Chap.7
夕方五時頃、一同は二階の廊下の突き当たりの部屋にいた。
天井も壁も床も真っ白な大きな部屋で、窓も照明もないのに不思議に明るい。家具といえば、部屋の中央にでんと置かれた背もたれのない大きくて真っ白なソファだけ。同じ壁の、入り口とは反対側にもう一つドアがある。そして四方の壁はたくさんの絵で埋め尽くされていた。油絵、水彩画、パステル画、色鉛筆画。大きさも額縁の材質もデザインもさまざまなそれらの絵に共通しているのは、みんな風景画だということだった。
さっき二人きりでこの部屋に入った時に、鷹雄君が説明してくれた。
「この部屋は、二つの屋敷に属してるんだ。こっちの世界のこの屋敷と、春の国にある賢女の屋敷とね。だから春の国の屋敷にもこの部屋があるんだ。あっちのドアから出ると、」
と部屋の向こう側にあるもう一つのドアを示し、
「春の国の屋敷に出る」
「こんなにたくさんの絵…。全部風景画なのね」
「そう。僕たちが今日使うのはこれ」
鷹雄君は、シンプルな飴色の木の額に入った中くらいの大きさの水彩画を指差した。苔むした石の日時計と古びた小さなベンチのある小ぢんまりとした庭。自然のままに伸び放題になった花々が咲き誇っている。
「使う、って?」
「この部屋の絵は全て実在する場所なんだ。この部屋から絵を通ってその場所に行かれるんだよ」
「ええー!すごい!じゃ、この絵は夏の国なのね?」
「いや、夏の国との国境近くの庭。他の国にはきちんと門番のいる門を通って入らなきゃいけないからね」
鈴はがっくりしてため息をついた。
「ここから直接入れるんなら簡単だと思ったのに…。門番の人に色々質問されるの?空港みたいに『入国の目的は?』とかって」
「どうかな。僕も通ったことないから…」
「えっ、ああ…そうか…」
そういえば鷹雄君だってこっちの世界の人なんだった。なんだか春の国の住民のような気がしていた。
鷹雄君はどうして春の国で賢女さんの弟子なんかになってるんだろう…。
訊いてみたいなと思ったけれど、そんな個人的なことを聞くのはなんだか図々しいかなと思いとどまった。まだそこまで親しくなれているわけじゃないような気がする。
「遅いこと」
賢女が苛々したようにため息をついた。
「少しでも早くと思っているのに」
お母さんが眉をつり上げる。
「仕方ないでしょ、研究所は遠いんだもの。それに向こうの世界の手筈が整ったのだってついさっきじゃないの」
そして賢女をきつい目で睨んだ。
「お母さま、宗太郎さんに失礼な態度を取ったりしたら許さないわよ」
宗太郎さんというのは鈴のお父さんだ。毎日少し遠くの研究所で医学の研究をしている。
賢女は何も聞こえなかったかのように、
「鷹雄、ベラの住所は控えてあるでしょうね」
「はい」
「国境の門のところに迎えに来ることになっているけれど、万が一ということがありますからね」
そこへ、リーンゴーンとなんだか大袈裟なドアベルが響き渡った。
「宗太郎さんだわ」
お母さんが小走りに部屋を出ていく。
鈴はそっと賢女の顔を盗み見た。無表情だけれど、きっとお父さんのことを悪く思っているに違いない、と鈴は思った。だって跡継ぎだったお母さんと駆け落ちしたんだものね。でもさっきお母さんが言ったように、もしお父さんに失礼な態度を取ったりしたら、私だって絶対に許さないからね、賢女さん。
隣に立っている鷹雄君をちらりと見上げたら目が合った。にこりと微笑み合う。
