Chap.12
三時になった。
鈴は「マルゴット」から少しだけ離れたテーブルの一つに座っていた。
「マルゴット」はケーキの店で、大層人気があるらしく、店の前には絶えず短い列ができていて、店の近くのテーブルも満席だ。
鷹雄君は鈴のいるテーブルから斜めに少し離れたところに、ダークグリーンの帽子を目深にかぶってこちらを向いて座っている。男の子が、あるいは叔母さんが鷹雄君が近くにいるのに気がついたら、姿を現さないかもしれない。でもとりあえず二十分くらいはこのままで待ってみるつもりだった。
さっき大丈夫と思ったはずだったのに、鈴はまた少し不安になってきた。
頭の中がぐるぐる回って、頭の中の自分の声が勝手にベラベラ喋る。
もし叔母さんがすごい魔法を使える人だったら?私を殺すのなんて簡単なはず。一つの呪文だけで簡単に殺せるのかも。そうしたら鷹雄君だって止めてる暇ないよね。あっという間に死んじゃうんだきっと。そしたら鷹雄君にももう会えない。好きですって言っておけばよかったな。
そうだ、リュックの中にメモ帳とペンがある。もしもの時のために鷹雄君に手紙を書いておこう…。
膝の上のリュックを開けようと俯いた時、後ろでふわりと誰かの気配がして、ハッとした鈴の両眼を誰かのひんやりした両手が柔らかく覆った。
「だーれだ」
笑いを含んだ静かな声。心臓がどきどきして耳の中で鳴っている。何か、何か答えなくちゃ。
最初に浮かんだ名前を口にする。
「……チ、チカ叔母さん?」
「もぉう、その呼び方やめて。昔みたいにチカちゃんて呼んでよ」
不満げな声と共に手が離れる。その人がさっと動いて向かいの席にすとんと腰を下ろした。
ショートカットの、同い年くらいの女の子。あの男の子とよく似ている。ちょっと目尻の上がったくっきりした目。
…これが、この子がチカ叔母さんなの?
ぼわーっとなった頭の中で、少しずつパズルのピースが集まり始める。
「…でも、じゃあ、さっきの…輪郭ぶれてたあの男の子…」
「昔鈴ちゃんに会った時の再現。さすがに随分昔の記憶だったから、どうしてもぶれちゃってね。幽霊かと思った?」
チカは頬杖をついて鈴を見つめると、嬉しそうに目を細めた。
「綺麗になったね、鈴ちゃん。昔もすごくかわいくて一目惚れしちゃったけど、今も見惚れちゃう」
鈴は目の前のボーイッシュな女の子を呆然と眺めた。
「…男の子だと思ってた」
「ははっ。昔は自分のこと『僕』って言ってたしね」
「でも…でも…その…お母さんの妹なの?」
「そうだよ」
「でも、だって…すごい年離れてるよね」
つい非難がましく言ってしまう。どうして賢女もお母さんもこのことを教えてくれなかったのだ。信じられない。
「仕方ないよ。お姉さんが駆け落ちしたから私が生まれたんだから」
「…そうなの?」
「あれ、知らないの?賢女は二人いないと儀式ができないんだよ。だからお姉さんがいなくなってお母さんはもう一回種を蒔いたわけ」
鈴は顔を赤くした。種を蒔く?子作りのそんな表現は初めて聞いた。
「お祖父さんてどんな人だったの?」
「お祖父さん…?」
チカはきょとんとしてからぷーっと吹き出した。
「鈴ちゃん、ほんとに何も知らないんだ。あのね、賢女は花から生まれるんだよ」
今度は鈴がきょとんとした。
「…どういう意味?」
「賢女が特別な鉢に特別な土を入れて特別な花の種を蒔くと、すぐに芽が出て育って、七日間で花が開くの。その花の中から次の賢女が生まれるの」
「そうなの⁈」
それって、じゃあ、植物……?
