4-26
「おはよー、夏弥」
「ああ、おはよう。洋平」
話し掛けてきたのは、夏弥の幼馴染み・鈴川洋平だった。
どうやらもう先に登校していたらしい。
どの角度から見ても色気のある〇ッチェス顔は本日もご健在。
明るい髪色にオシャレなナチュラルパーマがあてられている。
ああその顔で、その瞳で、今日も一日女子からキャアキャア黄色い声をいただくのだろう。
そんな未来が、夏弥には簡単に見透かせてしまう。
「なぁなぁ。夏弥」
「……ん?」
洋平は夏弥の机の脇に座り込むと、急に小さな声で話し始めた。
「俺の母さんに、住む場所交換してる件、話したってマジ……?」
「あっ…………」
洋平に言われ、夏弥はハッとした。
雛子があの201号室にやってきたことや、交換生活の一件を彼女に話してしまったこと。そのことを、夏弥は洋平に伝えていなかったのである。
「マジ……です」
「あぁ、そっか。言ってしまったかー……」
洋平は「あちゃ~」みたいな顔をしていたのだけれど、その反応に夏弥は少々納得がいかなかった。
「いや、言ってしまったっていうか、話さざるを得なくなったというかさ。第一、絶対に他言無用! みたいな約束もしてなかったじゃん?」
「まぁそうなんだけどさ。……でも母さん、そんなにあれこれ言ってこなかったんだろ?」
「まぁね。あ、でもちゃんとした食事を取ってるのかって、そういう健康面での心配はしてたみたいだけど」
「へぇ、そうなんだ。…………それで、どうやって切り抜けた……?」
「え? そりゃまぁ目の前で料理する感じで……」
「そっか。……夏弥はやっぱりすごいな。俺と違って料理できるもんなぁ……」
洋平はどことなく遠い目をする。
夏弥や雛子に対して少し思いを馳せる、といった様子で、珍しく憂鬱そうな表情を浮かべていた。
「どうしたんだよ。そんなに健康を気にするなら俺が作りにいこうか? 栄養学とか疎いけど」
「ぷはっ、なんでそうなるんだよ。……いや、もしかしたらそれもアリなのかも……?」
「え。さすがに冗談なんですけど……」
「あっはっは! だよなぁ~。知ってた」
洋平は軽く笑ってみせた。
すっきりとしたその笑い声は、夏弥がもう何度も小さい頃から聞いているものだ。
馴染み深い印象を受ける洋平の雰囲気は、今も昔も変わりないようだった。
それでも、夏弥は洋平の顔を見ていて思うことがある。
それは、「自分が美咲と付き合っていることを打ち明けるかどうか」という思いと、「秋乃が言っていた相談事の件」だった。
美咲と付き合っている件は、まだ自分のことだから全容を把握できている。
けれど、秋乃が相談したがっている内容が一体何なのか。そっちは未だにわからないままだった。
(さっきの秋乃の様子じゃそんなに重要でもなさそうだったけど。やっぱり気になるな……。洋平のことってなんなんだろう)
だんだん気になってきた夏弥は、秋乃へラインを送ろうと思った。
先生が教室へやってきてしまう前に。
『今日の昼休み抜けられる? 例の相談の件、よかったら話してほしいんだけど』
そのように送ったあと、チラリと洋平のほうを見る。
さすがに、そばにいる洋平に「秋乃が洋平について相談したいって言ってきたんだけど、身に覚えある?」とは訊かなかった。
それを洋平に訊いてしまうと、場合によっては秋乃がかわいそうなことになってしまうような、そんな嫌な予感が夏弥には働いていた。
ただこれは、夏弥がなんとなく図っていた気遣いだ。
相談内容が明確じゃない以上、この気遣いは正しくないかもしれない。
ひょっとしたら、直接洋平に心当たりを尋ねてみるほうが、案外サクッと解決してしまうものだったかもしれなくて。
「ん? 夏弥、どうした?」
「……いや」
(……でも、黙っておくことも大事だよな)
夏弥は、つい洋平本人に訊いてしまいたくなるその衝動を抑えていた。
とても偉い忍耐である。
普通、何かを知りたい時や知ってしまった時ほど、人は色々としゃべりたがってしまうものだけれど、場合によっては沈黙していた方がずっと賢い時だってある。
「……ていうか、よく俺が雛子おばさんに交換生活の件を話したって気付けたな洋平」
夏弥は自分の気をそらす意味も込めて、話題を切り替える。
「ああ、それなー。……夏弥、この前母さんとライン交換したんだろ? 今朝夏弥にラインを送ったらしいんだけど、その返信が無いって俺の方に連絡が来てさ」
「え、ライン……?」
夏弥は自分のスマホを改めてよく確認してみる。
すると、いつの間にか雛子からメッセージが送られてきていたのだった。