「なんか緊張してきちゃった」
小さい声で言ったら、鷹雄君が口を開く前に賢女が
「何も緊張することなどありませんよ。あなたは口をつぐんで余計なことを喋らず、ただチカを探せばいいのです」
と相変わらず高飛車な調子で言ったので、鈴はうんざりして
「わかってます」
と答えた。さっきから散々言われているのだ。とにかく余計なことはしゃべるな。余計なことをするな。ただただチカを探せ。
絨毯を敷き詰めた廊下を走ってくる音がして、息せききったお父さんが部屋に飛び込んできた。すぐ後ろにお母さん。
「申し訳ありません。遅くなりました」
部屋全体にきびきびとそう言ってから、お父さんはまず賢女に近づいた。
「お久しぶりです」
会釈する。賢女は無表情のまま頷き、
「元気そうで何よりです」
慇懃な口調で挨拶を返したので、お母さんがほっとした顔をした。
次にお父さんは二台の自転車の隣に並んで立っている鈴と鷹雄君のところに来ると、鷹雄君にあいさつの手を差し出した。
「香野宗太郎です」
「北村鷹雄です」
大人同士のように握手して、
「鈴をよろしくお願いします」
「はい」
鷹雄君が真剣な顔でしっかり頷いたのを見て、なんだか嬉し恥ずかしな気持ちでいると、お父さんが鈴を見下ろしてにこりとした。
「びっくりしてる?」
鈴はえへっと笑ってみせた。
「うん、結構びっくりしてる」
「帰ってきたらいっぱい話そうね」
「うん」
ほんと。訊きたいことがいっぱいだ。
「気をつけて行っておいで」
頭にそっと手を置かれたら、どうしてだかちょっと泣きそうな気分になった。一所懸命笑顔を保ってもう一度、
「うん」
と頷く。
「それでは二人とも、」
賢女が威厳ある声音で言った。鈴でさえ神妙に頭を垂れたくなるような声だった。
「道中つつがなきよう。成功を祈ります」
「行ってきます」
「行ってまいります」
鈴と鷹雄君の声が重なった。
「気をつけてね」
お母さんの目が潤んでいる。
大人たちが部屋の中央のソファ辺りまで下がり、リュックを背負った鈴と鷹雄君がそれぞれの自転車を押して日時計のある庭の絵の前まで進み出た。鷹雄君が左手を差し出す。自転車越しに手を伸ばしてしっかり手を繋ぐ。
「ちょっと強い風が吹くみたいな感じがするけど、一瞬だから」
「了解」
今回は目をつぶってとは言われなかったけれど、鈴はきゅっと目を閉じた。
すぐに、身体がふわりと浮くような感じがした。と思うまもなく、鷹雄君が言った通り、ざっと一陣の強い風が吹いた。
目を開けるよりも先に、まず鼻が春の国の空気をとらえた。深く息を吸い込むと、なんだか身体中が生き生きしてくる。
そこは低くなった太陽のオレンジ色の光に照らされた美しい庭だった。
目の前に、絵の中に描かれていた苔むした日時計があり、あたりの草は伸び放題。所々にあの宝石のような小さな花が咲いていて、夕日を受けてきらきらと輝いている。絵の中では見えなかったけれど、少し離れたところには小さなコテージ風の家が建っていた。
善良な日本人としてはちょっと心配になる。声をひそめて訊く。
「誰かの家の庭なんじゃないの?ここ」
「大丈夫。空き家のはずだから。でも一応早く出たほうがいいね」
夕日に光る銀色の自転車を押して、崩れかけた低い石垣の間にあるボロボロの古い木戸を通り抜け、二人は細い道に出た。
自転車にまたがる。
「五分くらいで国境」
「道わかるの?」
「うん、国境までは行ってみたことあるんだ。結構面白い眺めだよ」
