Chap.6
午後の時間は、旅の支度をしているうちにどんどん過ぎていった。
お母さんは、家に鈴の衣類——服は向こうの世界のものを着ないとこちらの出身だとバレてしまうので、つまりは下着類だ——を取りに帰り、賢女は向こうの世界の信頼のおける数人の知り合いに連絡を取るのに忙しく、鈴と鷹雄君は二人で荷造りをした。
荷造りは、魔法で行われた。
鷹雄君がさっき言った「この屋敷に住んでいる魔法」が巻尺を使って二人の大体の寸法を測り、必要な服やその他の細々したものを用意してくれ、鷹雄君曰く「旅行用のリュックサック」に詰めてくれた。
そのリュックサックは小さ目で、旅行用というよりはたとえば友達とディズニーランドに行くときに持って行くミニリュックのように見えるけれど、数日分の衣類も洗面用具もおやつも楽々入り、しかも何も入っていないかのように軽いのだった。
服を詰めるには少し時間がかかった。魔法が持ってきてくれる服ならなんでもいいとはさすがに言えなかったからで、たとえばまず最初に魔法が淡いピンク色の地に黄色のアヒルの模様がデカデカとプリントされている長袖のTシャツを持ってきた時、鈴は思わず「ええー」と抗議の声を上げてしまった。
「これは…ちょっと……どうして?」
鷹雄君がくすくす笑う。
「リンに似合いそうって思ったんじゃない」
そうそう、かわいいですよ、とでも言っているように、Tシャツがふわり、ふわり、と揺れる。申し訳ないなと思いながら言ってみる。
「…あのね、あの…もっと普通の、グレイとか黒とか紺とかそういうのじゃだめ?」
Tシャツの動きが止まり、くるりと向きを変えて部屋を出ていく。入れ違いに、ごく普通のダークグレイの長袖Tシャツがすすーっと宙を進んできた。
「そうそう、こういうの!ありがとう!」
ほっとして言うと、Tシャツはささっときれいに畳まれて鈴の紺色のリュックサックの中に入った。
「魔法さん達って、たくさんいるの?このお屋敷」
「うーん、魔法だからね。個体がいるわけじゃないから数えられないけど、用があるときは頼むとすぐなんでもしてくれるよ」
「そうなんだ」
知らないこと、知りたいことがいっぱいだ。魔法のことも、四季の世界のことも、他の世界のことも、…鷹雄君のことも。
鷹雄君の黒いリュックサックの中に綺麗なプルシャンブルーの長袖Tシャツが入るのを見ながら訊いてみる。
「タカ君青が好きなの?」
「どっちかっていうと緑の方が好きかな。リンは?何色が好き?」
「水色と空色」
即答すると、鷹雄君がちょっと目を丸くしてからにこりとした。
「なんかリンらしい」
「え、そう?」
「うん。似合ってると思うし、ただ青とか言わないで水色と空色っていうところもリンらしい感じ」
なんだか照れくさくて、そしてすごく嬉しい。
隣の席とはいえ、教室では周りにみんながいる。こんなふうに二人だけで話すって、なんだか…親密だ。
するとそこへ、澄んだ空色のキャップと柔らかな水色の霞のようなスカーフがやってきた。鷹雄君のところへは深いダークグリーンのキャップ。
「わあ、素敵!ありがとう!」
「聞かれてたね」
鷹雄君が楽しそうに笑う。
本当は必要なものの詳しいリストでも作って魔法にお願いすれば、荷造りもさっさと終わるんじゃないかなと思ったけれど、こんなふうに魔法とやりとりしながら鷹雄君とおしゃべりしていられるのが楽しいので、鈴は何も言わないことにした。
「何時ごろ出発するの?」
「多分夕方くらいじゃないかな。賢女が他の国の知り合いと連絡とってるから、その辺の手筈が整えば出られるよ」
「チカ叔母さん、すぐ見つかるといいけど…」
思い切って訊いてみる。
「あのね、もし叔母さんが見つからなかったらどうなるの?」
鷹雄君は難しい顔をした。
「僕も青い月の宵の儀式についてはよく知らないから、はっきりしたことは何も言えないけど、多分賢女一人で春の音を歌うんじゃないかな。でも賢女が一人だけで歌った場合、春を美しくできるのかどうかは僕は知らない。いつもの半分くらいは美しくできるのか、それとも全く美しくできないのか」
「そっか…」
春が美しくないということは、つまり春が春としてきちんと機能しないということだ。花がつかなければ実がならない。農業をやってる人たちにも、自然の中で暮らしている動物達にも影響が出てしまう。ため息が出る。
「叔母さん見つからなかったらどうしよう…」