鈴が目を白黒させているのを見て、チカは楽しそうに笑った。
「鈴ちゃんかわいすぎるー」
鈴はまだ笑う気になれない。
「どうしてすぐ名乗ってくれなかったの」
チカはニコニコした。
「だって、八年ぶりの奇跡の再会だもん。ドラマティックに演出したかったんだ」
「ドラマティック…」
「それに」
今度は口を尖らせる。
「今朝入り口で見た時、男子と二人でいたじゃない。八年ぶりに会えた初恋の女の子が男子とデート中!すごいショックだったんだよ。立ち直るのに時間かかったんだから」
なるほどねえ…と、チカの話しぶりについ乗せられてしまう。
「私たちって同い年?」
「私がちょっと上だよ。この前の青い月の宵の年に生まれたから」
その言葉で、鈴は大事な任務を思い出した。何がなんでも説得しなくちゃ。
「あのね、…青い月の宵がもうすぐでしょ」
身を乗り出して真剣な顔で話し出すと、チカが苦笑した。
「ちゃんと帰るよ。大丈夫」
「…そう」
拍子抜けする。
「お母さんも大袈裟なんだから。ちょっと家出したくらいで大騒ぎして。青い月の宵の前にちゃんと帰るってことくらいわかりそうなものなのに」
「どうして家出したの?」
「だってあんまり退屈だったんだもの。お母さんたら全然私のこと信用しないでさ、お姉さんが駆け落ちしたからって私も同じことすると思うなんて、短絡的すぎると思わない?絶対一人で外出させてくれないし。だからちょっと思い知らせてやろうと思って。鈴ちゃんに迷惑かかるなんて思ってもいなかったんだ。ごめんね」
鈴はなんだかおかしくなって力が抜けて笑ってしまった。
ドアの後ろに魔物がいると思って決死の覚悟で開けたら、かわいい子猫がいたみたいな感じ。
目の前の、生き生きとした魅力に溢れるハンサムな女の子をしみじみと眺める。
「賢女でいるの好き?」
「うん、割と気に入ってるよ。世界の春を守るなんてかっこいいじゃない?まあもう少し自由に出歩きたいし、そこはお母さんにも認めさせるつもりだけど」
「人にもあんまり会えないんでしょ?」
「男にだけね。女の子とは普通に会えるよ。女の子だけの小さい学校に行ってるの。かわいい子も結構いるけどね、でも他のどんな女の子よりも鈴ちゃんが一番好き」
熱烈な口調で言われて、鈴は微笑んだ。
「ありがとう」
ここまではっきりオープンに言われると、全然照れないものなんだなあと妙に感心する。
「どうして国境のところで私の姿になってたの?」
「あれっ、知ってるの?」
「国境の門番の人達が、私とそっくりな子が通ったって言ってたから」
チカはちょっと決まり悪そうな顔をした。
「ついこの間、お母さんが初めて鈴ちゃんの写真見せてくれたんだ。制服着てるやつ。すっごくかわいくて、もう一回一目惚れしちゃったみたいな感じで、会いたいな会いたいなって思って、鏡の前で鈴ちゃんの姿になってみたりしてたんだよね。で、あの日自分の姿に戻るの忘れて、そのまま家出しちゃったんだ」
「…そうだったんだ」
事実は小説…じゃなくて推測よりも奇なり。
「ねえ、でもこれからはきっとちょくちょく会えるよね。鈴ちゃんがここにいるってことは、お母さんとお姉さんが仲直りしたってことなんでしょ?」
「仲直りねえ…」
自分がどうしてチカ探しの旅に出ることになったかの経緯をかいつまんで話す。チカは苦笑した。
「お母さんてさ、結局お義兄さんにやきもち焼いてるんだよね。で、お姉さんに対しても、自分といるよりお義兄さんといることを選んだからって腹立ててんの。跡継ぎ云々じゃないんだよ。だってそんなの種蒔けば済むことだもの」
そして、ふむ、と視線を宙に上げた。
「…もしかして」
「なに?」
チカはくすっと笑った。
「ううん。お母さんはきっと随分お姉さんと鈴ちゃんに会いたかったんだろうなって思っただけ。ところで、あいつ」