細い道なので、並んでは走らず、鷹雄君の後についていく。風が心地いい。あたりの空気はふんわりとした淡い薄紅色に染まっている。ダークグレイのパーカーに黒いリュックを背負った鷹雄君の後ろ姿。そういえば鷹雄君が自転車に乗ってるところを見るのは初めてだ。そして制服姿以外の鷹雄君を見るのも。初めてづくしの一日。
あたりに家はほとんどなく、あったとしても道からかなり離れている。所々にある並木が途切れると、なだらかな丘の続く田園風景が遠くまで見渡せる。夕日の橙色の光に照らされていても、木々の緑が春独特の柔らかい煙るような色なのがわかる。春の風景だ。
そのうちに二人は森の中に入った。
森の中は薄暗かったけれど、道の両脇に直径五十センチメートルくらいの光る球体が等間隔で並んで足元を照らしていた。電灯の光り方とは違う。きれいだな、何でできてるんだろう、と思ったけれど、こんなところで大きな声でそんなことを話してはいけない。確かにここはまだ春の国だけれど、国境が近いのだ。用心するに越したことはない。後で訊けるときがあったら訊こう、と頭の中にメモする。
しばらく森の中を行くと、向こうのほうに明かりの灯った小さな小屋が見えてきた。球体のフットライトはその辺りでぷっつり途切れているように見える。さらに近づいていくと、前方が黒っぽくて高い塀のようなもので遮られているのがわかった。よくは見えないけれどその塀はずーっと左右の森の中まで続いているようだ。真ん中、つまり道の延線上にはアーチ型をした大きな扉が見える。
それにしてもものすごく高い塀だ。一体どれだけ高いんだろうと思いながら近づいていく。そして小屋の前で自転車を降りたとき、鈴はあんぐりと口を開けて上を眺めていた。
それは天まで届くかと思われるような塀だった。しかもただの塀ではなく、柊のようなツヤツヤしたダークグリーンの植物がぎっしりと絡み合い、上へ上へと続いている生垣。
「…すごい」
「でしょ」
鷹雄君がにこりとする。
「やあやあ、いらっしゃい」
しゃがれた声がして、小屋の中から少し腰の曲がった赤い頬のおじいさんが出てきた。
「こんばんは」
鷹雄君が言い、鈴も頭を下げた。
「夏の方へ行かれるんですな。どれ、ちょっと待ってくださいよ」
おじいさんは門の方へひょこひょこと歩いていきながら、グレイの毛織のズボンのポケットから大きくて重そうな鈍い銀色の鍵を引っ張り出した。
生垣の中にぴったりとはまり込んでいる門は、三メートルくらいの高さだった。美しい木目の浮き出た褐色の木の扉には取っ手がどこにもついておらず、真ん中に大きな鍵穴がついている。
「よいしょっと」
おじいさんが呟いて大きな鍵を鍵穴に差し込むと、巨大な扉はなんとすうっと横に滑って生垣の中に吸い込まれていった。
「さあ、どうぞ」
「ありがとうございます」
鷹雄君が軽く会釈をして門をくぐり、鈴もにこりと会釈をして後に続こうとしたとき、
「おや、お嬢さん…」
おじいさんが鈴を見て呟いた。
「はい?」
おじいさんはじっと鈴を見つめて、訝しげな顔をして首を傾げている。鈴はどきどきした。
「…いや、失礼。ついこの間ここを通られた方によく似ておいでだと思いましてね。同じ方がもう一度来られたのかと…。失礼しました。さあ、どうぞお通りください」
「ありがとうございます」
門をくぐって鷹雄君と一緒になった。二人の後ろで扉がすうっと閉まった。
私によく似た人?