責任重大だ。なんだか行く前から気が挫けそうな気分になる。
「それは見つからなかった時に考えればいいことだよ」
鷹雄君が穏やかに言った。
「今は、見つけよう!見つかる!って思って探しに行けばいいんだ」
胸がじんとして、鈴は数秒間ぼうっと鷹雄君に見惚れた。
すごい。そんなふうに考えたことなかった。
「…いいね、その考え」
心から言った。何だか心の中の地平線が一気に広がったような感じがした。
鷹雄君て、やっぱり素敵だ。
しばらくして、「魔法」が持ってきてくれたジーンズについて二人でああだこうだと言っていると(日本ではき慣れているものとは素材も形もずいぶん違う。分厚くて、ゴワゴワしていて、ストレッチがほとんど効かない)、賢女がせかせかと部屋に入ってきて、鈴に向かって
「ところであなたは馬に乗れるのでしょうね」
と言った。突拍子もない質問に鈴は面食らって訊き返した。
「馬、ですか?」
賢女は眉をひそめて鷹雄君を見た。
「この子は耳が悪いのかしら」
鈴はムッとしてぶっきらぼうに答えた。
「耳は悪くありません。それから馬には乗れません」
賢女は苛立たしげにため息をついた。
「それではせめて自転車には乗れるのでしょうね」
「もちろんです」
賢女はやれやれと言って首を振った。
「馬に乗れないなんて不便なこと。自転車では雪の中は走れないでしょう。冬の国に入ったら歩かなくてはなりませんよ」
「でも冬の国まで行かなくてはならない可能性は低いと思います」
鷹雄君が言うと、賢女は渋い顔をしながらも頷いた。
「そう、あの堪え性のないチカが冬の国などに行くとは思えませんからね。しかし万が一ということがあります。馬に乗れないとなると、冬の国の知り合いに移動手段についても訊かなくては」
象牙色の服の裾を翻して部屋を出ていった。
鷹雄君がくすくす笑って、
「さすが孫娘。お母さん見てて思ったけど、三人ともよく似てる」
「ええっ」
冗談じゃない。
「似てないよちっとも」
「『耳は悪くありません。それから馬には乗れません』」
鷹雄君がこれ以上はないくらい高飛車な口調で言って、にやりと鈴を見る。
「そんな言い方してないもん!」
「してたよ」
「してない!それ賢女さんの真似でしょ」
「リンのだよ」
二人で笑いこけていると、ドアから自転車が二台するすると入ってきた。銀色のほっそりした優美な線の自転車だ。籐のバスケットが付いている。
「わあ素敵な自転車!」
立っていってよく見る。サドルの低い方が鈴のだろう。
「ここから自転車で行くの?」
「そう。まず夏の国から。春と夏の国境にはここから直接行かれるから楽だよ」
「いきなり夏の国なの?」
本当は入国禁止の国。なんだか緊張する。
「大丈夫。賢女の知り合いの人にすぐ会えるはずだから」
「順番に行かないとだめなの?夏、秋、冬、って」
「それか冬、秋、夏、だね。春の国に接してるのは夏と冬だから。秋に直接は行かれない」
鈴はドーナツのような世界を想像した。
「最初に秋の国に行かれればいいなって思ってたんだけどな。…もし夏の国か冬の国で、私たちがこっちの世界の人間だってわかったらどうなっちゃうの?罰される?」
「それは僕にはわからない。でも僕たちが罰される云々より、春の国への影響のことを考えると、言動に十分注意しなきゃって思うよ」
鷹雄君が真剣な顔で言う。
「そうだよね…」
鈴も頷いた。
私たちの身元がバレたら、まず、春の国の統治者自らが、自国の者と偽って外の世界の人間を夏の国に送り込んだことがバレる。次に、次代の統治者が行方不明、しかもなんと家出をしたことがバレる。大醜聞だ。春の国が大恥をかくことになってしまう。
「まったく。とんでもないことしてくれたわよね、叔母さん。周囲にこんな迷惑かけて、無責任にも程があるわ。賢女としての自覚ってもんがないのかしら」
鼻息荒く鈴が言うと、鷹雄君が吹き出した。
「…なんで笑うの」
鈴は口を尖らせた。真面目に言ってるのに。
「ごめん。だって、賢女が言ってたのと全くおんなじこと言うから…」
くすくす笑いながら、鷹雄君は優しい目をしてリンを見た。
「やっぱりさ、家族なんだね」
「似てません!」
「そうじゃなくて。リンもやっぱり春の賢女の一族として春の国を思う気持ちが芽生えてきてるんだなってこと」
言われて鈴は戸惑った。
「…そ、そうかな…」
「そんな感じがする」
鷹雄君が柔らかく微笑んで、鈴は顔が赤くなるのを感じた。