Chap.2
「…タ、タカ君…」
「はい」
「…なんで…、いや、ちょっと待って…、…ええー⁉︎」
一体全体どうなってるの⁉︎
鷹雄君はにこりとして軽く頭を下げた。
「北村鷹雄です」
それは知っている。
「魔法使いになるための修行をしております」
いやだからちょっと待ってって…。
「本日はお迎えに上がりました」
魔法使い…。修行…。お迎え…。
まさか⁈
ペタンと尻餅をついていた鈴は、飛び上がって座り直した。
「ど、どこに行くの?もしかして魔法学校⁈ホグワーツみたいな⁈」
鷹雄君はちょっと笑って、
「いや、残念ながらこれは別の件で。リンとリンのお母さんを迎えにいくように言われたんだ。お母さんいる?」
「お母さん?いると思うけど…」
なんでお母さん?保護者の付き添いが必要ってこと?
まだ半信半疑の気持ちのまま立ち上がって、鷹雄君を玄関に案内する。
ドアの鍵は開いていた。
お父さんがいくら口を酸っぱくして言っても、お母さんはドアを施錠するのを忘れる。もちろん、外出する時にはきちんと鍵をかけていくのだけれど、家にいる時に鍵をかけるのを忘れるのだ。
「だって泥棒なんて入ってこないわよ。普通は誰もいない家を狙うんでしょ?私が家にいるんだから大丈夫よ」
「普通じゃない泥棒だっているから危ないんだよ。ちゃんと閉めておかなきゃだめだよ」
「変な世界ねえ」
お母さんがよく使う言葉だ。変な世界ねえ。特にニュースを見ている時なんかに、しみじみとしたため息と共に呟く。
「ただいまー」
「おかえりー」
キッチンの方からお母さんの軽やかな声が届いた。
自分のオフホワイトと水色のストライプのスリッパを履き、鷹雄君にお客様用の生成りの麻のスリッパを出す。
「どうぞ」
「ありがとう。お邪魔します」
小さな家なので、お母さんにも鷹雄君の声が聞こえたのだろう、すぐに目を丸くしてキッチンから出てきた。鷹雄君を見てよそゆきの微笑みを浮かべ、挨拶をする。
「こんにちは」
「クラスメイトの北村鷹雄君…」
言いかけた鈴の横で、鷹雄君がどこから取り出したのか白い正方形の封筒をお母さんに差し出した。封筒の表には、宛名の代わりに大きな紋章のようなものが浮き彫りになっている。
それを見たお母さんが息を呑んだ。封筒に伸ばしたほっそりした手が少し震えている。鷹雄君を探るような目で見る。
「賢女からです。至急鈴さんと一緒に来ていただきたいと」
お母さんの無言の問いかけに答えるように鷹雄君が言った。改まった、大人のような口調。
お母さんは黙って素早く封筒を開き、中から白いカードを取り出して読み始めた。
ケンジョって賢女?。鈴の頭の中に昔読んだジョージ・マクドナルドの『きえてしまった王女』が浮かぶ。
カードに書かれたメッセージはごく短いものだったらしい。お母さんはすぐに顔を上げて鷹雄君を見た。
「鈴を巻き込みたくありません。私だけ行きます」
「しかし賢女は、必ず鈴さんもと念を押されました」
「私だけ行きます」
もう一度きっぱり言ってお母さんは鈴を見た。
「ちょっと出かけてくるわ。お夕飯の支度に間に合うように帰ってくるから」
そしてくるりと身を翻し、あっという間に階段の方へ消えてしまった。あとにはいつもお母さんが纏っている花のような微かな香りだけが残った。
鈴はあっけに取られ、そして憮然とした。
お母さんは時々こういうふうになる。いつもの軽やかで楽しげな鈴の仲良しのお母さんは消え失せて、急に冷ややかで断固とした大人のお母さんが現れる。この前の喧嘩の時のように。
こういう時のお母さんに鈴は何も言えない。怖いというのとはちょっと違うけれど、妙な威厳があって、こちらの言いたいことが何も言えなくなってしまうのだ。まるで女王陛下の前に出た家来のように。なんだか悔しい。
「…一体どういうこと?」
鷹雄君を見上げる。
「うん…」
鷹雄君は困ったような顔をして鈴を見た。
「その…ある人が、リンとリンのお母さんに話があるから連れてくるようにって僕に言ったんだ」
