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碧風侠客伝~お転婆★武芸娘 はじめての江湖

作者: 卯月

金庸、古龍、井上祐美子にはじまる、中国の武侠小説が大好きで、(近くに語り合う同志もいないので自己満足のため)書きました。

数年前(10年前?)に書いたものなので……

間違えている箇所があったらご容赦ください。


師父しふ…師匠の意味

師兄しけい…同門の兄弟子の意味

小師妹しょうしまい…同門の一番下の妹弟子の意味

・江湖…武芸者や無頼漢、侠客が幅を利かせる、アウトローの世界

柳葉刀りゅうようとう…刀刃から刀首まで柳のように細長く湾曲した刀

九節鞭くせつべん…鉄製で九個の短鞭が鉄輪で組み合わさって出来ている武器

流星錘りゅうせいすい…紐の両端に重り、錘がついた武器

飛刀ひとう…投げて使う短刀

暗器あんき…手裏剣などの投げる武器


 空は水晶のように澄み切り、トルコターコイズのように碧く輝いていた。

 そんな空の下で、高い声が響き渡った。

師兄にいさん、待って。待ってったら」

 一人の少女が、街がある方角から草原を駆けてくる。

 先を歩いていた青年が振り向いた。年は二十代前半、精悍な顔立ちの若者である。青年は少女が両腕で抱えている紙袋に目を留めると、げんなりとした声を上げた。

「やけに遅いと思ったら……。何をやってるんだ、おまえは」

「何って……肉饅頭にくまんじゅうでしょ、焼餅やきもちでしょ、練り飴でしょ……」

 少女は紙袋から、先ほど街で買ったばかりの食べ物を取り出していく。

 青年は大きくため息をついた。

「……そうじゃなくて。一体俺たちは何をしに山を下りたと思っているんだ。遊びに来たわけじゃないんだぞ」

 少女は口をとんがらせた。

師父しふに頼まれたお使いなら、もう済ませてきたでしょ。少しぐらい遊んで行ったって罰は当たらないわ。私、これが初めての下山なのよ」

「時間がないだろ。あとひと月で師父の誕生日なんだから、それまでにもどらなくちゃならない。――それに小師妹しょうしまい、師父へのお祝いの品はもう決めたのか」

「まだなの……。李師兄りにいさんは決めた?」

「ああ」

 青年が頷いた。

「なぁに?」

「山水画だよ。以前師父が求めていたものを、探し当てたんだ」

「李師兄は書画に詳しいものね。大師兄と二師兄は何にしたのかしら?」

「一番上の徐師兄じょあにきは、どんな傷や毒でもたちどころに治ってしまうという、万命丸だろ。二番目の陸師兄りくあにきは、西域の医術書だって言ってたよ」

「そう……。私、何にしよう」

 少女は、難題にでもぶつかったかのように、空の一点をじっと見つめて考え込んだ。

 青年はその様子を見て、笑って言った。

「ま、小師妹はまだ小さいからな。どんなものでも、師父は喜んでくださるだろう。このまえまで大事に取っていた藁の人形なんかはどうだ?」

 少女は、キッっと青年を睨みつけた。

師兄にいさん。私もう、それほど小さくはないわ。十四よ。藁の人形なんかもうとっくに捨てたわ」

 青年は宥めるように、手を上げた。

「怒るな、怒るな。それより、山にもどったら何もないだろ。この旅の途中にさっさと決めちゃえよ」

 少女は頷くと、黙ったまま歩を進めた。

 この少女、名を柳明鈴りゅうめいりんと言う。終南派しゅうなんはの末の女弟子である。柳明鈴と肩を並べて歩いている青年は、同じく終南派の三番弟子で、柳明鈴より一つ上の兄弟子、李真りしんであった。

