和菓子屋の事務員は復員兵
※ 挿絵の画像を作成する際には、ももいろね様の「もっとももいろね式女美少女メーカー」を使用させて頂きました。
東大寺を始めとする多くの寺社仏閣が市内各地に建立されている事もあり、奈良市は近畿地方でも有数の観光都市として広く認知されているの。
そんな歴史ある古都にして観光都市でもある奈良市において、和菓子屋という業種が果たす役割は非常に大きいんだ。
主要駅の名店街や観光センターの物産コーナーに並ぶ土産物は言うまでもなく、寺社仏閣の御供え物や観光旅館の御着き菓子など、和菓子が無ければ成立しない局面はとにかく多いんだよ。
そうした事情から、他の自治体よりも和菓子の需要が高い傾向にある奈良市において、市内で軒を並べている和菓子屋や製菓会社は何処も連日大忙し。
私こと湯屋賀谷弘恵が勤務している四方黒庵にしても、ならまちを訪れた観光客の御土産需要は勿論、ここ最近は市内の居酒屋や料亭との取引が増えて本当に忙しいんだ。
これもひとえに、日本酒好きの若女将が旅行雑誌の取材で「酒肴としての和菓子」をPRしたのが当たったからだね。
実働部隊である和菓子職人さん達の御多忙は言わずもがなだけど、事務職の私も伝票整理や取引先との電話対応やらに追われて、ボンヤリしている暇もない慌ただしさなの。
だけど私としては、今の慌ただしさは有り難いんだよね。
今みたいに事務作業が忙しければ、それに没頭していられる。
そうすれば、その時だけは忘れる事が出来るんだ。
なるべくなら余人には知られたくない、悲しい思い出をね…
その日も私は四方黒庵本店の事務室で、取引先の伝票整理に勤しんでいたの。
「ふぅ…これで直近の居酒屋関連の伝票は、何とか片付いたか…」
パソコンのブラウン管モニターに表示された表計算ソフトのデータを眺めた私は、軽く伸びをしながら達成感に満ちた溜め息をついたんだ。
繁忙期が有り難いとは言った私だけど、適度な息抜きは欲しい所だよね。
「お疲れ様、弘恵さん。本当に精が出ますわね。」
「あっ、若女将!」
事務室のドアを開ける音から数秒遅れて聞こえてきた気品ある声に、私はサッと振り向いたの。
「もうすっかり、こちらでの御仕事も板についてきたのね。」
アップスタイルに結われた御髪と和服姿も御美しい四方黒美衣子さんこそ、「酒肴としての和菓子」のPRで新たな取引先を開拓した四方黒庵の若女将その人なんだ。
その大らかで優しい人柄から、若女将は御客様からも四方黒庵のスタッフからも愛されているの。
だけど私と若女将には、単なる職場の上司と部下という職務上の間柄以上に深い御縁が存在しているんだ。
「ありがとう御座います、若女将。内地でこうして平和な事務仕事に勤しめるのも、ひとえに若女将を始めとする皆様に良くして頂いたからで御座います。」
「アムール戦争から復員して来た貴女を中途採用してから、もう半年になるのかしら。『光陰矢の如し』とは、この事ね…」
若女将の一言で脳裏に蘇るのは、大日本帝国陸軍女子特務戦隊の主計准尉として過ごした、ユーラシア大陸の戦場での毎日だ。
ユーラシア大陸の旧体制派の残党が結成したテロ組織である紅露共栄軍との紛争は、アムール川流域が主戦場になった事から「アムール戦争」という名前で呼ばれているの。
ならまちの穏やかでゆったりとした時の流れの中で過ごしていると、あの戦場での日々が夢か幻だったかのように感じられてしまうよ。
だけど、全ては現実に起きた事なんだ。
国防色の詰襟軍服に身を固め、着剣した歩兵銃を担った少女達。
戦車の無限軌道が大地を踏み締め、編隊を組んだ戦闘機が空を舞う戦場の風景。
そして戦場の土となった沢山の生命達。
私より遥かに幼い新兵達に、誰よりも空を愛した航空隊のパイロット、それに大恩あるあの御方までも…
失われた生命は、決して取り戻せる物ではない。
その重みを誰よりも分かっていらっしゃるからこそ、あの御方は自らの身を盾にして上官の御命を御守りした。
−同じ幹部将校でも、佐官の自分が生き延びるのではなくて、将官を御守りしなければならない。
その瞬時の御判断によって敵敗残兵の自爆テロは不発に終わり、ユーラシア大陸に進軍した帝国陸軍女子特務戦隊の将官達は無事に祖国への帰還と堂々たる戦勝凱旋を果たされたのだ。