二人顔を見合わせて眉を上げたけれど、こんなところでそんなことを喋るわけにはいかない。
「行こう」
「うん」
それだけ言って自転車を押して歩き出した。
目の前は五メートルほど続く生垣のトンネルになっていて、ぼんやりとした明かりに照らされている。その先に今通ってきた門と同じような木の扉があった。やはり取っ手がない。
鷹雄君がちょっと思案するように立ち止まり、それから手を伸ばして扉をトントンとノックした。するとドアがすうっと横に滑って開いた。温かい空気がふわりと流れてくる。
「父ちゃん、お客さんだよ」
二人がトンネルから出るが早いか、近くで遊んでいたらしい小さな男の子が甲高い声で呼ばわった。
そこは森の中ではなく、からりと開けた牧場のようなところだった。振り返ってみるとあの高い高い生垣はなく、代わりに横に長く長く続く白塗りの木のフェンスと白塗りの木戸があり、近くにファームハウス風の家が建っていた。
「あいよ!」
家の方から声がして、背高のっぽの男の人がフリルのついたピンクのエプロンで手を拭き拭き小走りにやってきた。
「やあ、ようこそ。こんな格好で失礼しますよ。今、食事の支度をしていたもんで…。下の子がまだ小さくてね。手がかかるもんで、家事分担ってやつですよ。何もこんなぴらぴらしたもんまでつけなくてもいいじゃないかって私はいつも言うんですけどね、うちのやつが、油で服が汚れるからつけなきゃだめだーってがみがみ言うんですよ。まったく、男の着るもんじゃありませんや。ねえ」
同意を求められた二人は、なんと言っていいものかわからず言葉を返せなかったけれど、男の人は返事は期待していなかったらしく、すぐにまた早口で先を続けた。
「で、お客さん方はどちらの方々で?」
「春の国の者です」
男の人はポンと手を打った。
「ああ!そうだと思いましたよ。いやね、こんな仕事をしてますとね、大抵はお顔でわかるんです。それと雰囲気とね。冬の国の方々なんかは、ほんとにすぐわかりますね。全身からね、こう、冷たーい空気が漂ってくるようですよ。いやいや、お人柄が冷たいっていうんじゃないんですよ。纏っている空気なんです。それとお顔と。春の国の方々は、なんていうんですかね、こう、花のような雰囲気をお持ちですよ。こちらの可愛いお嬢さんなんて、ほら、春の花そのものというような雰囲気じゃないですか。いっぺんでわかりますよ…あれれ?」
男の人は鈴の顔を見つめて目を丸くした。
「いやー、これはこれは。驚き桃の木山椒の木。いや実はね、ついこの前、そう、ちょうど一週間くらい前でしたかね、お嬢さんとそっくりの方をお迎えしたんですよ。誓って申しますが、いや、本当にそっくりさんでね。へえーこんなこともあるもんなんですねえ。世の中ってやつは面白い…」
「父ちゃーん」
家の方からさっきの男の子よりも小さな女の子が駆け出してきた。
「お鍋がぶくぶくいってるー」
「えっ、ああ、触っちゃだめだよ!なんにも触るんじゃないよ!あっちっちだからね!どうもすいませんね、ばたばたしてまして。それじゃ、ご機嫌よう、お気をつけて。夏の国での滞在を楽しまれますように!」
二人が慌ててお礼を言い終わる前に、男の人はダッシュで家に駆け戻っていった。
「ねえ、私にそっくりな人って…」
周りに誰もいないのを確認してから、鈴は小声で言った。
「うん…」
鷹雄君も思案顔で頷く。
「…でも、叔母さんが私そっくりに姿を変えたりできるわけないよね。だって私のこと知らないんだもの。私の外見がどんなふうか知らないんだから…」
「いや、知ってる可能性はあるよ」
そう言って、鷹雄君はばつの悪そうな顔をした。
「…その…少し前に賢女にリンの写真を持ってくるように言われて、何枚か渡したんだ。ごめん」
鷹雄君があんまり罪悪感いっぱいの顔をするので、鈴は驚いた。