 終南派しゅうなんはは、周桂寛しゅうけいかんが開いた武芸の門派である。

 周桂寛は往年、自ら立てた剣法をもって悪をくじき、義をもって人を助けていたことで、江湖に名を広め、人々からは尊敬されていた。

 壮年になってからはもっぱら西北の終南山にこもって技を研鑽し、その地に終南派を開いた。そして老年になって初めて弟子をとったのであった。

 周桂寛は武芸の他に、書画骨董を愛し、医術にも広く通じていることから、人々からは万端先生と呼ばれていた。

 一月先は、その周桂寛が還暦を迎えるのであった。騒がしいことが嫌いな周桂寛の性格から、各地の英雄好漢を招いての大きな祝賀会は開かずに、ごく内輪の、内弟子たちだけ集まって、お祝いをしようということになったのである。

 周桂寛に地方への使いを頼まれて下山をしていた李真と柳明鈴は、そのために帰路を急いでいたのだ。

 二人が、街から遥かに遠ざかり草原を抜けて、雑木林にさしかかったとき、馬の嘶きと、激しい剣戟の音が聞こえて来た。

師兄にいさん

 柳明鈴が、きらきらした瞳で李真を振り仰いだ。李真は、柳明鈴の言わんとしていることを悟り、苦い顔で首を振った。

「だめだ」

「まだ何も言ってないわ」

 柳明鈴は頬を膨らませた。

「何が起きているのか、ちょっと覗いて行こうとでも言うつもりだったんだろうが、だめだ。あいにく、俺たちはそんなやっかい事に付き合っている暇はないんだ」

「少しだけだから」

 柳明鈴は声を張り上げた。

「通り過ぎざま、ちらりと見るだけでいいから。師兄さん、お願い」

「置いていくぞ」

 そっけなく断られて、柳明鈴は口をつぐんで立ち止まった。

 終南山でようやく一通りの武芸を修め、江湖に初めて下りて来たのだ。柳明鈴は武芸の腕を試したくて仕方がない。それなのに、使いを果たして帰路についたこれまで、江湖の刃傷沙汰には一度もお目にかかれていないのだ。内心鬱憤が溜まっている。

 そこへ、林の中から女性のものらしき甲高い叫び声が響き渡った。

 柳明鈴は飛び上がって喜び、しめたとばかりに前を歩いていた李真に追いつくと、有無を言わさず彼に向かって捲し立てた。

師兄にいさん、女の人が窮地に陥っているわ。これは人助けよね。師父も日頃から、困っている人がいたら何をおいても駆けつけろ、って言っているし、すぐさま助けに行かなくちゃいけないわ」

 それだけを言うと、李真の返答を待たずに、声がした方へ鹿のように駆けて行った。たちまちの内に、柳明鈴の後ろ姿は木々に遮られて見えなくなった。

「……」

 自分の他には誰もいなくなった草地の中で、李真は一人天を仰ぐと大きなため息をついた。


 林の中の開けた場所に、一台の馬車が停まっていた。それを取り囲んでいるのは、すり切れ汚れた衣装を身に纏った三人の男たち。一目で堅気でないことが分かる男たちだ。その男たちの内の一人は、一人の華奢な少女を取り押さえており、他の二人は一人の壮年の男と戦っていた。周囲の地面には、数名の男たちが倒れていた。この以前にも一戦あったと思われる。

 男二人と対峙している壮年の男は、豪傑という言葉がよく似合う男だった。

 がっしりとした体躯に、衣の上からでも分かる筋肉、日に焼けたちゃ色の肌。

 馬車を背にして槍を構え、両横から繰り出される柳葉刀りゅうようとう九節鞭くせつべんに、猛烈な打撃を仕掛けていた。

 柳明鈴は高鳴る胸を抑えて、少し離れた岩陰からその様子を覗いていた。

 身なりの悪い三人の男たちは、ここら一帯の盗賊であろう。彼らに捕らえられている少女はその豪華な衣装から、中央の官僚の令嬢に違いない。

 とすれば、一人で盗賊たちと対している壮年の男は、少女の用心棒だろう。あらかた官僚の令嬢を護送中、盗賊に襲われて、男以外の護衛が全滅。こうして今に至ったに違いないだろう。