チカがちらりと鷹雄君の方を振り返る。
「鈴ちゃんのことが好きなんでしょ」
「えっ、んっと、そんなことないと思うけど」
そんなことあるといいなと思ったのがバレバレだったらしい。チカは面白くなさそうな顔をした。
「なんだ。鈴ちゃんもあいつのことが好きなんだ。両想いなんじゃない。ちぇっ」
恨めしそうに鈴を見る。
「私の方がずっと前から鈴ちゃんのこと好きだったのに。それに公平に見て私の方が美男子だし、鈴ちゃんのこと大事にするのにな」
いや、美男子って…。なんと答えていいのか困って、鈴はケーキ屋の方を見た。
「ね、ケーキ食べよう?おやつの時間だし」
するとチカのしかめっ面がパッと消えて、ニコニコになった。
「食べよ食べよ!だから三時にここって言ったんだ。一緒におやつ食べようって思って。ここのケーキおいしいんだよ」
いそいそと立ち上がる。鈴も続いて立ち上がりながら、こっちを見ている鷹雄君を見て言ってみる。
「鷹雄君も呼んでいい?」
チカは口をへの字にして肩をすくめた。
「ま、しょうがないか」
鷹雄君に手招きをしてから、鈴は急いで頭一つ分背の高いチカを見上げて言い渡した。
「鷹雄君に私が鷹雄君のこと好きだとかなんだとか言わないでね」
チカはふふんと笑った。
「頼まれたって言わないもんね」
数時間後、夕日で金色に満たされている空気の中を自転車で走りながら鈴が大きなため息をつくと、鷹雄君が笑った。
「さすがにちょっと疲れたね」
「ほんと…でも楽しかった」
三人でおいしいケーキを食べた後、遊園地はもう十分楽しんだから今日はこれから水族館に行くというチカと別れて——もちろん必ず青い月の宵の前に春の国に帰ると固く固く誓わせてから——、遊園地で遊んだ。夕食前にベラさんのところに帰らなくてはならないし、遊び始めた時にはもう四時を過ぎていたので、文字通り駆け足であっちのアトラクション、こっちのアトラクションと回った。真相を知る前の心配と緊張の反動だったのだろう、はしゃぎすぎて少々ばててしまった。夏の炎天下を水分補給もろくにせず走り回るものではない。
それにしても——嵐のような一日だった。
「『ボス』に連絡するでしょう?」
「いや、帰って直接話す方がいいと思う。僕も今回のことで初めて知ったんだけど、国境を越えての通話はオペレーターを通じてでないとできないんだって。『ボス』が国外の知り合いと連絡とるのにずいぶん時間かかってたじゃない? あれは超速達みたいなものを使ってたからなんだ。一種の魔法を使ったシステムなんだけどね。確かにオペレーターは通さなくて済むけど、電話よりずっと時間がかかる」
「だって、『ボス』は魔法が使えるんでしょ?魔法で一瞬でメッセージを届けたりとかできないの?」
「そういう魔法は聞いたことないな。少なくともここの世…『場所』ではない」
「そうなの…。明日帰るの?」
「そうだね。予定では明日ベラさんのところを発って秋の国に行くことになってたから、ちょうどよかった」
「そうね。…でも秋の国、行ってみたかったな」
「いつか行こうよ」
「うん!」
どうしてこんなに嬉しい気持ちになるんだろうな、と思いながら、夕日に照らされた鷹雄君の横顔を見つめる。
「秋の国にすごく綺麗な峡谷があるんだって。昨日、春の国の国境に向かう途中の道が丸い光る石で照らされてたの覚えてる?」
「うんうん、覚えてる」
あとで訊こうと思っていたあの光の球体のことだ。
「あれは明るい時に太陽の光を吸い込んで、暗い時に光る石なんだって。産地として秋の国のある地方が有名なんだけど、そこに紅葉の名所みたいな峡谷があって、夜になるとライトアップされたみたいですごく綺麗らしいよ」
「わあ…いいなあ」
想像してうっとりする。