「いいよ、そんな、謝らなくて。クラスの集合写真とか?」
言いながら、あれ?そんなはずないか、と思った。鷹雄君は七月に転入してきたばかりだから、クラス写真は持ってないはず。
鷹雄君はますます罪悪感に打ちのめされた顔をして、
「…隠し撮り。本当にごめん」
「え」
鈴が赤くなると、鷹雄君も赤くなった。
「もちろん、変な写真とかじゃないよ。下校時に校門辺りで三枚くらい…ごめん。本当はちゃんと頼んで撮らせてもらうべきだったんだろうけど…なんて言って頼んだらいいかわからなくて…」
鷹雄君がこんな顔して赤くなるなんて初めて見た。笑いが込み上げる。
「いいよ。タカ君だから許す」
言ってしまってから真っ赤になる。なんてセリフ。誤解を招くではないか。
「いや、つまり、賢女さんに言われたんだから仕方ないよねってこと」
早口で弁解する。
「えーと、そ、それで…、そっか、それで叔母さんが私の写真を見たかもしれないってことか。ねえ、そういえば」
ふと気がついた。
「私、叔母さんの写真見てない。持ってる?」
鷹雄君が首を振る。辺りをさっと見渡して声をひそめる。
「この世界では写真ってものは存在しないんだ」
びっくりだ。
「そうなの?」
写真がない世界なんて…。
「だって…どうして?」
「さあ、それは僕にもわからないけど、考え方の違いというか、文化の違いというか…。ここの人達はそういうものを必要としない、欲しいと思わない、ってことなんだろうね」
「でも…だって…家族の誰かが亡くなったりしても、写真がないの?」
デイジーのニコニコ顔の写真が浮かぶ。
「肖像画っていうものはあるらしいんだ。でも普通の人はそんなもの描かせたりしないみたいだよ。よっぽど変わった人がすることだっていう認識みたい」
「へえ…」
ため息が出る。本当にここって違う世界なんだ。写真がない生活なんて、思い出が頭の中だけなんて、そんなの想像できない。
「あ、あれ…」
道の続く方に目をやった鷹雄君が呟いた。
夕日で豪華なピンク色に染まったいかにも夏らしいもくもくとした大きな雲の下、両側を美しい緑の牧場に挟まれた道を、クリーム色のオープンカーがかなりのスピードでやってくるのが見える。丸みを帯びた形で、鈴は思わずガラスの器にふんわりと盛られたバニラアイスクリームを連想してしまった。おいしそう。運転席しているのは派手な紫色と藤色の帽子をかぶった人で、こちらに大きく手を振っている。
「ベラさんかな」
「だろうね。行ってみようか」
「うん。あ、ちょっと待って」
さすがにちょっと暑い。ライトグレイのパーカーを脱いで自転車の籠に入れる。鷹雄君も同じようにした。
並んで自転車を漕ぎ出しながら訊いてみる。
「ねえ、叔母さんてどんな感じ?うちのお母さんに似てる?」
思いがけない返事が返ってきた。
「僕は会ったことないんだ」
「えっ、そうなの?」
「うん。この騒動があるまで、存在すら知らなかった」
「そうなの⁉︎」
一体どういうことなんだ。訊きたいけれど、スピードを落として停車したバニラアイスクリームの近くまで来ていたので言葉を呑み込む。
運転席でニコニコとこちらを見ているのは、ぽっちゃりした朗らかな顔の初老の婦人で、紫色のスミレの花やリボンやフリルでこれでもかというくらい飾り立てた大きな藤色の帽子をかぶり、紫色の飾りがあちこちについた豪奢な藤色の絹の衣装をまとっていた。
「ようこそ!鷹雄君に鈴ちゃんでしたわね?ベラです。お会いできて嬉しいわ。ハルミさんからお話は聞いてます。お乗りになってと言いたいとこだけど、その自転車はちょっと乗らないかしらねえ…」
真面目な顔で後部座席を振り返って思案している。
「ウーンちょっと無理かもしれないわ。家はすぐそこなのよ。初めの角を右に曲がって、そのままずっと行くと、左に入る細い道があるの。『ねむの花』って札が出ていて、矢印が書いてあるからすぐわかると思います。私、先に帰ってお二人をお待ちするわ。それでよろしいかしら」