 それにしても、三人の盗賊はどこか面妖であった。

 刀を振り回しているのは、恐ろしく痩せた男であった。顔は特に痩せこけ、血色が悪く、青白い。三角形を逆さまにしたような輪郭をしており、肩まで長くくねった髪の毛を頬にまとわり付かせている。

 隣で九節鞭を振るっている男は、がっしりとした体格をしているものの短躯で、痩せこけた男の半分くらいしか身長がない。顔は四角く、石のようであった。

 そして、少女を捕らえている男は、並外れて太っており、顔も身体も丸く、紙風船のようであった。

 柳明鈴は知らぬことだったが、この三人の盗賊は義兄弟の契り(血はつながっていなくても、生死を共にするという誓い)を交わしており、一番上が逆三角の顔をした男、充雷同じゅうらいどう、次が丸い顔をした男、王超威おうちょうい、一番下が四角い顔をした男、楊業ようぎょうで、地元の人々から「壊山(山を壊すほどの力をもつ)三兄弟」と呼ばれ怖れられていたのだ。

 用心棒の男は、彼らの内二人を相手に必死で槍を振るっていた。

 男の槍さばきは凡庸なものではなかったが、いかんせん二対一である。

 逆三角形(充雷同)の空気を両断する柳葉刀と、四角い顔(楊業)の鋭い音を立てて空気を舞う九節鞭に、徐々に押され始めた。

 槍を縦横にくり出し、双方の隙を狙う。が、左から襲いかかって来る九節鞭の先端の鉄棒を、槍頭やりさきで打ち払おうとしたとき、その威力に押されて、右からかかってきた刀への防御が遅れた。刀を振るう三角形の顔の男、充雷同はその隙を見逃さず、男の空いた身体に向かって刀を振り落とした。

「きゃぁーっ」

 少女の悲鳴が上がった。

 男は、避けきれず太腿に刀傷を受け、血を流して地面に膝をついた。刀が容赦なくそこに振り落とされようとした。

 ――そのときだった。

「待てー」

 裏返ったような高い声がした。見ると、馬車の陰から、一人の少年が現れた。金の豪華な刺繍を施したふくを着ている。

「兄さんっ」

「出て来るな」

 少女と用心棒の男が同時に声を上げた。

 姿を現したのは、少女の兄であった。今まで、馬車の陰に隠れて様子を窺って――いや怯えていたらしい。

 柳明鈴はその様子を見て、クスリと小さく笑い声を漏らした。

 少年は、勢いよく豪華な装飾で彩られた剣を構えて出て来たものの、両足はガタガタ震えているし、腰も浮いていて隙だらけである。とてもじゃないが、剣を振れそうにない。

 それでも、少年はようやく声を出して言った。

「妹を放せ」

 歯の根が合っていないその声に、賊たちは顔を見合わせた。ニヤニヤした表情を浮かべ、少女を捕らえていた丸顔の男(王超威)が言った。

「放さなかったら、どうするって言うんだ?」

「ゆ、ゆるさないぞ」

 少年は後ずさりながら言った。

「下がっておるのだ」

 用心棒の男が少年に向かって怒鳴った。男の脚からはなおも血が滴り落ちている。

「兄貴、ちょっと相手してやりましょうぜ」

 丸顔(王超威)が、逆三角形(充雷同)に向かって言った。

「ほどほどにしろよ。ささっと金品を奪っちまって去るぞ」

 逆三角形(充雷同)は青白い顔を顰めると、馬車の方に向かって行く。

 丸顔(王超威)は、へへッと笑った。捕らえていた少女に縄を掛け、近くの木に縛り付けると、剣を構えたままの少年の方に向き直った。腰に差していた二つの大きな斧を両手に持つと、言った。

「かかってこいよ」

 少年は蒼白となって、震えている。

「こっちからゆくぞ」

 丸顔(王超威)は丸く大きな鼻で笑うと、二つの斧をくり出した。

 またもや少女の叫び声が響き渡る。

 だが、振り下ろされようとしていた斧は、少年に擦りもしなかった。丸顔(王超威)は突然、その場にどっと倒れこんだのであった。

 見ていた側は、どうして王超威が倒れたのか分からない。震えていたはずの少年が何かしたのだろうかと目を見張っていると、怒りで丸い顔を真っ赤にした王超威が周囲を見渡して叫んだ。

