怪談/倉庫の女
僕の両親は、とある会社が所有する倉庫の二階に住んでいる。
高校を卒業するまでは、姉と僕もそこに住んでいた。
会社のオーナー社長が父方の親戚で、経済的に恵まれていなかった僕ら家族は、その親戚の温情に縋って倉庫に住まわせてもらっていたのだ。
現在、姉は結婚して同じ市の集合住宅に夫と二人で住んでいる。
僕も学校を卒業して独立し、今は隣町にアパートを借りて一人で暮らしている。
ある年の冬、父から電話があった。『大晦日、久しぶりに家族全員で集まって年を越さないか?』という誘いだった。
それで大晦日の夜、僕は自家用車を運転して実家へ……かつて僕ら四人家族が間借りし、今でも両親が住み続けている倉庫へ向かった。
通りに面した倉庫の前面はそこそこ広い駐車場になっていて、会社の営業日には一日何回もトラックがやって来て荷物を降ろしたり、逆に倉庫からトラックへ商品を積み込んだりを繰り返す。
年末年始は倉庫を所有している親戚の会社も休みになるから、僕ら家族が駐車場に自家用車を停めても文句は言われない。
僕は自分の車を駐車場の端に停め、雪の降る中、倉庫の通用口まで歩いて行って、インターフォンのボタンを押した。
しばらくして通用口が開けられ、中から父が顔を出した。
軽く挨拶を交わし、僕は倉庫の中に入った。
建物の一階は小さな体育館くらいの広さだ。コンクリート打ちっぱなしの床に木製のパレットが何枚も敷いてあり、その上に人間の身長の一・五倍くらいの高さまで段ボールが積み上げられていて、荷物搬送用の手押し台車を通すため、段ボールと段ボールの間には入り組んだ細い通路が走っている。
ガランとした広い空間に段ボールを積み上げて作った迷路のようなものだ。
営業時間が終わると倉庫の照明は消される。
緑色の非常灯だけが、積み上げられた段ボールをぼんやりと照らしていた。
父と僕は、段ボールと段ボールの間を奥の階段まで歩いた。
階段の下には男女兼用トイレと小さな洗面台があって、営業日に倉庫へやって来た社員やトラックの運転手が使用する。
階段を昇った二階には、最初は会社の若手社員たちが住み(小さな独身寮だったらしい)、次に僕ら家族四人が住み、今は両親だけが住んでいる。
その大晦日の夜、僕と両親はコタツを囲んでビールをチビチビやりながら姉の到着を待った。
一階の通用口の方から、扉を開ける音が聞こえてきた。
姉が来たのだなと思った僕は、出迎えに立ち上がろうとする父を制して代わりに立ち上がり、階段を降りて通用口へ向かった。
非常灯の照らす薄暗い倉庫を歩きながら、ふと、こんな事を思った。
(さっき聞こえて来たのは戸の音だったな)
会社の営業時間が終わると、父は通用口に鍵を掛ける。そういう決まりになっている。
訪問者は先ずインターフォンを鳴らして家人を呼び、中から鍵を外してもらう必要がある。
僕も姉も、独立した今は合鍵を持っていない。この倉庫から引っ越すとき父に返した。
つまり姉は、インターフォンを鳴らして中にいる者を呼ばないと建物に入れない……筈だ。
しかし、聞こえて来たのは呼び出し音じゃなかった。通用口を開け閉めする音だった。
鍵が開いていたという事だろうか?
さっき僕が入ったとき鍵をかけ忘れたのかな?
……そうかも知れない。
我ながら不用心だなと思った。
倉庫の反対側に何かの気配を感じた。
そちらに目をやると、段ボールの陰にサッと隠れる人の影が見えた。
細かい人相は確認できなかったが、スカートを履いた痩せ型の女である事だけは分かった。
姉だと思った。
しかし、あんな所で何をしているのか?
僕は「姉ちゃんか? 何やってるの?」と声を掛けた。
反応が無い。
不審に思った。
というより、少し怖くなった。
あの人影は、姉じゃないのかも知れない。
だとすれば、侵入者か?