せっかくなんだからチカちゃんも行ってみるといいのに。そう思ってから心の中で苦笑した。チカはきっとそんなところに興味を示さないだろう。
なんと驚くことに、チカは家出して以来、毎日遊園地で遊んでいたのだそうだ。
「朝市にも何回か行ってみたけどね。でもなんてったって遊園地が一番楽しいよ。まあさすがにちょっと飽きてきたから、今日はこれから水族館に行ってみる」
「秋の国とか冬の国には行かないの?」
チカは顔をしかめた。
「冬なんて嫌。寒いの嫌いなんだよね。秋の国はあんまり面白そうなところがないみたいだし。景色のいいとこがいっぱいあるみたいだけど、景色なんて見たって楽しくないもんね。ぱーっと楽しくなれる場所が好き」
チカは大人に姿を変えて豪華なホテルに泊まっているらしく、海で泳いでみたいから、明日はビーチに行こうと思うと言っていた。お金なら十分持っているし、せっかくの自由時間なのだから時間ギリギリまで自分の好きに過ごしたい、青い月の宵には必ず春の国に帰るから、とさばさば言ってひとり颯爽とバス乗り場に向かったチカの姿を思い出して、かっこいいなあと鈴は思った。ああいうのを一人旅っていうんだ。私もいつかやってみたい。
それにしても、と自転車を漕ぎながら思い切り深呼吸をする。
見つかって、本当に本当によかった。
ベラの屋敷に着いた時には、昨日と同じ柔らかな黄昏の光が辺りに満ちていた。向こうの世界の日常だったら、あちこちの家から晩ご飯の匂いがしてくる時間の光。
鷹雄君が呼び鈴を押し、門がぎぎいと開いた。鷹雄君と一緒に自転車を押して中に入る。
突然、幸せな気持ちで胸がキュッとした。
鷹雄君と二人で同じ場所に帰ってこられたことが何故かとても嬉しかった。「ただいま」と帰るところが同じなんて嬉しい。
なんだか私って、鷹雄君と一緒だと何もかも嬉しいんだな、と気づいて自分で可笑しくなる。
好きってこういう気持ちなんだ。一緒にいるのが幸せっていう気持ち。
そりゃ結婚を反対されたら、一緒にいてはだめだと言われたら、手に手をとって逃げたくもなるだろうな…。
今より十五年くらい若いお父さんとお母さんが駆け落ちした場面を頭の中で思い切りロマンティックに描いていたら、
「それにしてもすごいよね。一日で見つかった」
隣を歩く鷹雄君がしみじみと言ったので、鈴は急いで現実に戻ってきた。
「ほんと。こんなに早く見つかるなんてびっくり」
鷹雄君が宙を見上げて目を細めた。
「やっぱりさ、絶対惹かれ合うものがあったんだよ。賢女の血が呼び合ったんだと思う。こういうのも魔法の一種だと思うんだ。目に見えない力。すごいもの見せてもらったなって思う」
満足そうなため息をつく。
「…もっと魔法の勉強したいって思った。魔法ってやっぱりおもしろい。感動したよ」
そしてふと心配そうな顔になって鈴を見た。
「ほんとにちゃんと青い月の宵に間に合うように帰ってきてくれると思う?」
鈴はしっかり頷いた。
「大丈夫。ちゃんと帰ってくる」
その点に関しては、微塵の疑いも持っていなかった。チカちゃんは、ちゃんと帰ってくる。春を守るために。
「というわけで、捜索の旅は大成功。タカ君、お疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
くすくす笑って頭を下げ合う。
「うちのはちゃめちゃな叔母が大変ご迷惑をおかけいたしました」
「いえいえ」
チカちゃんが家出してくれたから、鷹雄君とこんなふうにいっぱい時間を過ごせたし、春の国のことも、四季の世界のことも、ルキのいる世界のことも、鷹雄君のことも、そして自分のことも知ることができた。
昨日の朝とはまるで違う自分がいる。
生きていくって不思議だ。急にものごとが動き出す。
——巻き込まれたいかどうかは、私が決める。
巻き込まれてよかった、と心から思った。