「誰だ。出て来やがれ」

 実は、斧が少年に当たりそうになったとき、陰からそっと成り行きを見守っていた柳明鈴が、地面にあった小石を掴んで丸顔(王超威)に向かって投げつけたのだった。小石は、ちょうど王超威の右足の膝裏にある経穴つぼに当たり、彼は地面に倒れたのだ。

 柳明鈴はクスリと笑うと、岩陰から人々の目の前に飛び出した。

 突如現れた若い少女の姿に、人々は一様に目を見張った。

 けれども賊たちはすぐに喜色を顔に注いだ。

「また威勢のいいのが飛び込んで来たぜ」

「また売り飛ばす女が一人増えたな」

「へへ」

 足を負傷して地面に膝をついていた用心棒の男が叫んだ。

「構わず、逃げろ。相手は賊だぞ」

 しかし、柳明鈴は微笑んだまま取り合わない。

「おじさんたち、怪我をした人と女子供相手に多勢は卑怯だわ」

 三人の賊に向かって言った。

「じゃぁ、お嬢ちゃんが相手をしてくれるのか?」

 丸顔(王超威)はニヤニヤしながら言った。

「ええ」

 柳明鈴は破顔すると、腰に巻いた袋から、鞭の両端に拳ほどの大きさの錘のついた流星錘りゅうせいすいを引き出した。

 そしてそのまま鞭を持って身体の側面で旋回させた。「彩蝶双飛さいちょうそうひ」の型である。鞭は棒のように固くなり、その先についている錘がビュウビュウと音を立てる。そうして繰り出されたえものは、丸顔(王超威)の目の前を蝶のように通り過ぎた。

 一瞬の出来事だった。

 丸顔(王超威)はアッと声を上げた。両手に持っていた二本の斧の刃が、飛んで来た錘によって叩き割られたのだ。

「おのれ……」

 丸顔(王超威)が怒声を上げた。

「俺が相手だ」

 いきり立つ丸顔(王超威)を手で制して、逆三角形(充雷同)が飛び出して来た。

 右手に柳葉刀を手にしている。「狼吠於月夜」の構えで、刀を振り下ろした。

 柳明鈴はその刀先を受け流し、流星錘で反撃する。身体の四方で旋回する流星錘の威力はますます凄まじいものとなり、隙など生じようもない。

 しかし、逆三角形(充雷同)は受けるのでもなく、避けるのでもなく、旋回する流星錘に向かって刀を振り下ろしたのだ。

 今度は柳明鈴が声を上げた。

 錘は刀によって見事に叩き割られて、砕け散ったのであった。

 錘は一つで七斤の重さがある上、旋回することで遠心力が加わっている。それを叩き割るとは、この刀、尋常ではない。

(なんという名刀だ)

 一同は目を見張った。

 柳明鈴のまん丸く見開かれた目からは、自慢の流星錘を壊された悔しさで、涙がわき上がって来た。

 しかし敵は待ってはくれない。流星錘を破壊した勢いで、刀が柳明鈴の上に降り掛かる。

 柳明鈴は割れていないもう片方の錘を振り回そうとしたが、間に合わない。風の唸りを感じて思わず目を閉じた時、カンという音と共に、突き出された刀の刃が向きを変えた。どこからか飛んできた飛刀ひとうが、逆三角形(充雷同)の持つ刀柄にあたり、逆三角形(充雷同)は刀を落としかけたのだ。