体重の軽そうな痩せた女に見えたが、侵入者だとしたら、包丁など何らかの武器を手にしているかも知れない。
こんな薄暗い、しかも段ボールが所狭しと積まれた逃げ場の無い迷路のような場所で、いきなり物陰から襲われたらどうしよう、などと想像した。
もう一度「姉ちゃん、そこに居るのか?」と暗い倉庫へ問いかけた。
やっぱり反応は無い。
気配も無い。
だんだん、自分の見たものを信じられなくなった。
目の錯覚か、気のせいだったのかも知れないと思い始めた。
良い年齢をして、暗闇が怖いなどとも言ってられない。
僕は、倉庫の反対側にある通用口を目指して、積まれた段ボールの間の狭い通路を歩こうとした。
その時。
段ボールの陰から飛び出して通路を横切り、ふたたび段ボールの陰に隠れた人影を、今度こそハッキリ見た。
暗くて顔は分からなかったが、姉ではない。それは確かだ。
女は、通用口へ向かっている……と直感した。少し間を置いて、そちらの方から戸を開ける音が聞こえた。
僕は反射的に「待て!」と叫び、早歩きで通用口に向かった。本当は駆け出したかったけれど、こんなに暗くて障害物の多い場所で走ったら、何かに足を引っ掛けて転んでしまうかも知れない。
怖さよりも『侵入者を逃してなるものか』という気持ちが勝っていた。
謎の女は逃げようとしている。つまり僕を恐れている。僕よりも弱いという事だ。あいつは武器なんか持っていない……そんな無意識の計算が働いたのだと思う。
通用口に行ってみると、案の定、鍵は掛かっていなかった。
戸を開けて、駐車場に出てみる。
驚いた。
……足跡が、無かった。
雪は降り続いていた。
さっき僕自身が歩いた足跡は雪に埋もれて消えていた。
しかし、女が通用口から出たのは、たった今だ。
ならば雪の上にはハッキリと足跡が押されていなければ理屈が通らない。
それなのに、謎の女の足跡が無い。
僕が通用口の外で呆然としていると、通りから駐車場に一台の自動車が入って来た。
姉の夫の車だ。僕の車の横に停車した。
助手席のドアを開けて出て来たのは……もちろん姉だ。運転席から姉の夫も顔を出した。
これで、さっきまで倉庫に居た女は姉じゃないと証明された。やはり侵入者だったんだ。
しかし何故、駐車場に足跡が無いのか?
……まさか……幽霊……
それから、僕ら家族は久しぶりにコタツを囲んで鍋を突つき、一緒にテレビを観た。
家族四人『水いらず』というやつだ。
姉の夫は僕ら家族の団欒には参加せず、自分の車に乗って駐車場から出て行った。気を使ってくれたんだと思う。
一階の倉庫で見た謎の女については黙っていた。『足跡の無い幽霊を見た』なんて言おうものなら、姉や両親から『馬鹿馬鹿しい』『目の錯覚だ』『良い年齢して暗闇が怖いのか』……そんな冷やかしの言葉を浴びせられるに決まっている。
日付が変わって新年になった頃、姉が「そろそろ帰るわ」と言い、携帯電話を出して夫を呼んだ。
二十分後、迎えに来た夫の車に乗って姉は帰った。(あるいは、そのまま二人で初詣にでも行ったかも知れない)
僕は、久しぶりに実家に泊まった。
部屋の明かりを消し、布団に入って、さっき倉庫で見た女の事を考えた。
侵入者だったのか? しかし雪に足跡が無かったのは何故?
やっぱり幽霊だったのか?
そこで、気づいた。
僕が見聞きしたのは、通用口に向かう女の影と、扉を開け閉めする音だけだ。
女が外へ出た瞬間を直接この目で見たわけじゃない。
仮にその女が、外に出たように錯覚させるため戸を開け閉めする音だけを僕に聞かせ、実際には外へ出なかったのだとしたら?
今でも一階の薄暗い倉庫のどこかに隠れているのだとしたら……