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春の音が聴こえる  作者: 柏木みのり
13/14

Epilogue

 青い月の宵の日の午後、鈴とお父さんとお母さんは電車に乗って榎田駅にやってきた。

 駅の改札口を出て、階段を降りると、そこは小さな駅前広場になっていて、商店街への道がある。鈴はふと思いついて、

「ねえ、洋菓子店でお菓子買っていかない?」

 と、二人を引っ張ってあの夢の中に出てきた洋菓子店へと向かった。晴れた日だったので、夢の中の風景とは雰囲気がずいぶん違ったけれど、きっと八年前この同じ道をチカと二人で赤い傘をさして歩いたのだろうと思いを馳せる。

 小さな事務所や書店や洋品店の前を通り過ぎ、洋菓子店の前に立った鈴は目を見張った。

 美味しそうなチョコレートがディスプレイしてあるショウウィンドウに『マルゴット』と書いてあるではないか。

「あらー懐かしいわ。ここ、昔よく来たのよね」

 言いながらお母さんはさっさと中に入っていった。鈴とお父さんも後に続く。

 いらっしゃいませと迎えてくれた店員さんは普通の女の人で、お店もごく普通の素敵な洋菓子店だ。ケーキの他にチョコレートやクッキーがあり、どうやらこのお店のメイン商品は五十種類くらいあるチョコレートのようだった。遊園地の『マルゴット』にはケーキしかなかった。やっぱりお店の名前が偶然同じっていうだけなのかな。

 チョコレートを選んで箱に入れてもらい、ケーキのショーケースの近くにあるレジでお金を払う。待っている間にショーケースの中のケーキを眺めていた鈴は、あっと思った。

 遊園地の『マルゴット』にあったのと同じケーキがある。

 苺のショートケーキとか、そういうどこにでもあるケーキではない。『くまさんのお気に入り』という名前のケーキだ。遊園地では他のケーキを食べたけれど、面白い名前だなと思ったので覚えている。ブルーベリーとシャンティクリームの乗ったチョコレートケーキ。

 お店の人に話を聞いてみたいなと思ったけれど、他にもお客さんがいるのでやめておく。今度鷹雄君と一緒に来てみたいな。

 こっちに帰ってきて以来、鷹雄君とは会っていない。でも今日はきっと会えるよね。青い月の宵だもの。


 榎田の屋敷に着いてみると、おばあさま——お父さんに諭されてこう呼ぶことにした——は、ご機嫌斜めだった。チカが帰ってきたのはいいけれど、ビーチで日焼けして「ひどいことになっている」と言うのだ。

「儀式にふさわしくないから魔法で元の肌の色に戻してやると言っても聞かないのですからね。まったくどうしてああも反抗的なのか」

 『マルゴット』のチョコレートをつまみながらぶつぶつ怒っている。

「チカちゃんはどこにいるんですか?」

春の国(むこう)の屋敷ですよ」

「鷹雄君は?」

 さらりと訊いたつもり。

「魔法塾でしょう。この前課題の一つに失敗して、その課程をやり直すことにしたそうですからね」

「えっ」

「お陰で卒業が延期になったそうだから、あなたの中学校には戻りませんよ。私のところでの修行もしばらく中断です」

「あらー、優秀なお弟子だったんじゃなかったの?」

「優秀ですよ。まったく何をやり間違えて失敗なんぞしでかしたのか知りませんけどね。鷹雄らしくもない」

「じゃあ、お母さまはしばらくお弟子はなし?」

「そういうことになるでしょうね」

 おばあさまとお母さんの会話が続く中、鈴はそっと立ち上がって庭へ出た。夏なのに暑くない庭には、今日もバラの甘い香りが微かに漂っている。

 課題に失敗。

 それってもしかしてこの間の?落第決定って言ってたあの時の?私が「あなた犬じゃないでしょ」って言った時の?

 卒業延期?そんな大切な試験だったの?

 中学に戻ってこないの? 

 もう学校で会えなくなっちゃうの?

