Chap.10
翌朝、鈴はとんでもなく早く目を覚ました。青い薄明かりの中、ベッドの周りに垂れている霞のようなヴェールをのけてナイトテーブルの上の花の形をした銀色の目覚まし時計を見る。四時半。
ほのかにラヴェンダーの香り——洗剤ではなく本当のラヴェンダーの香り——のするベッドの中で、ううんと気持ちよく伸びをする。滑らかなサテンのシーツの上を足先がすうっと気持ち良く滑る。
よく眠れた。なんだか夢を見たような気もするけどよく覚えていない。それにしてもどうしてこんなに早く目が覚めちゃったんだろう、と天蓋を見上げながら考える。
そっと起き上がり、窓辺に近づき、薄紫のカーテンを少し開けてみる。夏らしい、夜明け前の薄青い明るさ。
ベッドに戻る気にはならなかった。急いで歯磨きと洗顔を済ませて着替える。出かける時にかぶるように、空色のキャップをソファの上に置いた。遊園地では帽子を目深にかぶって、人々に——特にチカ叔母さんに——顔を見られないようにするつもりだ。
カーテンを開ける。いい天気になりそうだ。青藤色の空とほんのり朱鷺色に染まっている雲に誘われるようにしてそうっとフランス窓を開け、バルコニーに出る。清々しい空気が気持ちよくて、きゅっと目を閉じて深呼吸した。
「おはよ」
深呼吸の途中で声をかけられむせそうになった。
隣の部屋のフランス窓から鷹雄君が顔を出したところだった。
「…おはよう」
「早起きだね」
「タカ君こそ」
鷹雄君もバルコニーに出てくる。きりっとした黒のTシャツがよく似合っている。
「よく眠れた?」
「うん、すごくよく眠れたみたい。タカ君は?」
「僕も。こんな早いのに全然眠くない」
二人並んでバルコニーの手すりに寄りかかって庭を眺め渡す。
周囲にバラの花もたくさんあるのだけれど、やはりスターはねむの木だ。あんなに大きな木なのに、なぜか「どっしりした」とか「年を経た」とかいう言葉が似合わない。若々しくて、元気溌剌としていて、楽しそうな雰囲気を持った木。今日もふわふわしたピンクの花たちがいっぱい咲いている。
鈴はあることに気がついて思わずうふっと笑った。
「何?」
「あのねむの木、ベラさんみたい」
鷹雄君が感嘆の声を上げた。
「ああーすごいわかる!」
頬杖をついて楽しそうに笑い、鈴を見る。
「リンと話すのってすごい楽しい」
「私も。タカ君と話すのすごく楽しい」
言いながら、嬉しくてなんだか身体中がドキドキした。
二人揃ってえへっと笑って赤くなり、なんだか照れくさい空気が辺りに漂う。
こういうの、こういうのって、やっぱりもしかして鷹雄君のこと好きってことなのかな。
恋って言っていいのかな。
ピンクのねむの花たちがこちらを見てうふふと頷いているような気がした。
一階のテラスでのたっぷりした朝食の後——もちろんデザートにアイスクリームを食べた——、ベラに見送られて二人は自転車で出発した。
「今日は暑くなりそうだから、食後のデザートには苺のシャーベットを作らせるわ。暑い日にはあれが一番!楽しんでいらっしゃいね。コーヒーカップに気をつけて!」
遊園地は自転車で二十分くらいのところにあるそうで、地図を見たら拍子抜けするほど簡単な道順だったので、車で送ろうかというベラの申し出を辞退して、自転車で行くことに決めた。コーヒーカップというのは、例のぐるぐる回る乗り物で、初めて遊園地に行った時にあれがとても気に入ったベラは、何度も何度も乗ってついに「死んでしまいたくなるくらい」気分が悪くなって、一日中一匙もアイスクリームを食べられなかったのだそうだ。
並んで自転車を走らせる。森の中の一本道は美しい緑のアーケードのようだ。金色の木漏れ日がキラキラと降ってくる清々しい夏の朝の空気の中を、銀の自転車ですいすい進みながら、少し抑えた声で言う。
「別々に行動するでしょ?」
「えっ」
鷹雄君が驚いた顔をした。
「だってその方が効率いいじゃない?」
「そりゃそうだけど…」
心配そうに眉を寄せてうーんと言ったあと、鷹雄君は頷いた。
「そうだね、そうしよう。遊園地内の地図くらいあるだろうし、ちゃんと待ち合わせ場所と時間を決めて…」
そしてくすっと笑った。
「『リンを探せ』だね」
「うん。叔母さんがまだその姿でいてくれるといいけど」
