Chap.4
薄緑色の、と形容したくなるような風が、すうっと鈴の髪を梳いていく。木漏れ日が緑色の木の葉の間からきらきらとこぼれ落ちてくる。楽しげな小鳥の囀り。
足元はまるで柔らかな絨毯のようで、香草のような爽やかな香りが立ち上ってくる。何かがちらちら光っているような気がしてよく見ると、なめらかな苔のような緑の草のあちこちに、小粒の真珠くらいの小さな花たちが散りばめられているのだった。ピンク、白、黄色、赤、オレンジ、青、水色、薄紫…。さまざまな色の花たちはまるで宝石のように煌めいている。
鈴は慌てて足を花たちの上からどけようとしたけれど、花たちはここにもそこにも咲いていて、足の踏み場がない。
「どうしよう。お花踏んじゃう…」
「大丈夫だよ。ほら」
鷹雄君が右足を上げる。顔を近づけてよく見ると、靴の下でひしゃげていた花たちが見る見るうちに元の形に戻り、緑の草も、今まで一度も踏まれたことがないかのようにしゃんと立ち上がった。
「すごい。どうなってるの…」
「ここは春の国だからね。植物がみんな生き生きしてるんだ。さ、ランチランチ」
鷹雄君がすたすた歩き出したので、鈴も足元は気にしないことにして早足でついていった。一足ごとに足元から爽やかな香りが立ち上る。
「ねえ、春の国があるってことは、夏の国も秋の国も冬の国もあるのね」
「その通り。ここはそういう世界なんだ。四季の世界」
「じゃ、それぞれの国でその季節を『美しく』するための儀式が行われるわけね」
「そうだろうね。他の国のことは僕は知らないけど、きっとそうだろうと思うよ」
鈴はちょっと意外に思った。なんでも知ってそうな鷹雄君が「他の国のことは知らないけど」なんて。
「近くに公園があって、そこにホットドッグの店があるんだ。あとハンバーガーと、クレープと、フィッシュアンドチップスの店もある。何が食べたい?」
「初めてだし、鷹雄君に任せるよ」
「了解。じゃ、ホットドッグにしよう」
美しい森の中をせかせかと歩きながら訊ねる。
「ね、叔母さんが国外に出たってことは…」
鷹雄君がシッと唇に人差し指を当ててみせた。
「それは極秘なんだ。だから気をつけて」
思わず口を手で覆う。
「ご、ごめん」
「ここは大丈夫。でも周りに人がいるときはその話題はやめとくほうがいいかな」
「わかった。やっぱり人に知られたらまずいのね」
「うん、さすがにね。大スキャンダルだから」
「そうだよね…。賢女って、女王とかそういう感じなの?」
「ちょっと違うけど、でもそうだね、そんな感じ」
ふむ、と考える。
「卑弥呼みたいな?」
鷹雄君があははと笑う。
「ああ、そうだね、近いかも」
緑の木漏れ日の下の笑顔に思わず見惚れる。イケメンだなあ、やっぱり。男子になるならこんなふうになりたい。
「さっきの質問なんだけど」
ここは大丈夫と言われたけれど、一応声をひそめる。
「国外に出た、っていうことはつまり、夏の国か秋の国か冬の国のどれかにいるってこと?」
「そう」
「他の世界に行ったってことはない?」
「それはないと言っていいと思う。春の国から行かれるのは、僕たちの世界とあともう一つの世界だけなんだけど、どっちも気づかれずに行くのは不可能だから。ただ、他の国が他の世界とどういう位置関係にあるのかはわからないから、国外に出た後で他の世界に行ったっていう可能性はゼロではないけど」
「ねえ、それなんだけど、他の国のことはわからないっていうのはどうして?」
「それぞれの国のことはお互い干渉しない世界らしいんだ。仲が悪いわけじゃないし、戦争なんかも一度も起こったことはないんだって。でも例えばさっきも言ったみたいに、他の国がそれぞれの季節を美しく保つために何かしているのか、しているとすればどんなことをしてるのか、なんてことは互いに知らせ合わない。他の世界とどんな交流をしているのかもね。僕が知ってるのは、夏の国と冬の国では他の世界からの訪問者を一切立ち入り禁止にしてるってことくらい」
「そうなの?」
立ち入り禁止だなんて。
「なんか鎖国みたいね」
「そう、そんな感じだね」
「でもそれ、お母さんが叔母さんを探しに行くのに困るんじゃないの?叔母さんが夏の国か冬の国にいたら探せないじゃない…ああ、でも賢女さんならこっちの人間だから入国できるわけか。じゃあお母さんが秋の国に行って、賢女さんが夏の国と冬の国に行けば…」
「賢女は行かれないよ。国を離れるわけにはいかないからね。それから、リンのお母さんも夏の国と冬の国に入国はできるはず。『鎖国』してるっていうのはつまり、他の世界からダイレクトに入ってくる経路を封鎖してるっていうことであって、他の国から国境を通って入ってくる人達に対してじゃないそうだから。見かけだけなら、他の世界から来たってわざわざ言わなければバレないだろうし、それにそもそもリンのお母さんは元々春の国の出身なわけだから」