 もうおばあさまのお弟子じゃないなら、もしかして今日も会えないのかも。

 ベンチに座って膝を抱えた。なんでこんなに悲しいんだろう。胸が痛い。涙が出てきて慌てて拭う。何泣いてんの。

 しばらくそうやって座っていたら、勝手口のドアが開いて閉まる音がした。石畳を踏む靴音。

「鈴?」

 お父さんだった。

「大丈夫?」

 お父さんの顔を見ずに、髪で半ば顔を隠すようにして頷く。何か言ったら泣き声になりそうで、喋りたくなかった。お父さんはちょっとためらっているようだったけれど、

「…おばあさまがね、鈴に話したいことがあるみたいだったけど、もう少し後にしてくださいって言っておくよ。気持ちが落ち着いたら居間においで」

 と言って立ち去りかけた。そこへまた勝手口のドアが開いて閉まる音。せかせかした足音が近づいてきて、

「鈴ちゃん?」

 今度はお母さんの声だ。お父さんが慌てたように

「いや、今はちょっと。後にしよう」

「おばあさまが…あらっ。どうしたの?どうして泣いてるの?」

「ちょっと一人にしておいてあげよう」

「どうして泣いてるの?」

 お父さんの囁きを遮ってお母さんが繰り返す。鈴が答えずにいると、今度はお父さんを見上げて心配そうに、

「何があったの?」

 お父さんがため息をついて小さい声で言った。

「鷹雄君に会えなくなっちゃうから、悲しいんだと思うよ」

 お母さんがきょとんとした。

「会えないなんてことないでしょ。死んじゃうわけじゃないんだから」

「いや、学校で毎日会えなくなっちゃうからね。そういうのって悲しいもんだよ」

「…そうなの?」

「そうだよ。僕も中学の時好きだった女の子と高校が別々になっちゃって、卒業の時はすごく悲しかったよ。同じ町に住んでるんだから、まるっきり会えなくなっちゃうわけじゃないって思っても、やっぱりね。同じ教室で毎日一緒に授業を受けて、顔を見ることができて、時にはお喋りもしてたのが、もうできなくなっちゃうんだよ。あのお別れは本当に辛かっ…」

「そんなに好きだった人がいたの?」

 お母さんに睨まれて、お父さんは慌てた。

「ずっと昔。中学生の時だよ」

「でも会えなくなるのが悲しくなるくらい好きだったんでしょ」

「まあ、それは…」

 鈴はおかしくなって涙目のままちょっと笑ってしまった。

 お父さん、ありがとう。

 と、背後からいきなり

「あなたの中学校にずっと戻らないというわけではないと思いますよ」

 おばあさまの声がしてびっくりした。いつの間にかおばあさまがベンチの後ろに立っていた。

「失敗した課程をもう一度やって試験に通ればいいだけのことですからね。鷹雄なら二、三ヶ月で終えることができるでしょう。その二、三ヶ月でも辛すぎるというなら、あなたが魔法塾に入るということもできます。そうすれば鷹雄に毎日会えますよ。魔法塾の塾長は私の知り合いですから頼んであげます。明日からでも入ることは可能です」

「呆れた」

 お母さんが眉を上げる。

「子供には厳しくても孫には甘いって本当ね」

「または、」

 おばあさまはお母さんのコメントを完全に無視して続けた。

「鷹雄を説得することも可能です。失敗した課程が一つくらいあっても卒業できないわけではないのですからね。そんな例はいくらでもあります。何も律儀にわざわざやり直すこともないのですよ。私から説得してほしければいつでもおっしゃい」

 お母さんが苛立たしげに大きなため息をついた。

「呆れて声も出ないわ」

「まあまあ」

 とお父さん。

 鈴は心がふんわり温かくなるのを感じた。ありがたいな、と思った。相変わらず厳しい顔つきのおばあさまを見上げる。

「大丈夫です。ありがとうございます」

 おばあさまが無表情に頷く。鈴はふとさっきお父さんが言っていたことを思い出した。

「私にお話ってなんですか」

「鷹雄から、あなたの魔法のことは聞いています。もし私のところで修行したい気があるのなら弟子として迎えます。ただしよく考えて決めなさい。魔法はお遊びではないのですからね」

 魔法はお遊びではない。

 鈴は神妙に頷いた。

「はい。よく考えてみます」

 

 しばらくしてから、みんなで春の国の方の屋敷に移動した。

 例の絵のたくさんかかっている部屋に入り、入り口とは別のドアから出ると、そこは広くて明るい廊下だった。窓から美しい庭が見える。こっちではこの部屋は一階にあるらしい。

「ああ、懐かしい…」

 お母さんが目を細めて辺りを見回している。

「あなたもたまに遊びにくればいいでしょう」

 おばあさまが素気なく言うと、お母さんが挑戦的な口調で言い返した。

「宗太郎さんと一緒に来ていいなら遊びにくるわ」

「構いませんよ」

 おばあさまがまた素気なく言い、お母さんは目を丸くし、お父さんは柔らかく微笑んで

「ありがとうございます」

 と言った。とても嬉しそうだった。

「あっ、鈴ちゃん!」

 廊下の遥か向こうから、白い装束をつけたチカが駆けてきた。おばあさまが言っていた通り日に焼けて真っ黒だ。こんなフードのついた白くて長い装束を纏っていると、まるでアラビアンナイトに出てくる少年プリンスのように見える。