叔母さんが今日も鈴の姿をしているという保証はどこにもない。でもそれに賭けるしかない。絶対に見つけなくちゃ。
祈るようにそう思った時、突然鈴の脳裏をある不鮮明な映像がふっとよぎった。
灰色と赤。黒々と濡れた道路。誰かの手。
あっと思った。これは今朝見た夢だ。
思い出そうと意識を集中させる。
男の子と赤い傘をさして濡れた道を歩いている。お互いになんだか恥ずかしくて無言で歩いた。男の子の方が鈴より背が高かった。鈴が持っていた赤い傘の柄に、男の子がすっと手を伸ばした。鈴の手の少し上で銀色の柄を握る。「持つよ」と小さい声で言った。鈴はちょっと戸惑って、黙って傘の柄から手を離し、何か言わなくちゃと思って、「ありがとう」と蚊の鳴くような声で言った。
場面が変わって、そこはあの榎田の賢女の家の階段の踊り場だ。カーテンとクッション。窓辺の席。霞のようなレースのカーテン越しに見える外は雨。男の子はグレイの半ズボンを履いていた。膝までのダークグレイの靴下。ハンカチを折り紙の代わりにして、兜を作って遊んだ。話らしい話はほとんどしなかったけれど、「うまくできないね」とか「あれ、崩れちゃった」とか「できた!」とか言いながら、たまにくすくす笑いあった。
またあの雨の日の夢…。もしかして。
「ねえ、タカ君」
ドキドキしながら訊いてみる。
「小さい時に賢…『ボス』の家に行ったことある?えのき…『あっち』のほうの家」
「ないよ。初めて行ったのが今年の六月」
「行ったけど忘れてるとかいうこともない?」
「ないと思うよ」
怪訝な顔をして鈴を見る。
「なんで?」
「前に…八年前にあそこに行った時、同い年くらいの男の子と会ったの。顔は覚えてない。もしかして、タカ君だったりして…って思って」
「うーん、残念ながら僕じゃないと思うよ」
「…そっか」
そうだよね。そんな物語みたいなことあるわけないか…。
でもじゃあ、あの男の子は誰なんだろう。どうしてあの家にいたんだろう。どうして私と一緒に歩いてたんだろう。どうしてこんなに気になるんだろう。
はっとした。
もしかして…。
「叔母さんて結婚してないって言ってたよね」
「と思う、っていうだけだよ。だって『ボス』は、というか『ボス』の仕事してる人は結婚しないって聞いたから」
「でも『ボス』には娘が二人いるわけでしょ」
「そうだね……ああ、その男の子が叔母さんの子供かもってこと?」
「そう」
鷹雄君が頷く。
「それは、まあ有り得るよね。榎田…『あっち』の『ボス』の家にいたんでしょ?」
「うん。ってことは、従兄弟か…」
でもなんだか引っかかる。叔母さんに子供がいるなら、賢女さんかお母さんがその子について何か言いそうなものだし、自分のお母さんが家出したならその子が自分で探しに行きそうなものだし…あっ。
「叔母さん、その子と一緒に家出したのかも!」
「それだったら『ボス』がそう言うはずだよ。探すときの手がかりになるんだから」
鷹雄君の冷静な意見。
「そうだよね…」
一体あの子は誰だったんだろう…。まあ、鷹雄君じゃくて、叔母さんの子供でもなかったなら大して気にする必要もないか。鈴は頭の中の男の子のイメージを振り払った。
とにかく、今はチカ叔母さんを見つけることだ。必ず見つかる。見つけなくちゃ。
遊園地はかなり広かった。
「ディズニーよりは小さいかな。よかった」
入り口で手渡された園内マップを見ながら呟くと、鷹雄君が目を丸くして言った。
「すごいね、そんなことわかるんだ」
「なんとなくね。何度も行ってるから。こん…」
今度一緒に行こう?と言いそうになって慌てて口をつぐむ。それじゃデートのお誘いになってしまう。
「こん?」
「…今回は遊べないのが残念だね」
「いつかまたこっそり来ようよ」
鷹雄君がさらりと言ってくれて、鈴は思い切って口を開いた。
「ディズニーも行こう?」
鷹雄君が嬉しそうに笑った。
「いいね!」
遊園地は四つのエリアに分かれている。春、夏、秋、冬だ。まず鈴が春、鷹雄君が夏のエリアを探し、一時に中心にある飲食エリアの「クマのハンバーガー屋さん」で待ち合わせることにした。
「ベラさんの連絡先とお金、ちゃんとリュックに入れた?ポケットだと落としちゃうかもしれないからリュックの方がいいよ」