「はい」
ベラはにっこりして片目をつぶると、
「お食事前に、とびきりおいしいアイスクリームを食べましょうね」
そして驚くほど軽々とスムーズに車の向きを変え、
「お待ちしてるわね!」
と朗らかに叫んで二人に手を振り、またかなりのスピードで去っていった。日本だったらスピード違反で捕まること間違いなしだ。二人で顔を見合わせてちょっと笑う。
「行こうか」
「うん」
道は緩い下り坂になっていてちょっとスピードが出る。風が気持ちいい。
「湿度が高くないのね。そんなに暑くもないし」
「そうだね、初夏って感じ」
「ねえ、さっきの話。…あ、でも…話しても大丈夫かな」
自転車で走りながらだから、ひそひそ声でというわけにはいかない。
「周りに誰もいないから大丈夫だと思うよ。でも一応言葉に気をつけて、できるだけ声を抑えて話そう」
「了解。あのね、叔母さんの存在も知らなかったってどういうこと?」
鷹雄君は注意深く言葉を選びながら話した。
「んー、そもそも『ボス』の本来の『職業』のことについてだって、僕は叔母さんの事件があるまで知らなかったんだ。僕は十二歳の時から春の国の魔法学校、というか魔法塾に行き始めたんだけど、『ボス』のところでの修行は魔法塾の先生に勧められて三週間くらい前に始めたばかりだしね。その時だって、『ボス』がどういう立場の人なのかはっきりとは知らされてなかった。リンのことは最初に聞いたけど。向こうに孫がいるから、同じ学校に入ってほしい、って」
「…そうだったんだ」
「他の人たちも、『ボス』についてはあまり知らないらしいよ。『ボス』の本来の『職業』についても、春の国の人たちですら知らない人たちの方がずっと多いらしい。ましてその娘たちのことなんてなおさら。でも、魔法塾の先生は『ボス』の昔からの知り合いだから、さすがに事情を知っているみたいで、今回の事件があってから僕も少しだけ話を聞いたんだ」
緩い坂を下り切って十字路に来た。ベラに言われた通り、右に曲がる。今下ってきた坂道より少し細い道で、先の方は森の中へと続いていた。鷹雄君が話を続ける。
「先生によると、『ボス』は叔母さんをできるだけ外に出さないように、人に会わせないようにしてきたらしい。以前に、その…リンのお母さんのことがあったから、二度と同じことが起こらないようにって」
「…そうなんだ」
「だから僕も毎日『ボス』のところに通っていたにも関わらず、一週間くらい前に『ボス』から今回の件について聞かされるまで、叔母さんのことなんて存在すら知らなかったというわけ」
「…そっか」
鈴は少しずつ黄昏の色に移り変わりつつある空を見上げて、そっとため息をついた。
まだ明るい空に一番星がちらちらと瞬いている。
叔母さん、かわいそうだな…。
チカ叔母さんに対して抱いていた批判的な思いが、空気の抜けた風船のようにどんどんしぼんでいく。代わりに、あの象牙色の部屋で最初に賢女の話を聞いた時からなんとなく心の底にもやもやとしていたものが、深海からぐんぐん上昇してきて水面まで浮かんできた。
悪いのは、一番悪いのは、お母さんじゃないか。
チカ叔母さんよりも、もっと無責任で自覚がないのは、お母さんじゃないか。
賢女の一番上の娘なのに、跡継ぎだったのに、他の世界の人と駆け落ちなんてして…。
駆け落ち。
駆け落ちは一人でするものじゃない。
お父さんだって悪いんだ。
大好きなお父さんの笑顔が頭に浮かんで、胸の奥がぎゅっと痛くなったけれど、鈴はそれを努めて無視して考え続けた。fair and square——公明正大——でなくちゃいけない。鈴の好きな言葉だ。
お父さんは、お母さんが春の賢女だって知っていたのに、賢女の跡継ぎだって知っていたのに、それなのにお母さんと駆け落ちした。