「…なるほど」
でもそれじゃあ、お母さん一人で三つの国に行って叔母さんを探すのか…。何だか大変そう。
木々がだんだん少なくなってきたなと思っていたら、かなり唐突に公園に出た。
公園といっても、木々の間に小道があり、所々にベンチがあり、木々の枝枝から可愛らしいランプが下がっているというだけだ。少し向こうには広場のようなところがあって、小さなお店がいくつか並んでいる。メリーゴーラウンドらしきものも見える。混んでいるというには程遠いけれど、それなりに人はいる。鈴はなんだかどきどきしてきた。
「ねえ、人に見られても大丈夫なの?私たちこんな格好してるのに」
二人とも制服だ。鷹雄君は白いワイシャツと紺のズボン。鈴は白いブラウスに紺のベストと紺のスカート。
「あ、しまったな」
鷹雄君が苦笑する。
「まあ仕方ない。普通にしてればいいよ。ここでは他の世界からの訪問者もたまにいるし、ちょっと変わった子たちが来てるなくらいにしか思われないよ、きっと」
「こっちの学校って制服ないの?」
「んー少なくとも僕は見たことないな」
なんだかきまり悪くて、歩きながら二人でくすくす笑ってしまう。
制服がない文化の人たちから見たら、私達ってどう見えるんだろう。お揃いの服着た兄妹?ああ、もしかして物語に出てくるみたいな孤児院の子供たちとか?
お店に近づくにつれていい匂いがしてきた。食べ物の匂い。
「いい匂いー!」
「食べ物の匂いって、すごい幸せな感じしない?」
「するよね!わーお腹減ってきちゃった」
鷹雄君がにこにこする。
「リンって、好き嫌いないよね。給食もちゃんと全部食べるし」
鈴は内心赤面した。それって食いしん坊だねってことだろうか。花も恥じらう十四歳女子が言われていいことなのかしらん。
「そういうのいいなって思うよ」
鷹雄君が続けてそう言ってくれて、鈴は自分でも意外なほど嬉しくなって頬が熱くなった。
ホットドッグは最高においしかった。
鈴は今まで自分が食べたことのあるホットドッグは一体何だったのだろうかと思いながら、バターを塗ってパリッと焼いたバンと、ザワークラウトと、ピクルスと、パリパリの皮のソーセージと、上からかけられている少しスパイシーで甘酸っぱい濃厚な味のするソースのハーモニーを堪能した。
木のテーブルに向かい合って座っている鷹雄君もこの上なく幸せそうな顔をしてホットドッグにかぶりついていて、鈴はおいしい食べ物を作れる人たちってすごいなと思った。こんなふうに人を幸せにできるものを作れる人たちってすごい。
一緒に供されたアイスティを飲んでナプキンで口を拭き、鈴は丁寧に
「ごちそうさまでした」
と鷹雄君にお礼を言った。もちろん鈴は春の国のお金を持っていなかったので、今日のランチは鷹雄君が奢ってくれたのだ。
「どういたしまして」
「すっごくおいしかった」
「でしょ」
鷹雄君が嬉しそうににこりとする。
「ほんとはデザートにクレープといきたいとこだけど、ちょっと時間きつそうだからやめとこう。そろそろ戻らないと」
鷹雄君が立ち上がる。
「私もうお腹いっぱい。デザートのことなんて考えられない」
鈴も立ち上がりながら、すらりとした鷹雄君を眺めた。
この上クレープだなんて。やっぱり男子の食欲ってすごいな。太ってないのに。
膨れた胃を抱えているので、来た時よりもペースを落として歩いていく。
「なんにも言われなかったね。ジロジロ見られたりもしなかったし」
制服のことだ。
「ここの人たちは他の国や他の世界から訪問者が来るっていうことに慣れてるから、ちょっと変わった人がいてもジロジロ見たりしちゃいけないってマナーを学んでるんだと思うよ」
「なるほど…」
そう言ってから思わず長いため息をつくと、隣を歩く鷹雄君が心配そうにこちらを見た。
「大丈夫?」
「えっ。うんうん、大丈夫。ただ、なんていうか…」
どうしてため息なんかついたんだろうと考えたら、言葉が勝手に転がり出た。
「…なんかまだ信じられない…」
鷹雄君が微笑む。
「そりゃあそうだよね」
「うん…色んなことが…」
急にお母さんの顔が頭に浮かんだ。
ああ…そうか…。
お母さんが昔のことを覚えてないって言ってたのは、そういうことだったんだよね。社会科見学だって、中学の制服だって、高校受験だって、知らなかったんだものね。
私に色々言われて、お母さん、どんな気がしただろう。
そう思ったら目の前がちょっとぼやけた。