鷹雄君らしくもない間の抜けた答えに鈴は口を尖らせる。
「それは分かってるよ。賢女っていう人がお母さんと私に会いたいんでしょ。どうして私たちに会いたいの?」
「それは僕の口からは言えない」
「どうして?鷹雄君の魔法の先生なの?」
「いや、それともちょっと違うけど…、まあなんというか、…僕の上司というか、ボスみたいな人かな」
「ボス⁉︎」
賢女という肩書きとちっとも相容れないその言葉に頭が混乱する。
「…なんだかマフィアの女親分みたいな」
と呟くと、鷹雄君の口元がおかしそうに歪んだ。笑いそうなのを堪えている。
「そういう人なの?女親分みたいな」
「…ノーコメント」
「どうして?」
「リンもいつか僕みたいな立場になったらわかるよ」
「だからそれってどういう立場?」
そこへ風のように軽やかにお母さんが二階から降りてきた。ウエストをキュッと絞った淡いグレイの清楚なワンピースがよく似合っている。
「じゃ、鈴ちゃん、行ってくるわね」
そして何か言いかけた鷹雄君を遮るように、
「私一人で行きます。場所はわかっていますから。お使いありがとう」
最後ににこりと微笑むと、二人が何も言わないうちにふわりと玄関から出て行った。やがて外からカタンと門が閉まる音が聞こえて、二人は申し合わせたようにため息をついた。
「…困ったな」
鷹雄君が額をこする。
「ねえ、教えて。一体どういうことなの?お願いだから教えて」
鷹雄君を拝まんばかりに見上げる。鷹雄君のハンサムな顔が曇る。
「だからそれは僕の口からは…」
鈴はちょっと考えた。
「わかった。じゃあね、教えてくれなくていいから、私もお母さんが行くところに連れていって。それならいいでしょ?」
鷹雄君はえっと言って目を丸くした。
「だって、お母さんがリンのこと巻き込みたくないって言ってたじゃない」
「タカ君のボスは賢女さんでしょ。うちのお母さんじゃなくて」
「そりゃそうだけど…」
「だったらお母さんの言うことより、賢女さんの言うことの方が優先なはずでしょ」
鷹雄君は考え深げな目をして鈴をじっと見た。
「でもリンにとってはどう?賢女は知らない人。お母さんは…お母さんだよね。そのお母さんがあんなにはっきりと、リンを巻き込みたくないって言ったんだよ?それを無視していいの?」
お母さんのきっぱりとした口調と冷ややかな眼差しを思い出して鈴はちょっと怯んだけれど、精一杯背伸びをして言った。
「巻き込まれたいかどうかは私が決める。私の人生だもん」
数分後、二人は玄関の外にいた。
なぜ数分後かというと、すぐにでも出かけようとした鈴に鷹雄君が、
「窓とか開いてないの?」
と注意してくれたからだ。
鷹雄君に手伝ってもらって念のため洗濯物も取り込み、家中の窓をきちんと閉めた。鈴の部屋を見た鷹雄君が、へえ、と感心したように微笑んだ。
「すごい。片付いてるね」
そしてからかうような目をして、
「ちょっと意外」
「失礼しちゃう」
そう返して、しかし鈴は内心ほっと胸を撫で下ろした。いつもこんなにきれいにしてあるわけではない。一昨日の日曜日に急に思い立って模様替えをしたのできれいになっているだけだ。グッドタイミング。
「あ、この子?」
鷹雄君が壁にかけられた大きな写真に目をとめた。ニコニコ顔のゴールデンレトリバーが写っている。
「そう。デイジーっていうの。かわいいでしょ。私が赤ちゃんの時からずっと一緒に育ったの」
鈴は目を細めた。大好きな大好きなデイジー。
「ひな菊か。いい名前。ぴったりだね」
微笑んだ鷹雄君は、デイジーにむかって茶目っ気たっぷりに顔をしかめてみせた。
「君のせいだぞ」
玄関の鍵をかけて、制服のスカートのポケットに入れる。
「いい?」
「うん、準備オーケー」
「じゃあ行こう。手貸して」
鷹雄君が左手を差し出した。えっと思って顔が熱くなったけれど、その時にはもう鈴の手は鷹雄君の手の中にあった。自分のより大きなしっかりした手。男の子とこんなふうに手を繋ぐのは多分幼稚園以来だ。
「目をつぶって」
「え?」
聞き間違い?