自分達が幸せになれれば周りに迷惑かけてもいいなんて、それって自己中だよね。
二人がそんなことをしたから、チカ叔母さんがお母さんの代わりに賢女の跡継ぎにならなくちゃならなくなった。お母さんが駆け落ちなんかしたから、外にもあまり出してもらえず、人ともあまり会えず暮らさなくてはならなくなった。そりゃ家出したくなるに決まってる。
私って、そんな無責任で自己中な人たちの娘なんだ…。お父さんもお母さんも大好きだったのに。悪いことなんかしない、いつも正しいことをする、きちんとしたいい人達なんだって思ってたのに。なんだか…なんだか……
「どうしたの?」
鷹雄君の声に鈴は我に返った。考え事をしている間に、森のすぐ近くまで来ていた。ごたごたした頭のまま返答する。
「うん…なんていうか…叔母さんもかわいそうだなって思って。自己中なうちの両親の犠牲者だよね」
思わず皮肉っぽく言うと、鷹雄君がうーんと言った。
「それは…結果的にはそういうふうにも言えるかもしれないけど…。でも仕方がなかったんだし」
森の中に入った。急に薄暗くなる。
「仕方がなかったなんてことないでしょ。駆け落ちだよ?命を狙われていたとか、国が空爆にあったからとかならわかるけど、結婚するために逃げ出すなんて」
「でも、『ボス』に結婚を反対されたんじゃない?駆け落ちって大抵そういうバックグラウンドがあるよ」
鷹雄君が落ち着いた口調で言う。
「そしたら、結婚するためには駆け落ちするしかない。他に選択肢はなかった。仕方なく駆け落ちするってことになる」
「でも、『ボス』の跡継ぎだったわけでしょ。大事な大事な仕事じゃない。全ての世界の、えーと、『あれ』を守るなんて。そっちの方が恋愛なんかよりずっとずっと大事でしょ」
この前観た素敵な映画を思い出して付け足す。
「『ローマの休日』みたいに」
「なにそれ」
「映画。王女様が逃げ出して新聞記者と恋に落ちるんだけど、でも駆け落ちなんかしないでちゃんと戻ってくるお話。王女としての責任があるから」
「へえ…」
『ローマの休日』はお母さんと一緒に観た。お母さんも目をうるうるさせて観てたけど、なによ、自分は駆け落ちしたんじゃない。アン王女とは大違い。
「じゃ、リンだったらどうする?」
「もちろん仕事を選ぶ」
「ええー」
鷹雄君が抗議するようなからかうような声を上げたので、鈴はむきになって反論した。
「だって、普通の仕事じゃないよ。全ての世界の『あれ』を守るなんて、すっごく大事な仕事じゃない」
「じゃ、リンは世界のために自分の幸せは犠牲にするんだ」
「幸せを犠牲にするわけじゃないよ。だって絶対にその人と結婚しないと幸せになれないってわけじゃないでしょ。したかったら後で他の人と結婚すればいいし、それに幸せなんて結婚する以外にいくらだってあるはずじゃない?」
鷹雄君がううーんと唸った。
「…リンって、誰か好きになったこととかないの?」
「え」
慌ててしまう。
「いや、えっと、んー…」
鷹雄君は何も言わずに鈴の答えを待っている。ちゃんと答えたくて焦る。
「…どういう『好き』かによるけど、その、んー、その人みたいになりたいなとか、素敵だな、かっこいいな、って憧れてるみたいな『好き』ならあるけど、毎日会えて幸せ!とか、目が合ってきゃー!とか、そういうのはない、かな」
憧れている本人にそんなことを言うのはものすごく恥ずかしかった。辺りが薄暗くて幸い。
「そっか」
笑われるかと思ったけれど、鷹雄君は真面目に頷いた。
「じゃあ、毎日会えて幸せ、って思えるような相手ができたら、リンにもお父さんとお母さんの気持ちが少しわかるようになると思うよ」
穏やかに諭されるように言われて、思わず訊いてしまった。
「タカ君、そういう相手いるの?」
鷹雄君はちょっと笑った。
「それは内緒」