師兄にいさん

 飛刀が飛んできた方向を見遣って、柳明鈴は声を上げた。

 果たしてそこには、李真が居た。木に縛られていた少女の縄を解き、柳明鈴の窮地に、咄嗟に飛刀を投げたのだ。

「師兄。……あいつらをやっちゃって」

 今までの威勢はどこへやら。鼻を折られて泣きついてくる師妹いもうとに李真はため息をついた。

 しかし次に大きく息を吸うと、逆三角形(充雷同)に向かった。

 すぐ横では怪我を負った用心棒の男と、四角い顔(楊業)が無言で槍と九節鞭を対峙させていた。

 逆三角形(充雷同)は、柳葉刀に飛刀が当たってはじかれた時から、相手が一方ならぬ武芸者であることを悟っていた。

「何者だ」

 青白い顔に血管を浮き出させて充雷同が尋ねた。

「性は、名はしんと言う者だ」

 李真はそう言うなり、微笑むだけだ。

「兄貴、助太刀するぜ」

 横から丸顔(王超威)が口を挟んできた。手には刃の欠けた斧を持っている。それで切ることは出来ないが、叩き割ることは出来るのだ。

 李真は、鞘から一振りの剣を抜き放った。

 李真と逆三角形(充雷同)は正面から向き合い、互いに好機を探る。そして双方ともに息を呑んだかと思うと、同時に飛びかかった。

 風を切り裂くような充雷同の刀に対して、風の隙間を縫うようにして李真は剣で刺突を送る。

 その動きは乱雑に見えながら、幾分の隙もない。相手の太刀筋の合間に分け入って懐に突っ込んで行く。

 充雷同が刀で薙ぎ払おうとすれば、李真は充雷同の死角に忍び込み、剣を突きつけるのだ。充雷同の青白い額からは、冷や汗が流れ落ちた。

 実は李真が使うこの剣法、終南派の奥義であった。名付けて「風息機剣法」。風を読み、風の勢いに沿って剣を舞わせて攻撃をする。

 さすがの名刀でも、持ち主の腕前は尋常。この動きには対処出来ず、逆三角形(充雷同)は徐々に押されて行く。

「兄貴!」

 丸顔(王超威)は助太刀をしようと、李真に向かって斧を振りかざそうとした。

――そのとき、はたまた地面に膝をついた。見ると柳明鈴が彼に向かって舌を出している。彼女の放った小石が、今度は左足の膝裏の経穴(つぼ/点穴……つぼを押すことによって打撃を与える)に当たったのだった。

 低いうめき声がその場に響いた。

 李真が、逆三角形(充雷同)の左肩を剣で突き刺したのであった。

 彼の青い袍の袖の部分はみるみる内に血で黒く染まっていく。逆三角形(充雷同)は右手で左肩を抑えて後ずさった。

「兄貴」

 悲鳴を上げて、びっこをひいた丸顔(王超威)と、用心棒と立ち合っていた四角い顔(楊業)が駆け寄って来た。

「いったん、退くぞ」

 逆三角形(充雷同)は顔を歪めてそう言うと、近くの木に留めてあった馬に駆け乗り、林の奥へと駆けて行った。王超威と楊業もその後に続いた。


「ふう」

 一難去って、李真は息をついた。

 馬車の正面では、少年がいまだに震えていた。その横では、捕らえられていた少年の妹が、兄へ心配そうに声をかけていた。

 李真は、倒れている用心棒の男の方へ歩み寄った。脚の怪我に、懐から取り出した終南派直伝の傷薬を塗って、布で縛ってやった。

「かたじけない」

 用心棒の男が低い声で言った。

「危ないところを助けていただき、お礼を言う。それがしは、範高一はんこういつと言う者。今は中央の官僚、張家の用心棒をしておる。出来れば貴殿きでんのお名前を伺いたいのだが」

 李真は慌てて頭を下げた。

「申し遅れました。私は終南派の三番弟子、李真と申します。」

「ああ、万端先生のお弟子さんであったか。道理で」

 範高一は、長く伸びた顎鬚を右手で撫でながら「うんうん」と頷く。

 李真は、微笑んだ。少し離れたところにいた柳明鈴を指して言った。

「そこにいるのは、妹弟子の柳明鈴と……」

 言い終わらない内に、柳明鈴が二人の目の前に駆け寄って来た。

「柳明鈴と申します。失礼ですが、おじさまの馬をちょっと貸していただけないでしょうか。すぐ戻って来ますので」

 範高一が頷く前に、また李真が止める間もなく、柳明鈴は近くの木に繋いであった馬に飛び乗ると、疾風のごとく林の奥へ消えて行った。

その様子を範高一と李真は唖然と見遣った。

(あのお転婆が)