「なんです!この装束は儀式のためのものですよ!」

 おばあさまの叱責が飛ぶ。

「だって一度試着してみた方がいいかと思って。お姉さん、お久しぶりです。お義兄さん、初めまして」

 ハキハキ言ってお父さんと握手するチカに鈴はちょっと見惚れた。ボーイッシュな女の子ってかっこいい。

「月の昇る前に『時の森』に行くのですからね。その前にその肌を元の色に…」

「このままでいいんですっ。せっかく初めて日に焼けたんだもの。皮が剥けてきて面白いし。それに儀式は人に見せるためのものじゃないでしょ」

「精霊たちが見ています」

「精霊たちは私の肌が焼けてようが虹色だろうが構わないでしょ。それに大事なのは歌だもん。ちゃんと美しーく歌いますからご心配なく。鈴ちゃん、行こ!鈴ちゃんにあげようと思って、ビーチですっごい綺麗な石拾ったの!」

 きゅっと手を握られて一緒に駆け出す。後ろから

「よかったわねえ、お母様、いい跡継ぎができて」

 と楽しそうに言うお母さんの声が聞こえた。


 やがて時間が来て、五人は絵の部屋に入った。

 白い装束のチカと銀鼠の装束のおばあさまが並んで一枚の絵の前に立つ。  

 それは不思議な絵だった。

 青白い光の中、丈の高い、ぼうっと光る花が咲き乱れている森。周りの木々は行儀良く整然と並び、何本もの並木道があるように見える。その中央に、白い装束を着た人と銀鼠の装束を着た人が、装束に光る花をまつわらせ、長い裾や袖を翻らせて、まるで舞を舞っているように描かれている。

 おばあさまと、さすがに厳かな表情のチカが絵に近づく。

 絵の方向から一陣の風が吹いたような気配がして、二人は消えた。

「…出ましょう」

 お母さんが囁いて、三人は部屋を出た。

「これからどうするの?」

「好きにしてていいわよ。二人が戻るのは月が沈んでからだから。先に早目にご飯を食べたっていいし、お風呂に入っちゃったっていいし」

「でも月が昇ったら歌が始まるんでしょ?」

 お母さんがちょっと肩をすくめた。

「そうだけど、でも聞こえるわけじゃないと思うわ。私にもわからないけど」

「え?…ああ、そうか…」

 お母さんにとっても初めてのことなのだ。この前の青い月の宵には、お母さんは『時の森』でおばあさまと春のを歌っていたのだから。

「『時の森』ってどこにあるの?」

「それは誰も知らないのよ。賢女もね。さっき見たあの絵からしか行かれないの」

「そうなんだ…」

 まだまだ知らないことばっかりだ。

「本当に青い月が昇るの?」

「そうね、少なくとも『時の森』では青い月だったわ」

「僕が見たのも大きな青い月だったよ。とても綺麗だった」

 とお父さん。

「あ、じゃあお父さん、夢の中でここに来て、種を蒔いて花咲かせて指輪を手に入れたクチなの?」

 お父さんが微笑んだ。

「よく知ってるね」

「鷹雄君に聞いたの」

 鷹雄君の名前を口にしたら、なんだかしゅんとしてしまった。

 鷹雄君…今どこにいるんだろう。魔法塾で勉強中なのかな。それともどこかで月が出るのを待ってるのかな。

「私、月が昇るの見たいな。どこから見える?」

 お母さんがうーんと言った。

「そうねえ…。この屋敷は森に囲まれてるから…二階じゃちょっとダメだと思うわ。屋根の上からなら見えるかもしれないけど、どうかしらねえ」

「屋根…上れるかな」

 言いかけてハッとした。そうだ、浮かべるんだった!

「ここって、浮かんでるの見られても平気?」

 お母さんがにっこりした。

「ああ、そうね、浮かべるんだったわね!大丈夫、見られても平気よ。早くいってらっしゃい!あったかくして」


 厚手のパーカーを着込んで急いで庭に走り出る。

 立ち止まり、深呼吸を一度。

 意識を集中して浮かび上がる。

 向こうの世界でも、感覚を忘れないように部屋でこっそり浮かんでみたりしていたのだけれど、こんなに高く浮かび上がるのはやはり全然感じが違う。すうっと下に滑っていく周りの空気。身体中が心地よくぞくぞくする。

「大丈夫?」

 お父さんの声がして見下ろすと、庭にぽつぽつ灯っているかわいらしい明かりで、まるで鈴が落ちてきたら受け止めようとしているように腕を広げているお父さんの姿が見えた。隣でお母さんが微笑んでこちらを見上げている。

「大丈夫。落ちたりしないから」

「コウモリに気をつけて。たまにこの辺を飛んでることがあるわ」

「はあい」

 どんどん宙を昇って、高い庭木や森の木々に視界を遮られない高さで止まる。ぐるりと辺りを見回すと、空の下の方がうっすらと青白くなっている一隅があった。もうすぐあそこから月が昇ってくる。

