第8話
なんなの? この生き物? 私は夢を見てるの?
困惑する私をあざ笑うかのようにダリが、ケケケ-ッと雄叫びを上げる。
台形の身体を、口をあけるようにパカッと二つに割り、
カメレオンのような長い灰色の触手を伸ばし出した。
「あぶないっ!」
次の瞬間、彼がダリに飛びかかり、ダリの触手と格闘する。
「ど、どうなってるの? この化物は何?」
「早く! いいから、早く! ここから逃げるんだ!」
私が話しかけた事でダリから注意をそらした彼。
ダリはその隙を見のがす事なく、確実に触手を彼の首に巻き付けた。
「ぐわっ!」
見ているしか、なかった。見ているほか、なかった。
ダリの触手は彼の首に巻き付き、そして締め上げた。
何秒首を締めていたのだろう。しばらく彼は必死に抵抗を続けてが、
やがてぐったりして手をプランと落としてしまった。
ウソ? ホントに? こんなに、こんなにあっけないの?
しまった、やっちゃった。大切な時に、肝心な時に、しでかしてしまう失敗。
なんでこんな時に、よりによって、とテレビや映画でよくある展開。
私は悔しかった。彼を殺したダリが憎いんじゃない。
自分だ。自分さえ、この部屋にもどらなければ、彼は死ななかったのに!
でも、仕方ない。部屋にもどった理由、それはタケルからの大切な手紙を取りに
行くためだった。混乱する私に追い討ちをかけ、もっと混乱させる事が起きた。
私は、自分の耳を疑った。空耳ではないかと思えた。
だが、それは空耳ではなかった。自分の耳を疑った理由、
それはダリが、この異様な台形の奇妙な生き物が「言葉」を発した事だった。
それは、そう、私たち「人間」の言葉だった。
「…見ツケたぞ。こんナトコロに隠レテいたノカ…。」
それは間違いなく、人間の、私たち人間の言葉だった。
発音が少し変だったが、ちゃんと聞き取る事ができた。
ヒステリックなかん高い声だが、聞き取れてしまった。
私は、何がなんだかわからない。思わず耳を両手でふさいでいた。
だが、私の眼は、灰色の長い舌をクルクル回し威嚇してくるダリの姿を凝視して、
けっしてはなそうとはしない。
「…ありえないっ! 絶対ありえないっ!」
私は叫ぶしかなかった。今のこの状況で他に何をしろと言う?
私は目の前の現実を認めたくなかった。だが現実は非情である。
目の前に立つダリが追い討ちをかけるように口を開いた。
「やット見ツケタ! ヤっと見ツケタぞ! ケケケケケッ!」
人を食った笑い声に、私はカチンときた。
こんな化物に、こんなオブジェのような物体に、バカにされてたまるか!
「なんだよ、てめえ! 何か私に用かよ? お前、ふざけんな!」
私の精一杯の挑発を、ダリはちっとも聞いてはいなかった。
「ケヶヶ! 本当ハ、お前ノ父親ヲ先に殺スのが、優先課題ダッタが、
順番はコノ際、どうデモいい。我々ノ目的は、オ前の父ト、
お前ノ抹殺ダカラな。グへヘ!」
「グへヘ! じゃねえよ! この置き物のオブジェ! 父の、父の抹殺だと?
おめえバカじゃねえのか? 父さんは、私のお父さんはもう生きてねえよ!
遠い昔にもう死んじまったよ!」
そもそもおかしい。なんで私は、こんな変な異形の物体と会話しているのか?
私の罵りに答えたダリの言葉は、見事にコミュニケーションが
成立していなかった。そもそも会話なんて成り立つはずはない。
だってこいつは、化物だから。
「…実の娘ニ自分の居場所ヲ教えナイトハ…サスガだな。ケケケケケッ!」
「てめえ! ダリのオブジェ! 何言ってんだよ! お前、ボケてるんだろ?
人違いじゃねえのか? 私にはもう、お父さんなんか、いねえよ!」
仮に人違い、だったとしても、とても嬉しい話とは思えない。
ダリは、灰色の長い舌をクルクル回し、標準を定めながら喋り続けた。
「…動くナヨ。コレ以上我々をテコずらセルナ。」
「何を言ってんだよ? お前!…お前はいったい何者なんだよ?」
ダリは、かん高い笑い声をいっそう高く上げて、笑った。
そう、私には、笑って見えた。
「貴様に、知ル必要は、ナイ。」
シュッ、と言う音をたてて、ダリの長い舌が、私の首に巻き付いた。
ヌルッと言う感触が首にまとわりつくと、次の瞬間、痛く、苦しくなる。
声をあげようと思ったが、とても声が出る状況ではなかった。
苦しい。グイグイ締まる。気が遠くなる。意識が薄くなる。
こうやって私は、わけのわからないダリの オブジェに殺されて
しまうのか? 普通、こういう時って、助けが入らないか?