「目をつぶって数歩歩くから。開けていいって言うまで開けないで。転んだりしないから大丈夫。いい?いくよ」
迷いのない指示にあわてて頷いて目を閉じる。
「五歩数えるからね。カウントに合わせて。一、」
少しためらいながら一歩踏み出す。
「二、」
目をつぶったまま歩くなんて初めてかもしれない。心許ない。
「三、」
鷹雄君の手の確かさを感じる。大丈夫。信じよう。
「四、」
急に一瞬耳が聞こえなくなったような感じがあってびくっとした。思わず目を開けそうになって、あわてて一層強く目を閉じる。
「五」
ふっと辺りの空気が動いた。さっきまではなかった甘い香りが鼻腔に届く。柔らかい足元の感触。
「開けていいよ」
そこはよく手入れされた広くて美しい庭だった。
足元の芝生はびろうどのように滑らかで、種類も色も様々なバラが咲き乱れており、あたりにはバラの甘やかな香りが漂っている。バラの他にも、丈の高い白百合や、青い星のような勿忘草、鈴には名前のわからない花々が、柔らかそうな丸い葉を揺らす木々に守られるように咲いていた。
木々の向こうには家々の屋根。アンテナや電線も見えて、なんだか親しみの持てる風景だ。
「なんか日本みたいだね…」
言いかけたら、カン、カン、カン、カン…と聞き慣れた音が聞こえてきた。
「あれ、踏切の音まで日本とおんなじ」
鷹雄君が変な顔をした。
「ここ日本だよ」
「なんだ、そうなの」
鈴は赤くなった。魔法の修行だとか賢女だとか聞いていたので、てっきり魔法の世界とか、せめてヨーロッパかどこかに来たのかと思っていたのだ。
「日本のどこ?」
「榎田駅の近く」
どきっとした。
「ついてきて」
歩き出した鷹雄君にあわてて従いながら、鈴は急にどきどきしてきた胸を落ち着かせようと深く息をついた。
榎田駅。
あの雨の日。
お母さんと一緒に行った。
何か、何か思い出しそうなのに。
所々にあるバラのアーチをくぐり、つやつやと光るブラックベリーのたくさんなっている大きな茂みを回ると、家の裏手に出た。
少し古びた煉瓦造りの家。すりガラスのはまった白いドアがある。勝手口らしい。鷹雄君が慣れた様子でドアを開け、ドアマットでよく靴を拭う。
「『ボス』が結構うるさ型だからね」
鷹雄君に倣って丹念に靴を拭いながら鈴はひそひそ声で訊いた。
「ここ、賢女さんの家なの」
「そう」
中は外国映画に出てくるような広くて明るいキッチンだった。茶色のタイルが敷き詰められ、ピカピカに磨き上げられているその部屋を鷹雄君について足早に通り抜けながら、鈴は頭の奥の方にある記憶の水風船がどんどん大きくなっていくような気がした。
キッチンを出ると、苔緑色の絨毯を敷き詰めた薄暗い廊下が続いていた。右側に重そうな木のドアが二つあったけれど、二つともぴったりと閉まっていて鈴はほっとした。鷹雄君と一緒とはいえ、こんなふうに他人の家の中をずかずか歩いていくなんて、なんだか背筋がすうすうする。
廊下の先は、吹き抜けになっている大きな玄関ホールだった。曇りガラスのはめてある、大きくて重そうな玄関ドアがあり、そのそばにゆったりとした広い階段があった。
鷹雄君はさっさと階段を上っていく。階段の手摺りには花やつる草が彫刻されている。それを見て鈴の頭の奥がちりちりした。そして階段を三分の二ほど上ったところにある踊り場に来た時、鈴は思わず足を止めた。
覚えている。
その踊り場には窓があり、心地よさそうな低い窓辺の席があって古風な金色の刺繍が所々に入った象牙色の丸いクッションが置かれていた。
私は、ここに座ったことがある。
一瞬、鈴の脳裏に一つの映像が映し出された。この窓辺の席。外は雨。辺りは薄暗い。誰かが一緒にいた。同い年くらいの誰か。ハンカチで遊んだ。
「リン」
鷹雄君が呼んで、鈴ははっと我に返った。
踊り場の後、階段は左に曲がり、数段で終わって、左に伸びる廊下に続いている。廊下の右側にドアが三つ、突き当たりに一つ見える。鷹雄君はもう二番目のドアの前に立ってこちらを見ていた。
「ごめん」
あわてて駆け上がる。
「どうしたの」
「私ね、ここに」
どきどきして、息がしゃっくりのように喉につかえてしまった。息をついて続ける。
「…前にここに来たことあると思う」
鷹雄君は微笑んだ。
「うん、そうだろうね」
そして、トントン、と木目の美しい深い焦茶色のドアをノックした。