 李真は心の内でがっくりと項垂れた。

「申し訳ございません。師妹いもうとがご無礼をいたしました。なにぶん、数日前に世間に出たばかりで、道理を全くわきまえておりませんで……」

 李真は謝りながら、どうして自分がこんなことをしているのかと心底疑問に思った。そして、どうして他の師兄あにではなく自分がこのじゃじゃ馬な師妹のお守りを申し付かったのかと、悔やむともなく悔やんだのである。


 柳明鈴はと言うと、賊が逃げた方向への馬を走らせていた。それにしても、用心棒から借りた馬は、駿馬しゅんめであった。その脚力は尋常ではない。足場の悪い雑木林の中でも、草原を駆けていく様子でスピードを上げて行く。

 林の中は一本道であった。たちまちの内に、木に馬を繋いで木陰で休んでいる賊たちを見つけた。

 馬で駆けながら、柳明鈴は懐から小袋を取り出した。

「おい、これを受けてみろ」

 言うなり、賊に向けて小袋を放った。小袋は暗器あんきのように風を切って飛んで行く。

 いきなりの攻撃に、逆三角形(充雷同)は咄嗟に刀をかざした。小袋が刀の刃に当たった。小袋が破れ、白い粉が辺りを舞う。視界が阻まれた。

「しまった!毒砂どくかもしれんぞ!」

 充雷同が恐怖に引きつった声を上げた。彼らは急いで袖で鼻を覆った。喉の奥から痺れが這い上がってくるようだ。

 そこへ、逆三角形(充雷同)の握っていた刀に、飛んで来た流星錘が巻き付いた。その鞭先はしっかりと柳明鈴が握っている。

 普段なら、このまま刀を引っ張って相手の得物まで奪ってしまえる逆三角形(充雷同)なのだが、今は鼻のむずつきと恐怖で上手く力が出せない。

そこで刀から巻き付いた鞭を剥がそうと、鞭に手を伸ばした。途端、手の先に粘ついたものが触れた。その粘ついたもので、鞭と刀はしっかりと接着されていたのだ。

 逆三角形(充雷同)は舌打ちをした。

 口を開いた途端、喉の奥からくしゃみがわき上がってきた。彼は思わず大きなくしゃみをした。

 刀に込められた手の力が一瞬緩んだ。柳明鈴は、その機を逃さずにすかさず流星錘を引っぱり上げた。

 刀は充雷同の手から離れ、流星錘にくっついて宙を舞い、馬上にいた柳明鈴の手の内に収まった。柳明鈴はニヤリと笑って馬を翻し、逃げる体勢をつくる。

「くそっ、逃がすか」

 逆三角形(充雷同)は声を上げた。

「ん、ん、っしゅ、あ、あにき!」

「あぢき!」

 そのとき、木に繋いであった馬の手綱をほどいて、丸顔(王超威)と四角い顔(楊業)が叫んだ。こちらもくしゃみを連発しながらである。

 逆三角形(充雷同)が声を上げて馬に駆け寄る。

 そうはさせまいと柳明鈴。

 丸顔(王超威)と四角い顔(楊業)、逆三角形(充雷同)が馬に跨がる間合いを計って、左手では先ほど真っ二つに割られた錘を丸顔(王超威)と四角い顔(楊業)の乗った馬の尻に放ち、右手では刀が付いた鞭の端を掴んで、鞭のもう片方に石をくくり付けた流星錘を逆三角形(充雷同)の乗った馬の尻に放った。