私は、そうあってほしかった。私は心の底から、そう願っていた。
「うおおおおーっ!」
助けは来た。彼は殺されてはいなかった。
彼は気を失っていただけだった。
まさによくある展開だが、私には嬉しかった。
すべてこうあって欲しい。
彼は必死の形相で、ダリに飛びついた。
私を脅す時に使ったナイフを振りかざし、私の首を締める灰色の舌を
切り裂いた。
「シシェエエエー!」
灰色の舌から、油のような黒い血をあたりにまき散らしながら、
ダリは身体全体をバタバタさせて苦しんだ。
「さ、早く!」
彼はまるで王子様のように、私の首から力がなくなって垂れた舌を
ふりほどき、私の手を取り立たせてくれた。
頼もしい、そうじゃなくっちゃ!
でも世の中はそうも上手くは行かなかった。
悪鬼のごとく怒りに燃えたダリは、彼の背後から襲いかかり、
二人は激しくもみあった。
「…早く! 早く逃げろ!」
「そんな事言ったって、こんなんじゃ逃げらんないじゃん!」
「俺の事は、いいから! 早く、君だけは早く逃げてくれ!」
「何言ってんだよ? こんな時に! 置いていけるわけないだろう?」
「逃げろ! そして生きろ! それが君の、君の使命なんだ!」
「わっけわなんねーよ! ヒーロー気取りしてんじゃねーよ!」
私は気がつくと、近くにあったコンクリートの塊を持ち上げ、
背後から何度も何度もダリの身体にたたき付けていた。
黒い油のような、ダリの血が、私の顔に飛び散る。
ダリは、今まで出さなかったような、カワイイ声を上げて、絶命した。
快感。
ちょっとだけ、快感。倒れている彼に手を差しのべて、私は口を開いた。
「さ、いきましょ!」
がっしりつかみあう、二つの手。
「ちゃんとこれからも、私の事、守れよな。」
「…さすがは、指導者の子供だけあるな…。」
「何わけわかんない事、言ってんだよ?」
「とにかく、急ごう!」
走った。二人はひたすら長い廊下を、走った。
離れないように、迷子にならないように、私は彼の手を、
しっかりと握りしめた。
私は、こうやってタケルとフィールドを走りたかった。
大勢の観衆の中、歓声をあびて、タケルと走りたかった。
だが今は、私を守ってくれる寡黙で素敵な彼と、長い廊下を走っている。
タケルには悪いけれど、今、この瞬間は幸せな気持ちでいっぱいだった。
私が走る理由。私が陸上部で走る理由。
それはたぶん、何かを忘れたかったから。
突然、私の、私と母の前からいなくなってしまった父。
探しても、探しても、見つからない父。
母は、父がいなくなった理由は教えてくれなかった。
お母さんも好きだが、もちろんお父さんだって、大好きだ。
でも、いない。いなくなってしまった。
さびしい。考えたくない。
だから、私は、走ったのだと思う。
イヤな事を、悲しい事を忘れるため、全力疾走で走っていたのだと思う。
私が昔、何度か万引きをしていた理由。
それは、誰かに助けてもらいたかったから。
父がいなくなってから、お母さんが必死に働いてくれた。
来る日も来る日も、お母さんは働いていた。
中学の時、陸上部の部活で遅くなって家に帰っても、お母さんはいなかった。
万引きは、よくない。
私のために働いているお母さんには、悪い事をしたと思う。
でも、誰かに助けてほしかった。誰かに、気づいて欲しかった。
だが、もうそんな事はしない。
今度は、私がお母さんを助ける番だ。
病気で入院しているお母さんを、私が助ける番だ。
しばらく走って、長い階段を駆け上る。
こんなところに、階段があったんだ。以前逃げて走った時は、
見つけられなかった。でも、今はそんな事はどうでもいい。
早くここから逃げ出して、わけがわからない状況から脱出して、
お母さんに、そして早くタケルに会いたいっ!
だが、私の希望はかなえられなかった。
そんな、小さな小さな夢ですら、かなえる事ができない事実を知った。