「うん」
鷹雄君に確認されてくすっと笑ってしまった。まるでお父さんみたい。
空色の帽子をきゅっと目深にかぶり、周囲を見回しながら歩く。すぐになんだか絶望的な気分になる。一度にあちこちは見られないのだ。目は二つしかない。しかも二つの目が違う方向を見られるわけではない。見逃したらどうしよう。こんなやり方じゃだめだ。
思いついて、見晴らしのいいところに立ち、通り過ぎる人達を眺めたりもしてみたが、しばらく経つとやはり絶望的な気分になる。一つところにいたんじゃだめだ。全然違うところを今叔母さんが歩いていてそのまま他のエリアに行ってしまうかもしれない。
そうやって時に歩き回り、時に立ち止まって辺りを眺め、ということを何度も何度も繰り返してそろそろ疲れてきた頃、急になんだか首の後ろがぞくりとした。
身体中にじわりと何かが広がっていくような感覚。
その感覚に意識を集中すると、目が自然に左前方に焦点を合わせた。
少し離れたところにあるメリーゴーラウンドの横に、一人の男の子が立ってこちらを見ていた。小学校低学年くらいの男の子。グレイの半ズボン。膝までのダークグレイのソックス。
あっと思った瞬間、その子は後ろを向いて駆け出した。鈴も弾かれたように走り出した。
ダッシュで追いかける。
ローラーコースターの近くで見失う。ゴーゴーいう音。人々の楽しそうな叫び声。
必死で辺りを見回す。
いた!
走り寄ろうとすると、男の子はこちらをちらりと振り向いてからまた走り出した。人の注目を集めたくないから、「待って!」なんて叫べない。男の子の足の速さに舌を巻く。鈴だって足は速い方なのに、男の子の方が小さいのに、なかなか追いつけない。
追いかけては見失い、また見つけて追いかける。そのうち、頭の中がだんだん冷静になってきた。
何してるんだろう、私。探してるのはあの子じゃない。逃げられたからつい追いかけてしまったけど、でも探してるのはあの子じゃないのに。大体、あの子に会ったのは八年前だ。あの時と同じ姿なんておかしい。でも、でも…。どうしてか追いかけなくてはいけないような気がする。捕まえて話を聞かなくてはいけない気がする。
ずいぶん走って気がつくと、なんだか静かなところに来ていた。
丸く刈り込まれた庭木が何本も植わっている。花壇もベンチもあってきれいにしてあるけれど、いかにも遊園地の隅っこという感じの場所。人がいない。
「あっつい…」
呟いて、息を整えながら辺りを見回す。帽子の下の額の汗が気持ち悪い。帽子を取ってポケットから出したハンカチで汗を拭う。
「なんでここにいるの」
後ろから声がしてぎょっとして振り向いた。
すぐ近くの庭木の陰から、あの男の子が出てきたところだった。鈴は息を呑んだ。輪郭が僅かにぼんやりしている。まさか幽霊?
「なんでここにいるの」
男の子がもう一度言った。
喉に詰まった息をごくりと飲み込んで口を開く。
「あなたは誰?」
男の子がじっと鈴を見つめた。傷ついたような眼差し。
「…覚えてないの?名前も?」
「一緒に傘さして歩いたのは覚えてる。あと階段の踊り場でハンカチで遊んだことも」
男の子の口元がほころんだ。
「そうだったね。それで、ここで何してるの」
「叔母さんを探してるの」
「どうして探してるの?」
「叔母さんが家出をしちゃって、お祖母さんが困ってて探して欲しいって頼まれたの」
「なるほどね」
男の子はふわりと微笑んだ。
「僕も探してあげる。叔母さんてどんな人?」
「会ったことないからわからないけど、多分三十代くらいで…、でも今は私の姿をしているかもしれないの。姿を変えられるから」
男の子は頷いた。
「その人なら知ってる。君が探してるって伝えておくよ。今日の午後三時に中央エリアの『マルゴット』ってお店に来て。一人でね」
「私一人で?どうして?」
「どうしても。今朝一緒にいた男の子とはどういう関係?」
今朝?私たちを見てたの?
「…学校の友達」
「ふうん…」
男の子はまるで石を見通そうとするかのように鈴をじいっと見つめたけれど、やがてちょっと肩をすくめて微笑んだ。
「じゃ、三時にね」
そしてさっと身を翻すと、あっという間に駆け去ってしまった。