 突然尻に痛みを感じて驚いたのは、彼らの乗った馬である。鳴き声を上げて仁王立ちをしたかと思うと、馬たちは暴れながら林の中へ散らばって走り去って行った。

 賊たちはと言うと、馬に振り落とされないよう、必死になって鬣を掴んでいることしかすべがなかったのである。

 四方へ走り去って行った馬と賊たちを見遣って、柳明鈴は一人でひとしきりに笑った。これで流星錘を割られた鬱憤が晴れたというものである。

 しかも、名刀まで手に入れることができた。彼女の機嫌は、最高に良かった。

 柳明鈴は近くに流れていた小川の傍まで行くと、火打ち石を懐から取り出してそこで火をおこした。火が燃え上がると、その上に流星錘にくっついた刀をかざした。

すると、どうだろう。流星錘と刀を接着していた透明のネバネバしたものが溶けて、水のように流れていくではないか。

しばらくすると刀と錘が完全に別個のものとなった。柳明鈴は、刀を小川の水に浸し、きれいに洗った。日に照らしてみれば、元の鋭利な刀であった。

 実はこれ、柳明鈴の悪ふざけであった。自慢にしていた流星錘を割られて怒り心頭に達していた柳明鈴は、その恨みをはらすだけではなく、なんとかして逆三角形(充雷同)の刀を奪ってしまおうと考えたのだった。

割られた流星錘の代わりに、鞭の端に小石を包んで丸めた布をくくり付け、その周りに練り飴を幾重にも塗りたくる。そう、逆三角形(充雷同)が刀を触れたときに感じたべたつきの正体は、この練り飴だったのだ。

……そして、練り飴を塗りたくった流星錘に刀をひっつかせて奪い取るという、柳明鈴の子供じみた企みは、見事成功したのだった。


 名刀を携え、悠々と馬に乗ってもどってきた柳明鈴を見て、李真はやはりなと、ため息を吐いた。

「豪快な娘さんだ」

 範高一が手を叩いて迎えた。

 柳明鈴は微笑んだ。

「先ほどは失礼をいたしました。馬をお返しします。どうも有難うございました」

 馬から降り、手綱を持って返そうとすると、範高一はそれを押しとどめた。

「万端先生のご高名はかねがね伺い、敬服しておった。ずっとお近づきになりたいと思っておったが、なかなか機会を得ないでいたのだ。それが弟子のおぬしらと出会って――、しかも近々先生はご還暦だというではないか。すぐさま駆けつけたいのだが、まだ護衛の仕事が残っておっての……」

 範高一は、重々しい息を吐いた。

「……その代わりと言っては些少で心苦しいが、お祝いにこの馬を差し上げたいのだ」

 それを聞いた柳明鈴は大喜びである。このような名馬、なかなか手に入れられるものではない。

「きっと師父(周桂寛)も大層喜ぶでしょう」

 李真は礼を言って、馬を受け取った。

「では、わしらは先を急ぐのでな」

 範高一は、縮こまっていた張家の兄妹を、無事だった馬車に押し込むと、自分は馭者席に座り、鞭を取った。

 それを李真と柳明鈴が見送る。

「またお時間が空いた折には、終南山にお寄りください。範殿を終南派一同、歓迎いたします」

 馭者席から、範高一が答えた。

「では、近いうちに寄らせていただくとしよう。周先生によろしくお伝え下され」

 そうして馬車は林の奥に消えて行った。

師兄にいさん

 今まで口をつぐんでいた柳明鈴が、声を上げた。

「駿馬も手に入ったし、師父へのお祝いの品も手に入ったし、江湖って最高ね」

 大きく破顔して、李真を振り返った。柳明鈴の手には、賊から奪い取った刀の刃が日を浴びて輝いている。

 李真はと言うと、何とも言えない、奇妙な表情をしていたのである。

 もうどうにでもしてくれ、とでも思っていたのかもしれなかった。

「師兄、早く」

 そんな李真の鼻先に声が届いた。顔を上げると、柳明鈴はすでに五十歩ほど先を歩き、李真を手招きしている。

「早く、帰りましょう。早く師父にこの刀を差し上げたいわ」

 笑い声を含んだ明るく高い声が、碧い風になびく。

 李真は、すでに何回目とも分からないため息をついて、柳明鈴の後を追ったのであった。

                   完

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