そして一番の立役者である所の園里香上級大佐は、忠義の英霊として無言の帰国を果たされた…
大日本帝国陸軍女子特務戦隊の主計准尉として過ごした日々の出来事を思い出すと、様々な感情が嵐のように胸の中を荒れ狂ってしまう。
郷愁だとか悲憤だとか、それに喪失感だとか。
そしてそんな私の感情の起伏は、若女将には全て御見通しだったみたい。
「ねえ、弘恵さん…貴女の知る里香ちゃんの事…園里香上級大佐の事を、詳しく聞かせてくれないかしら?勿論、弘恵さんの話せる範囲で構わないから。」
こんな風に水を向けられたのだからね。
ともすれば暗くなりがちな私の思考を、園里香上級大佐に関する個人的な思い出話へと軌道修正された若女将の手腕は、本当に鮮やかだったよ。
「最前線での戦闘に馴染めなかった私が兵科から主計科へ転属してからも、園里香上級大佐は変わらずに良くして下さいました…」
そして気付けば私も、上級大佐殿の温かい御人柄に救われた思い出を反芻するかのように、問わず語りを始めていたんだ。
「上級大佐殿は、よく仰っていました。『弘恵ちゃんを始めとする主計科の人達には、本当に感謝しているよ。兵科の私達が安心して戦えるのも、主計科の人達が兵站をキチンと管理してくれているからだよね。』と…そう気さくに労って頂いた時の事は、今でも忘れられません。」
「何しろ里香ちゃんの結婚相手は、海軍の主計将校さんだもの。主計という職種への思い入れは、兵科の幹部将校の中でも特に強かったんじゃないかしら。」
私の恩師の思い出話を語る若女将の表情は、何とも愛おしそうな物だったの。
四方黒庵を継ぐために早々と除隊してしまったけれど、娘時代の若女将も大日本帝国陸軍女子特務戦隊の少女士官で、園里香上級大佐とは士官学校時代からの親友だったらしい。
その付き合いがあったからこそ、除隊後の私は園里香上級大佐の紹介で四方黒庵に事務職として採用して頂けたんだ。
両親や同僚には打ち明けられない戦地での悲しい思い出も、元軍人として若女将は優しく受け止めてくれた。
若女将がいらっしゃなかったら、今の私は存在しなかっただろうね。
「紅露共栄軍の残存勢力を追い詰めた我々が、黒竜江省ハルビン市に到着してすぐの事でした。アムール戦争終結後の除隊を考えていた私に、園里香上級大佐が除隊後の再就職の御話を持ち掛けて下さったのは。」
前線臨時司令部の執務室で再就職の御話を頂いた時の事は、今でもハッキリ覚えている。
−弘恵ちゃんは奈良市産まれだから、四方黒庵を紹介してあげるね。そこの若女将は私の元戦友だから、私の名前を出したら必ず力になってくれるよ。同郷の女子特務戦隊のOG同士、弘恵ちゃんとはきっと気が合うと思うんだ!
昔馴染みの事を御話になる上級大佐殿は実に楽しげで、まるで二十歳前の少女のような屈託の無さだったの。
それだけ園里香上級大佐は、旧友である若女将に深い親愛の情を抱いていらっしゃったんだろうね。
そんな大切な御友達に私を託して下さる優しさと器の大きさには、幾ら感謝してもしきれなかったよ。
「里香ちゃんから届いた最後の軍事郵便に、弘恵さんの事が書いてあったの。『真面目で誠実な子だから、くれぐれも宜しく』って念押ししてあったんだけど、本当にその通りだから驚いちゃったわ。まあ…里香ちゃんが見込んだ人だから、間違いは無いって分かってたけど。」
園里香上級大佐の事を御話になる時の若女将は、少し寂しげだけど愛おしそうな笑顔を浮かべていらっしゃったの。
それだけで、若女将にとっての園里香上級大佐がどれだけ大切な存在なのか、私にもよく分かったんだ…
私と若女将の縁を取り結んで下さった園里香上級大佐は、ハルビンで御亡くなりになって仕舞われた。
だけど園里香上級大佐によって育まれた私達の縁は、こうして今も確実に息づいている。
そして私と若女将の思い出話の中にだって、園里香上級大佐は確かに生き続けているんだ。
王彦章曰く、「虎は死して皮を留め 人は死して名を残す」。
人は死んでも終わりじゃなくて、その思い出や成しえた事を残された者が引き継ぐ事で、その人が生きた証を永遠にする事が出来るんだ。
だからこそ、人と人との縁は大切にしないといけないんだね…