ぶりに、柔軟な表情。それはセリフ通り、二人のことを明るく応援しようという態度だった。
さらにそのまま藤堂兄妹の会話は続き。
「それに、なつ兄と美咲ちゃんが一緒に登下校してるって知った時、さすがに私も薄々勘付いてたしねぇ~」
「やっぱりそうだったのか。……あ、でもこれ、実はまだ洋平には言ってないことなんだよな……」
「え、そうなの⁉」
夏弥の現状報告に、秋乃は驚かされてばかりだった。
「うん。アイツに言っちゃうと、俺達の関係が複雑になっていくような気がして……なんか言い出しにくくてさ」
「複雑……?」
「複雑だ。洋平にも色々あると思うしな……。あ、ところで、秋乃の相談ってなんだったんだよ? ずっと聞けずじまいで悪いと思ってたんだ。教えてくれない?」
「……っ!」
夏弥は自分の恋愛を打ち明けたことで、秋乃にも同じように相談事を打ち明けてほしいと思っていた。
この話題の振り方はとても自然だった。
尋ねられた秋乃のほうも、今なら話してしまってもいいような気がして。
「実はその……」
「うん」
夏弥は仰向けのまま、顔を少しだけ秋乃のほうに向ける。
珍しく秋乃は伏し目がちになって、言いづらそうに例の件を話し始めた。
「これ、言っていいのかわからないんだけど……。ほら、洋平ってよく彼女さんを家に連れ込んでくるじゃん?」
「ああ……なんだ。それぐらいだったら日常的に――」
夏弥は、やれやれと言った様子でそこまで聞いていた。
洋平が藤堂家のアパートに女の子を連れ込むことなんて、今更なお話。その程度であれば、住む場所を入れ替えたばかりの頃に大体予想はできていたものだ。
ただ、秋乃の言葉はそこで止まらなかった。
「夏休みの夜、私がトイレに行こうと思って部屋から出たら、なつ兄の部屋から変な音が聞こえてきたんだよね。……それで、そっと覗いてみたら、なつ兄のベッドでエッ〇してたみたいで……その、どうしたらいいか……私、わからなくて……」
「っ⁉」
秋乃から聞かされたその衝撃的な事実に、夏弥は声すら出せなかった。
イチャついたり添い寝をする程度ならともかく。
自分の部屋で、自分のベッドで、あの行為まで洋平が致してしまうのはさすが無いだろうと思っていたからである。