「もうすぐだね」

 後ろから声がしてびっくりした。でもその声を待っていた。

「うん」

 鷹雄君が隣に並ぶ。

「賢女たちは?」

「さっき絵の部屋から『時の森』に行った」

「そう」

 やがて、遠くの丘の向こうに、青く輝く光の筋が現れた。

 途端に、鈴の心に微かな旋律が届いた。

 耳を介さずに心の中に響いてくる、真珠の粒のように丸い微かな音色。

 春の

 青い月はどんどん昇ってくる。春のも高く低く微かにしかし豊かに心の中で響く。鷹雄君にはこの音が届いていないと鈴にはなぜかわかっていた。これは春の賢女の血を持つ者だけに届く、春の心の音。春の魔法。

「すごいね、本当に青い月」

「Once in a blue moon」

「ごく稀に」

「知ってたか。さすが」

 本当にこんなことはごく稀だろう。大好きな人と、宙に浮かんで、青い月が昇るのを見ている。青い月の宵は約十五年に一度だけど、このシチュエーションはきっともっと貴重。

 いつでも大好きな人と一緒にいられるわけじゃない。

「タカ君、学校いつ戻ってくるの?」

 鷹雄君がちょっと笑った。

「聞いたんだ。…そうだな、三ヶ月くらいしたらかな」

「そっか。ごめんね、私が余計なこと言ったから」

「違うんだ。あれは…」 

 鷹雄君がため息をついて微笑む。

「もっと時間をかけて用意するべきだったんだ。ちゃんと犬を観察したりね。変身の魔法そのものはマスターできてた。あとは知識とか観察の問題だったから、とにかくちゃんと時間をかけて用意してから臨めば楽に合格できたはずだったのに、つい、いいチャンスだと思っちゃって。あれが卒業前の最後の試験だったし、あれに合格すればパーフェクトで卒業だった。だから、せっかくだからその記念すべき合格を好きな女の子から…リンから貰いたいと思って、あそこでやっちゃったんだ。そんな浮かれ気分でやったんだから、当然の結果だよ」

 好きな女の子。胸の中にその言葉がそっと落ちて、桜色の波紋が広がっていく。

「実は、ずいぶん迷ったんだ。パーフェクトでなくても卒業できるんだし、リンと学校で会える時間を失くしたくなかったから、もうあの課程はいいや、ってことにしようかと思った。でも、リンがくれた不合格だから、ちゃんと受け止めてやり直したいって思うようになって決心したんだ」

「…そっか」

 にこりとして正直な気持ちを口にした。

「さすがタカ君。惚れ直しちゃうな」 

「え」

 鷹雄君が赤くなったのが青白い光の中でもわかった。

「さっき、おばあさまからタカ君が学校戻ってこないって聞いて、すごく悲しくなって泣いちゃった。お父さんとお母さんがどうして駆け落ちしたのかわかる気がするなって思うようになったから、だからね、タカ君と毎日学校で会えて幸せ!って思える二学期を楽しみにしてたの」

「…そうやって、決心を後悔させるようなこと言うし」

 恨みがましいセリフを言った声は笑いを含んで柔らかかった。

「ごめん」

 鈴も笑って返す。

「さっきね、おばあさまが鷹雄君と一緒にいたいんだったら魔法塾に入ればいいって言ったの。でも、そういう動機で入るのはよくないと思うんだ。魔法はお遊びじゃないから」

 鷹雄君が生真面目な顔で頷いた。

「そうだね」

「でもね、そのあとおばあさまが、もし修行したいなら弟子として迎えるからよく考えて決めなさい、って言ってくれた時、ちょっと心が動いたの。やってみたいなって」

「そう…。弟子になる?」

「まだ考え中。ちゃんとよく考えてから決める。タカ君に色々魔法の話とか修行の話を聞いてからにしようと思って。今日これから少し時間ある?」

「一晩中でもあるよ。今夜は一晩月見ようと思ってたから」

「ほんと!じゃあ、まずはお月見しながらご飯食べて話聞かせて?」

「了解。でも…ほんとは僕の話なんて聞かない方がいいと思うけどな」

 鈴は目を丸くした。

「どうして?」

 鷹雄君が艶っぽい流し目をくれた。

「一緒に魔法高等学校行こうよって全力で誘惑するから」

 鷹雄君と一緒に魔法高等学校!

 一瞬で陥落しかかったけれど、鈴は澄まして答えた。

「大丈夫。ちゃんと割り引いて聞くことにする」

 二人の笑い声が春の音と混じり合う。

 大きな青い月がそっと微笑んでいるようだった。





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