「さっきもスマホ開いたのに全っ然気付かなかった……。……ぼんやりしてたからかな」
「大丈夫か? そういや今日の夏弥、ちょっと……顔色悪くね? 青白いっていうか」
「ん? そんなことないだろ。まぁ俺がブルベってことじゃないか?」
「ぶはっ。ブルベと顔色悪いは別物だろ。ファッションデザイナーに怒られるぞ。ぷふっ」
「いや、どっちも似たり寄ったりじゃないのか? よく知らないけどさ」
洋平のツッコミを聞きつつ、夏弥は雛子とのライントーク画面を開く。
夏弥が登校中に送ってきた雛子のメッセージは、次のようなものだった。
『おはよう~夏弥くん。美咲に電話したんだけど繋がらないのよねぇ~。何か知らないかしら?』
その文面に思わず、夏弥は「あっ」と声をあげそうになった。
彼の微妙な表情の変化に、洋平はすかさず反応する。
「夏弥、どうしたんだ?」
「いや……昨日、美咲のスマホの充電が切れたままだったんだよ。確か充電もしてなかったと思うから……。雛子おばさんは、俺じゃなくて美咲と連絡を取りたかったみたいなんだ」
「美咲と? ……あ、ならその件はもうたぶん用済みかな?」
「用済み……?」
雛子が美咲と連絡を取りたかったのだとわかった途端、洋平は事情を察したように話し出す。
「『今月の家賃、大家さんに払ったわよー』っていう定期連絡な。母さんは美咲に毎月してるんだ。まぁその件で美咲に連絡がつかないから、昨日俺の方に連絡来たんだけどさー。……夏弥に送ってた内容も、その件だったってだけか~」
「……なるほど。色々と連絡がスムーズに行ってなかったんだな」
その後、間もなく担任の山田先生が教室へやってきて、通常通りの学校が始まったのだった。
◇
さて、その日のお昼休み。
夏弥と秋乃の二人は、昼休みに体育館の方へ向かっていた。
夏弥が連絡を取った結果、お昼でも食べながら秋乃の相談を訊く流れになったのである。
「悪いな、秋乃。ぼっちメシを邪魔しちゃって」
「なーに、お安い御用よ。……てか、軽くディスってない?」
「いやいや。これは思いやりだよ。ぼっちメシは何も悪いことばかりじゃないだろ? 俺だってぼっちメシ極めし男子だからな」
「……。なーんか釈然としないなぁ。『ぼっちメシ極めし男子』の声に出して読みたい感は認めるけど、私女子だからね?」
「じゃあ『ぼっちメシ極めし私は女子』だな」
「わ、口のなかがシャンシャン言いそう!」
藤堂兄妹は廊下を並んで歩いていく。
この二人の目的地は体育館のギャラリー席だ。
いつか夏弥が芽衣と共に『洋平攻略作戦』を話し合ったあの場所である。
あそこなら、特に人目にもつかず、デリケートな話題をしゃべっていてもオッケーだと夏弥は思っていて。
「……いや、それにしても……やっぱり今日…………ちょっと寒いな」
夏弥はそのギャラリーへ続く階段を上がりながら、後ろから上がってくる秋乃に話し掛ける。
夏弥は、本当に朝から肌寒い気がしていた。
ワイシャツにカーディガン一枚ではまだ足りないのかと思うほど、校内の空気が冷たく感じられていて。
「寒いのかな? ……あのさ、なつ兄……大丈夫? なんだか顔色悪いけど……」
「あはは、何言ってんだよ。俺の顔色は生まれつき、悪い……から…………」
夏弥が冗談を言い掛けたその時。
彼の意識は一気に朦朧としはじめる。
「え、ちょ、ちょっと! なつ兄⁉」
夏弥は登りかけていた階段の上でふらつきだした。
後ろから階段を上がってきていた秋乃は、慌てて夏弥の身体を支える。
危うく、夏弥が後ろ向きに倒れてしまうところだった。
「やっぱなつ兄、体調悪いんじゃん‼ 美咲ちゃんから風邪もらったんじゃない⁉」
「……あ……いや……。体調は……」
「無理にしゃべらなくていいから! お、重い……でもこのままだと、私も一緒に下に落ちちゃう……ぐぬ……!」
秋乃は夏弥の体調不良にひどく取り乱していた。
慌てているせいもあって、あの化学準備室に乱入してきた時と同じような声をあげていて。
「うう……日頃運動してない報いが、こんなところで……。ああ、もうダメ! なつ兄、重いっ」
階段や下の廊下に、秋乃の辛そうな声がこだまする。
(秋乃、ごめん。でも俺……力が入らなくて……視界が……なんか、暗く………………――)
夏弥の薄れていた意識は、そこで途絶えたのだった。
視界も完全にシャットアウト。
暗くなってしまってからは、なにやら遠くのほうで秋乃の声だけが聞こえてきていた。
「あ――! ――――っかりして!」
途切れ途切れに聞こえてくるその声だけが、事の重大さを夏弥に教えてくれているみたいだった。
夏弥はその日、風邪で倒れたのである。




